そのはてに
ゆっくりと、瞼を開く。
すでに教室は、闇に包まれていた。
――誰も、いない。
聞こえるのは、遠く、車の音と、風の音ばかり。
ばかりと開いた携帯の画面は、すでに20時を回っていることを美桜に伝える。
――着信も、メールも、ない。
やはり、こんなものか、と、ほろ苦い気分で笑う。
す、と、視線を窓辺へとずらせば、雨はすでに止んでいて。
うすらと雲の向こうに、朧に霞む月が見えた。
帰れない。
――帰らない。
かえりたく、ない。
ずっとそう想っていた。けれど、帰る場所は、あのアパートで、確かに、どれほど辛くともあそこが美桜の居場所だった。
――居場所だと、想っていた。
でも。
もう、帰れない。
帰りたく、ない。
現実的には、まだ美桜は未成年で、保護責任は母にあって、帰らないわけにはいかなくて。
だけどそれでも――あの、苦しい居場所に、もう、戻りたいとは思えなくて。
だから、教室にとどまってみた。
ただひとり、とどまってみた。
どこにも逃げ場のない子供の、ささやかな反抗、だった。
――恋心が彼女に知られたとき、崩壊は始まった。
最初は、よかった。微笑んで、からかって、可愛い服でもかうといい、なんて。
ちょっと物分りのいい母親風で。なんだか、今までよりも優しくて。――優しくて。
嬉しくて嬉しくて、かつてないほど、彼女のことを大好きだと想った、覚えがある。
――けれど。
それはほんのひとときの夢、だった。
家事の些細な粗や、些細な態度のわるさ。それらを注意するのは、わかる。悪いのは美桜だと、それが多少やつあたりじみていたところで、まだ、ギリギリ納得できた。自分が悪い部分があるだけ、しょうがない、と。
けれど。そう、だけど、彼女は、いうのだ。
――色気づいて、調子にのってるからちゃんとできないんじゃないの?
――いやらしい、その年で男に現をぬかすなんて。
――なに、その目。なにかいいたいことでもあるの?
ことあるごとに繰り返されるそれらの言葉に、美桜は静かに――ただ静かに、傷ついていった。
恋心を、淡い淡い思いすらも、それは「年不相応」で「見苦しい」ことなのか、と。
静かに口を噤み、俯く美桜に、追い討ちは続く。
久方ぶりの懇談会、彼女と他の保護者との、どこかうわべだけの会話の中で。
――もう、好きな人ができたとか、色気づいちゃって、こまるんですよー。
彼女が、そう告げて笑ったとき。
――でも、そういう年頃ですもの、ねぇ。
追従するように微笑んだ、その人の、目が
一瞬強く嘲りを含んだものになり、周囲の人にちらりとめくばせをした、ことを。
少し離れた位置で、静かにみていた美桜には、はっきりと、理解できて。
恥ずかしかった。
激しい羞恥に襲われて、彼女をこの場から連れだしたかった。
彼女がひとり席をはずした少しの間に――恐らく美桜が目にはいっていなかったのだろう――その集団が。
――母が母なら子も子ってことでしょうに、ねぇ。
そう、笑いさざめきながら話していたこと、も。
その中の一人が――主に中心にいた、人が。いつも美桜に優しくしてくれていた小母さんだったこと、も。
どこか、遠い遠い世界の出来事のようで。
違うのだと、声を上げればよかったのだろうか。
違うのだと、叫べばよかったのだろうか。
――答えは、わからない、まま。
ほろほろと少しずつ、剥がれ落ちるように崩壊しかけていた心を、必死に修復し続けてきた美桜は、このとき、その修復をやめる。
否、修復する気力を、失ってしまった。
――もう、いいよね。
――もう、いいよ、ね。
心の中、目を瞑り蹲りながら、日々を過ごし。
時折、我慢しきれずに、家の中、泣き叫び彼女を罵る。
――どうしたらいいのよ!
――だったら、どうしたらいいのか、いいなさいよ!
最後の願い。
助けて欲しいと、心の底からひねり出した最後の叫びは、彼女の一言が打ち砕く。
――私がわるいわけじゃないでしょう!
――私のせいにしないでちょうだい!
崩れる。
崩れていく。
世界が、心が、すべてが。
彼女が悪くないのなら私が悪いの? すべて私が悪いから私は彼女に叱られ叩かれ罵られるの? 私が悪いから小母さんたちに笑われるの? 私が悪いから彼女のことで友人達に笑われるの? 私が、私が私が私が私が――。
唇が、歪んだ。
頬が、僅かに引きつる。
目からは、涙が零れ落ちそうで。
けれど――泣ける気は、しなくて。
笑顔のような形をした表情で、美桜は静かに、つげた。
――ごめんなさい、おかあさん。
ごめんなさい、って、どんな意味、だっただろうか。
ぼんやりと、心の中で、思いながら。
そうして、美桜は、今、教室に、いる。
今日も彼女の帰りは、遅いのだろう。
帰ったとき、美桜がいなかったら、彼女はどうするだろうか。
怒るだろうか。心配するだろうか。――なにもしない、だろうか。
けれど、そのどれを彼女がとったところで、もう、美桜にはどうでもよかった。
それはすでに、彼女の感情でしかなくて、彼女がどう想おうと、どうしようと、どうでもいいように、思えていた。
――これから、どこに行こう。
どこにもいけるはずがない、と、心のどこかから声がする。
そう、現実的には、どこにもいけるはずなど、ないのだ。
一番いいのは、今までのように、彼女が帰るギリギリ前までに家に戻り、何事もなかったかのようにするのが、一番平和で一番平穏な道、なのだ。
解っている。所詮、未成年、子供にしか過ぎなくて。それに、美桜自身、振り切って家出して、一人で生きていく、と、思えるほど、強くもなくて。
逃避だと、ただの逃げだと、わかっていて。わかっているけれど、こうして、逃げることしかできなくて。
いつもは、家に、素直にかえったのだけれど。
――きょうは、本当に、帰りたくない。
もういいじゃないか、と、声がする。
もう頑張らなくっていいじゃないか、と、声が聞こえる。
甘やかすように、そそのかすように、とろりと甘い、声が聞こえる。
帰らなければ、騒動hになれば、彼女は激しく憤るだろう。激するだろう。
心配かけたことに。そして――それ以上に、自分に恥をかかせた、と、怒るだろう。
うっすらと唇に笑みがのぼる。
――もし。
もしも、このまま、私が消えてしまったら。
――もし。
もしも、このまま、私がいなくなってしまったら。
彼女は、どうなるのだろう。
その思いは、強く――強く。
今までにないほど強く、美桜を魅了した。
静かに、席をたつ。
暗い教室、ほのかに灯る非常灯。
薄暗い明かりをみつめて、うっすらと、幸せそうな笑みを浮かべた美桜は――静かに歩きだす。
光の見えない、廊下の向こうへ。
――闇の、中へ。
美桜がどこにいこうとしたのか、恐らく彼女自身にも説明は付かない。
ただ、美桜は想ったのだ。――いかなければ、と。
漠然とした「遠く」だったのかもしれない。
もしかすると、夜の街だったのかも、しれない。
けれど、美桜は、どこにも行かなかった。――否、どこにも、居なかった。
その日を境に、美桜は忽然と姿を消す。
――彼女がどこにいったのか。
――彼女に何が起こったのか。
知る人は、誰もいない。
ただ、美桜は静かに、まるで闇に溶け込むように――この世界からの離脱していったのだ。
美桜の、ただ強い「願い」と、その壊れた心ゆえに。
――そうして、美桜の、「現実」での物語はおわりを告げた。
その後の美桜の周囲の人々の状況は、また別のお話。
――美桜の話は、新たな場所ではじまったのだから。