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リルシャの森に住む人  作者: 喜多彌耶子
断 章 逢阪美桜
30/47

そのはてに



ゆっくりと、瞼を開く。

すでに教室は、闇に包まれていた。


――誰も、いない。


聞こえるのは、遠く、車の音と、風の音ばかり。


ばかりと開いた携帯の画面は、すでに20時を回っていることを美桜に伝える。



――着信も、メールも、ない。



やはり、こんなものか、と、ほろ苦い気分で笑う。


す、と、視線を窓辺へとずらせば、雨はすでに止んでいて。

うすらと雲の向こうに、朧に霞む月が見えた。



帰れない。

――帰らない。


かえりたく、ない。



ずっとそう想っていた。けれど、帰る場所は、あのアパートで、確かに、どれほど辛くともあそこが美桜の居場所だった。

――居場所だと、想っていた。


でも。

もう、帰れない。

帰りたく、ない。



現実的には、まだ美桜は未成年で、保護責任は母にあって、帰らないわけにはいかなくて。

だけどそれでも――あの、苦しい居場所に、もう、戻りたいとは思えなくて。


だから、教室にとどまってみた。

ただひとり、とどまってみた。


どこにも逃げ場のない子供の、ささやかな反抗、だった。







――恋心が彼女ははに知られたとき、崩壊は始まった。


最初は、よかった。微笑んで、からかって、可愛い服でもかうといい、なんて。

ちょっと物分りのいい母親風で。なんだか、今までよりも優しくて。――優しくて。

嬉しくて嬉しくて、かつてないほど、彼女のことを大好きだと想った、覚えがある。


――けれど。


それはほんのひとときの夢、だった。


家事の些細な粗や、些細な態度のわるさ。それらを注意するのは、わかる。悪いのは美桜だと、それが多少やつあたりじみていたところで、まだ、ギリギリ納得できた。自分が悪い部分があるだけ、しょうがない、と。


けれど。そう、だけど、彼女ははは、いうのだ。


――色気づいて、調子にのってるからちゃんとできないんじゃないの?

――いやらしい、その年で男に現をぬかすなんて。

――なに、その目。なにかいいたいことでもあるの?


ことあるごとに繰り返されるそれらの言葉に、美桜は静かに――ただ静かに、傷ついていった。


恋心を、淡い淡い思いすらも、それは「年不相応」で「見苦しい」ことなのか、と。


静かに口を噤み、俯く美桜に、追い討ちは続く。


久方ぶりの懇談会、彼女ははと他の保護者との、どこかうわべだけの会話の中で。


――もう、好きな人ができたとか、色気づいちゃって、こまるんですよー。


彼女ははが、そう告げて笑ったとき。


――でも、そういう年頃ですもの、ねぇ。


追従するように微笑んだ、その人の、目が

一瞬強く嘲りを含んだものになり、周囲の人にちらりとめくばせをした、ことを。

少し離れた位置で、静かにみていた美桜には、はっきりと、理解できて。


恥ずかしかった。

激しい羞恥に襲われて、彼女をこの場から連れだしたかった。


彼女がひとり席をはずした少しの間に――恐らく美桜が目にはいっていなかったのだろう――その集団が。


――母が母なら子も子ってことでしょうに、ねぇ。


そう、笑いさざめきながら話していたこと、も。


その中の一人が――主に中心にいた、人が。いつも美桜に優しくしてくれていた小母さんだったこと、も。


どこか、遠い遠い世界の出来事のようで。



違うのだと、声を上げればよかったのだろうか。

違うのだと、叫べばよかったのだろうか。


――答えは、わからない、まま。



ほろほろと少しずつ、剥がれ落ちるように崩壊しかけていた心を、必死に修復し続けてきた美桜は、このとき、その修復をやめる。


否、修復する気力を、失ってしまった。


――もう、いいよね。

――もう、いいよ、ね。


心の中、目を瞑り蹲りながら、日々を過ごし。


時折、我慢しきれずに、家の中、泣き叫び彼女ははを罵る。


――どうしたらいいのよ!

――だったら、どうしたらいいのか、いいなさいよ!


最後の願い。

助けて欲しいと、心の底からひねり出した最後の叫びは、彼女ははの一言が打ち砕く。


――私がわるいわけじゃないでしょう!

――私のせいにしないでちょうだい!


崩れる。

崩れていく。


世界が、心が、すべてが。


彼女ははが悪くないのなら私が悪いの? すべて私が悪いから私は彼女ははに叱られ叩かれ罵られるの? 私が悪いから小母さんたちに笑われるの? 私が悪いから彼女ははのことで友人達に笑われるの? 私が、私が私が私が私が――。



唇が、歪んだ。

頬が、僅かに引きつる。

目からは、涙が零れ落ちそうで。

けれど――泣ける気は、しなくて。


笑顔のような形をした表情で、美桜は静かに、つげた。


――ごめんなさい、おかあさん。




ごめんなさい、って、どんな意味、だっただろうか。


ぼんやりと、心の中で、思いながら。





そうして、美桜は、今、教室に、いる。


今日も彼女ははの帰りは、遅いのだろう。


帰ったとき、美桜がいなかったら、彼女はどうするだろうか。


怒るだろうか。心配するだろうか。――なにもしない、だろうか。


けれど、そのどれを彼女がとったところで、もう、美桜にはどうでもよかった。

それはすでに、彼女の感情でしかなくて、彼女がどう想おうと、どうしようと、どうでもいいように、思えていた。


――これから、どこに行こう。


どこにもいけるはずがない、と、心のどこかから声がする。


そう、現実的には、どこにもいけるはずなど、ないのだ。


一番いいのは、今までのように、彼女ははが帰るギリギリ前までに家に戻り、何事もなかったかのようにするのが、一番平和で一番平穏な道、なのだ。

解っている。所詮、未成年、子供にしか過ぎなくて。それに、美桜自身、振り切って家出して、一人で生きていく、と、思えるほど、強くもなくて。


逃避だと、ただの逃げだと、わかっていて。わかっているけれど、こうして、逃げることしかできなくて。


いつもは、家に、素直にかえったのだけれど。


――きょうは、本当に、帰りたくない。


もういいじゃないか、と、声がする。

もう頑張らなくっていいじゃないか、と、声が聞こえる。


甘やかすように、そそのかすように、とろりと甘い、声が聞こえる。


帰らなければ、騒動hになれば、彼女ははは激しく憤るだろう。激するだろう。

心配かけたことに。そして――それ以上に、自分に恥をかかせた、と、怒るだろう。


うっすらと唇に笑みがのぼる。


――もし。


もしも、このまま、私が消えてしまったら。


――もし。


もしも、このまま、私がいなくなってしまったら。


彼女ははは、どうなるのだろう。


その思いは、強く――強く。

今までにないほど強く、美桜を魅了した。


静かに、席をたつ。

暗い教室、ほのかに灯る非常灯。

薄暗い明かりをみつめて、うっすらと、幸せそうな笑みを浮かべた美桜は――静かに歩きだす。


光の見えない、廊下の向こうへ。

――闇の、中へ。




美桜がどこにいこうとしたのか、恐らく彼女自身にも説明は付かない。


ただ、美桜は想ったのだ。――いかなければ、と。


漠然とした「遠く」だったのかもしれない。

もしかすると、夜の街だったのかも、しれない。


けれど、美桜は、どこにも行かなかった。――否、どこにも、居なかった。



その日を境に、美桜は忽然と姿を消す。



――彼女がどこにいったのか。

――彼女に何が起こったのか。


知る人は、誰もいない。



ただ、美桜は静かに、まるで闇に溶け込むように――この世界からの離脱していったのだ。


美桜の、ただ強い「願い」と、その壊れた心ゆえに。



――そうして、美桜の、「現実」での物語はおわりを告げた。


その後の美桜の周囲の人々の状況は、また別のお話。


――美桜の話は、新たな場所ではじまったのだから。



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