ひとり
昔話をしよう。
それは、ほんの数年前のお話。
――けれど、すでに遠く遠く離れてしまった、そんな想い出の中の、お話。
梅雨時の空はどうしてこうも重たいのだろう、と、教室から窓の外を眺めながら、美桜は思った。
ただでさえまとわりついて重いセーラー服は、湿気をはらんでよりいっそう重ったるく、うっとおしい。
きっちりと着込んだ、濃い、黒にすら見える紺の、セーラー服。高校の制服にしてはどこか古びたデザインのそれは、女性とからはあまり人気がない。
けれど、入学してしばらくたち、すでに着慣れはじめたそれは、どこか自分に馴染んでいた。
規則正しく並んだ、教室の机とイス。教壇と黒板と、そして、消し残されたチョークのあと。
見慣れて特に感慨を抱くことのない、ごくありふれた教室で、美桜はひとり、窓の外を眺める。
雨は、止む時を知らず、降り続けている。
――ああ、かえれない、な。
窓の外を見詰め、溜息が零れる。
晴れていれば、公園がある。
小雨でも、屋根のあるベンチがある。
でも。
この雨じゃあ、どうしようも、ない。
降りしきる雨。雨音が静まり返った教室の中に響く。まるで幕のように、雨が空から次々に落ちていて。
傘をさしていてもびしょぬれになってしまいそうなほどの、雨。
溜息が、漏れる。
学校の図書室も、すぐにしまる。地区の図書館には、ちょっと遠い。
どこかお店で時間を潰すにも、制服姿は目に付き易い。
気軽に寄ることのできる子たちが、うらやましい。
下手に知り合いにあったりすれば、また色々と面倒くさいことになる可能性の高い美桜とは、大違いだ。
――気にしなければ、いいんだろうけど。
ぺたりと机にうつ伏せれば、肩のあたりで揃えた黒い髪が、さらりと落ちた。
雨は嫌い。
まるで逃げ場をふさいで囲い込もうとする檻のよう。
どこにも逃げ場をなくしてしまうから――だから、嫌い。
静かに、全てから逃れるように、瞼を、閉じた。
下校を促す音楽が流れる。部活の生徒も、もう引き上げる時刻。
このままここにいたら、今度は先生に注意を受ける。
溜息をつきながら、カバンを手に立ち上がり、重い足を引きずるように教室を出る。
――かえりたくない、な。
帰った所で、なにもない。
帰った所で、誰もいない。
いつのころからか、慣れてしまった、誰もいない家に「ただいま」と帰る行為。
いつからこんなに、自分は、帰るのがイヤになったんだろう。
浮かんだ自問は、ぽん、と開いた傘とともに、空に消えた。
「ただいま」
薄暗い玄関で、声をかける。
新と静まり返った室内から、返ってくる声はない。
小さなアパート。2部屋に、ダイニングキッチンだけの、アパート。
母と二人暮すここが、美桜にとっての「家」だ。
幼いころは、父と母と3人、どこか一軒家に暮らしていたような記憶がある。
――けれどそれも、遠く儚い記憶。
とても小さなころのことだから、はっきりと思いだすのも難しい。
父の姿さえ、朧に霞んで消えていく。
誰もいない家の中、締め切った重い空気が、むっとした香りを運んだ。
まっすぐに窓に向かって、全部あけて。
それから、着換えて、掃除機をかけなければ。
干しておいた洗濯物を畳んで、晩御飯の支度。ああ、お風呂掃除も。
あとはなにか、別にいいつけられていたことはなかっただろうか、と、考えながら、一応私室としてあたえられている――けれどその半分は母の荷物で埋まった部屋へと足を運ぶ。
重苦しい制服を脱ぎ捨てて、部屋着の草臥れたワンピースに着替える。
これからが、忙しい時間だ。
家事。炊事。そして、勉強。
いつ帰るか解らない母の分も夕食を用意しておかなければならない。
深い深い溜息が、ひとつ、ほろりと零れ落ちた。
美桜は母と二人暮しだ。
幼いころに、父と母は離婚したらしい。
詳しい事情は知らないけれど、口さがない人間はいるもので、どこからともなく、真実かどうかはわからない話は聞いている。
それが本当かどうか、なんて、確かめるすべはない。
母に聞いた所で、応えて貰えるはずなど、これっぽっちもないのだから。
諦めは、得意になった。
聞けば応えて貰えるとは限らないのだと、逆に、聞くことで自分の身を脅かすのだと、美桜は幼いころに知った。
些細なことだ。
本当に些細なことで、けれど、それは幼い子供には、とても大きなことで。
だから、美桜は、口数少なくなった。
口を噤むことが多くなった。
――挨拶はするけれど、無口で愛想のない子。
それが、美桜の評価だ。
それでいい、と、美桜は思う。
別にいいのだ。難しいことではない。
ひっそりと、静かにしていれば、被害は少なくなる。
――傷つくことも、怖い思いをすることも、少なくなる。
そうして、美桜は生きてきた。
物心付いた小学生のころから、ずっと。
ずっとずっと、そうやって、生きてきた。
ざっと掃除機をかけ、洗濯物を片付ける。
それから、晩御飯。料理は、得意ではない。苦手でもないけれど、上手というほどでもない。
食べなければおなかがすくから。体がもたないから。だから、作る。
買ってくるほどのお金は、ない。いえばもらえるかもしれないけれど、タイミングをはずすと辛い思いをするから。
それくらいなら、あるもので食べた方が、いいと思う。
気まぐれだから、突然外食に連れだされることもある。
でも、それも、楽しいとは思えない。
――なんというか、つまらない人間だと、自分でも思う。
思うけれども、すでに15年。覚えてる限り、5年以上は、この性格でいきてきたのだ。
玉子の殻に閉じこもるように、否、どこか柔らかいけれど、遠く人を遠ざける壁の中で、美桜は生きている。
――全ては、自分の心を護るために。
小さいころは、わからなかった。
いい子でいればいいと、ただ、そう思っていた。
無償の愛を、信じていたのだ、と、今、美桜はそう思う。
愛されていない、とは、思わない。
大切にされていないわけでもない、と、そう思う。
でも。
――繋がらない。通じ合えない。伝わらない。
ささやかなすれ違いは、大きな齟齬となって、美桜を苛んだ。
他愛のない言葉。些細な言葉。
それらが、どれほど美桜に影響を与えたのか――あのひとはわかってない。
それを解ってくれることは、永遠にないのだと、次第に美桜は悟っていった。
解って欲しいと、泣き叫んだこともある。
癇癪を起して暴れたこともある。
そんな小さなころの思い出。
けれど、それらすべては――。
首を強く振って、思いを振り払う。
ご飯の用意はできた。
時計をみる。19時を回っていた。
今日は伝言はない。が、いつかえるのかは、わからない。
電話で確かめることはしない。相手の機嫌次第ではやっかいなことになるから。
とりあえず、食事をして、お風呂に入ろう。そして、それから、勉強しよう。
それだけをきめて、静かな部屋の中、ひとり、美桜はテーブルに付く。
部屋の中、ただ、時計の音だけが、遠く響いていた。
洗い物を終えて、お風呂を終えて。
ざっと部屋全体を確認する。特に目をつけられる場所はない、と、思う。
ひとつ溜息を漏らし、肩の力を抜いた。だいじょうぶ、たぶん、だいじょうぶ。
玄関の明かりだけをつけて、部屋に戻る。
ふすまはあけておく。閉じこもってるとそれもよくないらしい。――よくわからないのだけれど。
机に向かって、とにかく、課題と予習復習だけはしておく。
――成績が、昔に比べて下がっていて。
それだけで、彼女にとっては、気に食わないことなのか。
自分は勉強できたのに、と。
それが真実か確かめるすべはないまま、項垂れるしかない自分が悔しい。
だけど。
できることをするしか、ないのだ。
時計の音の響くアパートで、ひとり。
静かに、時を過ごした。
――静寂が破られたのは、日付が変わる寸前のこと、だった。