ははとむすめ
「たぁだいまぁーっ。みおーっ? ねてるのー?」
玄関ががちゃがちゃと音がして、それから、大きな呼び声。
こんな時間なのに、と、その声の大きさに思うものの、それを指摘した所でどうなるわけでもない。
少なくとも、機嫌はわるくないみたいだ、と、内心ほっとして、急いで玄関に向かう。
――呼ばれてから彼女の前に行くまでの時間が、少しでも遅くなると、それだけで色々面倒だから。
「おかえりなさい」
「ああ、おきてたのね。っていうか、靴。ちゃんと並べなさいよ」
玄関に目をむければ、確かに靴は出ている。が、乱雑というほどではない、ある程度きちんと並んでいる。
――恐らく、帰宅した勢いで、彼女がずらしたものだろうに、と、思いはするけれど。
「ごめんなさい、すぐきれいにするね。ご飯食べた?」
ほろ酔いでご機嫌な彼女を、刺激したくなくて、穏やかに笑みを浮かべて、靴を並べる。
僅かにおぼつかない足取りでキッチンに向かうのを見送り、急いで靴を並べて、今度は流しでコップに水をいれて渡す。
「ああ、ありがとうー。ご飯、ねぇ。うん、食べたけど。なんかあるの?」
「うん、一応用意しておいたけど――」
「なにそれ、いらない。もっと頑張りなさいよ。だめじゃない」
即、ダメだし。野菜炒めと味噌汁、それだけの食事は、彼女的にはダメらしい。
とはいえ、料理上手とはいえない美桜にとってみれば、バランスもとれるし簡単で丁度いいメニューなのだけれど。
「ん、そうだね。気を付ける。あ、お風呂はいれるけど、どうする? お母さん」
「てきとーにはいるわー。あら、洗濯物畳んだのー? もう、きちんと畳みなさいよ。服がダメになるでしょ、ああそれに、流し、ちゃんと拭けてないわよ。いい加減なまねしないで頂戴。お風呂、ちゃんとお湯いっぱいにしてあるでしょうね。いっつも水がすくないんだから」
歩く先で、あれこれと目を止めては、矢継ぎ早に言葉が飛んでくる。
笑顔で。
そう、美桜は笑顔で、それに応え続ける。
機嫌を損ねないように。傷つけられないように。
繰り返される、これが日常。
これが、美桜と母との、ごく普通の、関係。
――畳み方が悪い、というけれど、そこまでぐちゃぐちゃなわけじゃ、ない。
――流しだって、そんなに酷くみず濡れしてるわけでも、ない。
――お風呂だって、いつもいつも、そうであるわけじゃない。
いいたいことは沢山ある。思うことも沢山ある。でも、口からは出ない。出さない。
だって、ほら。
「何? なにかいいたいわけ? 私が悪いっていうの?」
そのセリフが、すべてを封じるのだと。
どうしてわかってくれないのだろう。
別に、注意されることがいやなんじゃないんだ。
ただ――彼女が何を求めているのか、どこまでを望んでいるのか、未だにわからない。
「ごめんなさい、お母さん」
繰り返し過ぎたごめんなさいの言葉。
――だんだん、その意味が解らなくなるほどの、日常。
その後、結局は機嫌を悪くした母は、あからさまに不機嫌な表情のまま、美桜の存在を無視するように、ばたばたと風呂に向かい、布団へはいった。
明日は夜勤だから、と、ぶっきらぼうにその一言だけを残して。
部屋にはいって、美桜はやっと、息をつく。
無事に一日が終わった。
明日は夜勤、ならば、朝さえ乗り切れば、明日の夜はゆっくりできる。
――母と子、二人だけの生活だというのに。
いないほうがいい、と、思ってしまう自分は、薄情なのだろうか。
美桜の母は、看護師である。
父と結婚したあと、姑との関係もあり、一度仕事をやめていた。
けれど、その後、働かないで家にいることが無理だった母は、働きに出た。
そして――なにかが、あったらしい。
詳しくは知らない。誰も、時折会う父でさえ、詳しくは教えてくれない。
ただ、漠然と解ることがある。
母は、仕事が好きだ。
それ以上に、家にじっとしていることができない。
夜、遊びに出る事も好きだ。そして――浪費することも、好きだ。
美桜の部屋にある母の荷物の大半が、洋服だったりする。
彼女は、なにかことがあると、買い物にいく。
服を買う。アクセサリーを買う。そして、ずっと長く、商品を眺めている。
うちは、母子家庭にしては、貧乏ではないと思う。
思うけれども、母の買い物のペースと、収入とのバランスが、気にならないわけでは、ない。
けれど、聞けない。聞くことが出来ない。
一度、買い物先で、服をかってくれようとした彼女に、服はあるからと、もったいないしと、婉曲につたえたことがある。
彼女は「子供がお金の心配をしなくていい」と、いってくれた。
そのときは、とても、心強かった。けれど。
――成長すれば、みえてくるのだ。
収入と、支出。その、バランスが崩れると、どうなるのか。
学校でお金がいるときに、いい出すと不機嫌になる回数が増えた。
それどころか、定期的に払うお金が、停滞することが増えた。
学校で、定期的に持っていかなければならないお金を持っていけない度に、羞恥に俯くしかなかった。
学校から彼女へと婉曲に注意がいったとき、彼女はいった――ちゃんと伝えないんですよ、この子、と。
――伝えないわけじゃ、ないのに。
――伝えさせてくれないだけ、なのに。
複雑な思いを抱えながらも、けれど、彼女は「母親」であり、「保護者」で。美桜にとっては、絶対の存在で。
――反発はしたけれど、伝わらずに結局、言葉を飲み込むしか、なかった。
できることはしている。できるだけ節約している。小遣いも、あまり貰っていない。
――でも、不安になる。
バイトをしようか、と、思って、相談した。
そうすると、しなくていい、と。むしろするな、と、強固に反対された。
そして――不機嫌になった。お金の心配をするなんていやらしいと。
いやらしい、と。
美桜は、いつも、惑っていた。
どうすればいいのか、わからなくて。
なにがただしいのか、わからなくて。
だから、ひっそりと、諦めた。
いろんなことを、諦めた。
――彼女が、奔放であることも。
――彼女が、「母」でありながら「母」ではない、ことも。
しかたがないことだ、と。
考えても、頑張っても、どうしようもないのだと、繰り返した衝突のなかで、理解した。
けれど。
――心のそこで、子供が泣き叫んでいる。
愛して欲しい。愛して欲しいと。
解って欲しい。解って欲しいと。
幼い子供が、叫び続けている。
ぎゅっと目を瞑り、ベッドに横になる。
眠ればいい。眠ってしまえば、少なくともその間は、穏やかでいられる。
遠くから聞こえる、彼女が電話で話す声。笑い声。
それらから逃れるように、美桜は、ぎゅっと瞼を閉ざした。
闇の中に、逃避するように。