おんなであること
「あんたのお母さんは、あれね。母でなく、父のようでありながら、女でありつづけている」
どうしようもなく煮詰まったとき、時折たずねる伯母が、溜息とともにそう呟いた。
その言葉が、全てを表しているような、気がして。
「私は母親じゃないもの。父親よ」
そう笑いながら、彼女はよく、美桜にいう。
いわく、家事ばかりやっていられる性格じゃないの。家にじっとしていられないの。稼いでる方が性にあうの。
美桜だって、解らないわけじゃない。
そういう性質なのだと、仕事に対する姿勢だとか、責任感だとか、垣間見た限りのそれらは、素直に凄くて。
尊敬している、と、いっても、嘘じゃない。
嘘じゃない、けれど。
彼女は、反面、娘に女であることを隠さない。
否、彼女は、その行動が女を主張していることに気づかない。
――さすがに、娘のいる家に、誰かを連れ込むことは、ない、けれど。
飲みにいって帰ってこない夜も、ある。
事前連絡があればいいほうで、ないことがほとんどで。
何度か、帰ってこないからと、電話したら――叱られた。
なぜ、行動を宣言されなければならないのか、と。いちいちいわないといけないのか、と。
そうじゃない、ただ、晩の支度のこととか、学校の関係で伝えたいこととか――それに、悩みを聞いて欲しい時だって、ある。
だけど、彼女にとってそれは「制限」でしかなくて、わかってもらえなくて。
静かに、美桜は口を噤む。
彼女の機嫌を損ねないように、ただそれだけを考えて、口を噤む。
――彼女は知らない。
彼女が、美桜の同級生の母親たちにどういわれているのか。
なんとおもわれているのか。
――優しくしてくれていた、近所の小母さん達が、ひっそりと話しているのを聞いた。
――気遣ってくれていた、友達のお母さんが、顔をしかめて呟いているのを聞いた。
聞かれているとは思ってはいない彼女らのその言葉は、その分遠慮がなくて。
どこまでも下世話で――辛らつ、だった。
小学校高学年、思春期の入り口のころの、ことだった。
――それから。
美桜は、必死で、そう、必死で、枠の中に治まろうとして生きてきた。
小さく小さく纏まって、きちんと、批難されることがすくないように、気を使って、気を付けて、生きてきた。
それでも。
美桜がどれだけ気を付けても、気を使っても、些細なことで批難は向かう。
あの母親の子供だから、やっぱり母子家庭だから――。
全ての人が、そうだったわけではないだろう。けれど、まだ幼い美桜には、批判と批難しかみえなかった。
――私が、ダメなの?
――私がもっとちゃんとしないから、ダメなの?
自己否定。
自虐的思考。
それらは、無意識に、彼女の中に沈殿していく。
静かに、静かに。深く、深く。
そんな美桜でも、年頃になれば、やはりおしゃれが気になる。
母親の化粧台にならんだ、綺麗な化粧水や化粧品が、気になってしまって。
つい、触ってしまったことも、ある。
――気づいたときの母の反応は、激しかった。
叱られるのは、解る。いけないことをしたのだ。子供が触るべきものではない。
――でも。
色気づいて、何を考えてるの、と。
いやらしい、と。
まるで汚いものでもみるかのように、正座させた娘を睨みつけながら、赤い口紅をぬった唇から、嘲るように連呼されて。
色気づいて、と。いやらしい、と。
お洒落したり、女の子らしい物を好むことが、そうなのだと、結びついてしまった。
短絡的な考えではあったけれど、しかしそれは、まっすぐに、その衝撃的な出来事とともに、結びついてしまった。
そうして、美桜は、ひっそりと、静かに、目立たないようにいきるようになった。
女であることを、女らしくなることを、その母の批難とともに――年を経るにしたがっては、母と同じ生き物になりたくないが為に――さけていくようになった。
まったくいじっていない、故に重くみえる黒に近い濃紺のセーラー服。伸ばしかけた髪は、短く刈り込むようになった。
常に俯いて、笑うことが少なくなって――そうして、美桜は、高校生になる。
誰も友達がいないまま、否、正直に話せる友人のいないまま、高校生に、なる。
高校は、今までとは違っていた。
中学までと違って、外見や性格で、表だって非難されたり、避けられたりすることが減った。
少なくとも、みな、普通に話をしてくれる。困らない程度に会話ができる。
それは美桜にとって、貴重な経験だった。
普通に話せる。普通に過ごせる。
友達、と、いえないこともない人もできた。
他愛のない笑い話をすることも、増えた。
小学校や中学校のときとちがって、ここには親の影響は少ない。
美桜は、いくらか、そう、今までより幾分か、自分らしくいられる場所をみつけた。
――みつけたと、思った。
そして、恋をする。
淡い憧れのような、儚い恋。恋と呼ぶにも幼い、淡い淡い思いを、彼女は抱く。
そのとき、美桜は、自分が女であると思い知る。
少しでも、きちんとしてみられたい。綺麗にしていたい。
気づいて欲しい。
――気づいて欲しくない。
揺れ動く感情、ほのかに灯る熱。
未熟な感情は、どこまでも不安定で、けれど、どこか力強くて。
少しだけ、生きるのが楽になった。
彼をみることができる、と、思うと、少しだけ過ごすのが楽になった。
少しだけ、母と相対するのが、楽になった。
なにがあったわけでもない。
けれど、その、彼に対するほのかな、幼い淡い思いだけでも、心は軽くなった。
髪を少しずつ、伸ばすようになった。
――すぐに伸びるわけはないから、気を付けるようになった。
――髪切りにいくのがもったいないから、と、気に障らないよう軽い冗談で交わしながら。
スキンケアも興味があったけれど――それは、ほとんど無理だった。
ただ綺麗に洗うこと、ごく稀に彼女がいないときに、化粧水を少し使うくらいしかでいなかった。
それでも、美桜は楽しかった。
少しだけ、女の子らしい小物を集めてみたり、家の中にあったはぎれや毛糸で小物を作るようになった。
――四葉を集め始めたのも、このころだった。
最初は、ハンカチの片隅に小さく刺繍された、愛らしい四つ葉だった。
なぜだかそれが、幸せの象徴のように想えて、どうしても欲しくなった。
気が付けば、四葉の小物を集めていた。
幸い、彼女にも収集癖があったから、少しずつかいたすその行動は、あまりとがめられずに済んだ。
だから、これ幸いと、日常使う小物で、自分の自由になる範囲のもの――ごく些細なものだったけれど――を、少しずつ四葉で増やしていった。
いっぱいになれば。
いっぱいになったら、幸せになれるような、気がして。
幸せを掴めるような、気がして。
――何をもって「幸せ」というかなんて、まだ、なにも、わかってなどいなかった。
しかし、美桜は次第に、うちに矛盾を抱えていく。
暖かな想いと、ほの暗い感情。
男がいて、女がいる。
自分が、女であることを、肯定し切れない、彼女と同じだとみとめきれず軋む感情を抱えながらも、それでも。
無意識で察知していた。
――彼女も美桜も、結局は、かわらないのだ、と。
あとから考えてみれば、恐らく年を経ておもってみれば、笑い飛ばせるような事柄であり、心の動きであったけれど。
まだ、幼い感受性の美桜には、その二つの矛盾は、大きすぎた。
そして――環境が、わる過ぎた、とも、いえる。
ささやかな出来事の積み重ねが、その溜め込んだ矛盾と反応して、大きな化学変化を起す。
自我を押し殺した生活。女であることの否定。そして正反対の、女としての恋心。
そして――崩壊の時が、来る。