かわりゆく日々
「それ」を、彼は免罪符に。
たびたび、森の家を訪れるようになった。
彼は、来るたびに、嬉しそうで。
けれど。
けれど、私、は――。
――完全にはじまった雨季は、森を、村を、雨の檻へと封じ込める。
「……っ、ばっかじゃないの!?」
思わず漏れてしまった本音に、目の前の男は、ぱちくりと目を瞬いた。
後ろでは、レイルが愉快そうに喉奥で笑いをかみ殺してる。
そうだろう、そうだろう、さぞかし面白かろう。
雨でずぶぬれになりながら、満面の笑顔で家に訪れたカインを前に、はっきりと――恐らく、初めてではないかと思う――そう告げた私、と。
いつもと違う口調で告げられて、きょとんとしている少し間抜け面のカインと。
傍からみてれば、それはそれは面白いでしょうよ!
笑うならしっかり笑え! とばかりに勢いよく振り返って睨みつければ、降参とばかりに両手をあげてみせるレイル。
――なんだろうこの、あしらわれた感。むっとする気持ちをとりあえず押し殺して。
再びカインに向きなおり、私は手に持っていた布を、投げつけるように渡す。
「さっさと入んないよ! もう!」
呆然とする彼にそう告げて、私は足音高く、家の中へと入っていった。
こぽこぽと、お茶の注がれると音がする。
淹れ終わったお茶を、かちゃん!とわざと食器の音が響くような勢いで、カインの目の前に。びくっっと震えるのを横目に、ついでにレイルにも。
私の、今までと露骨に違う態度に戸惑ってか、どこか悄然と、椅子に座るカイン。
その空気を読んでか――いやちがうな、これ、面白がってる――黙って寛いでいるレイル。
私はどさり、と、椅子に腰を下ろすと、ゆっくりとカップを手にとる。
どこかびくびくとこちらをうかがうカイン。――なんで私が怒ってるか、なんて、わからないのだろうか?
いや、全くわからないわけではないだろうけど。今までは、笑顔で困った顔しかみせてなかったから。はっきりとこういう態度をみせたことなかったから。きっと戸惑って、困惑してるのだろう。
解ってて、とりあえず、お茶を飲み干すまでは放置。
ふわりと漂う香りに、少しだけ苛立ちがおさえられた気がする。
――まったく。
なにかあったら、どうするつもりなんだか。
ふう、と、漏らしたため息は、思ったよりも大きく、部屋の中へと響いていった。
「で。一体どういうつもりなのかしら」
ひとしきり、気まずい雰囲気のなかでお茶を終えて。
私は、ゆっくりと視線をカインに向けて、口を開く。
「どういう、って……?」
まるで解らない、という風に、不思議そうな表情のまま、こちらをみやるカインに怒りがわく。
「雨。これだけの雨の中。迷いの森にはいってくるなんて、一体どういうつもりなのか、と、私は聞いているの」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。視線はまっすぐに、カインに向けたまま。
――そう、ただでさえ危険な迷いの森に。この雨の季節、しかもまだ雨が降っているさなかにやってくるなど、狂気の沙汰でしかない。
ただでさえ悪くなる視界。ぬかるむ足元。それは、普段でさえ迷いやすいこの森を、さらに複雑な迷宮へと変える。
この時期、森に入る狩人などいない。そして――私も、家からそう離れた場所までいくことはほとんどない、と、いうのに。
わかってないのだろうか?
否、村に住んでいるのだから、森の危険性はわかっていないわけではない、はず。
――だとすれば。
確かに、私は森の家に彼が訪れることを容認した。
しかし、それはそんなに頻度の多いことではないだろうと、どこかで勝手に思いこんでいた。
そこまで彼も暇ではないだろうし――雨季にはいるのだから、と。
それが。
それが、だ。
まさか、誰が雨の中、森に入ってくると思うだろうか。
そんな愚かな――愚か以外のなにものでもない――行動をとるものが、いるとは思わなかった。
「――ミオ、心配してくれるんだね」
考えにふけっていた私の意識が、その言葉で現実に戻される。
嬉しそうな、カインの声。――嬉しそう?
違和感を覚えて、気がつくと俯いていた顔を勢いよくあげれば――微笑むカイン。
「でも、大丈夫だよ。――きっと迷わない」
恐れを知らぬ、笑み。自信に溢れる――そんな、微笑み。
何故。
何故そんなにも、自信を持てるの?
何故、自分は大丈夫だと――そう、おもえるのだろうか。
……愚かな。なんて愚かな。
根拠など、どこにあるというのか。
彼にここへ来ることを許可したのは、まちがいなく私。
その選択は、間違いだったのだろうか。
――愚かなのは、いったい、誰?
呆然と見返す私に、カインは嬉しそうに微笑んで、ゆっくりとカップを傾けていた。
――そのさまを、レイルは、静かにみていた。
ただ、静かに――みていた。
雨。雨が降る。
さぁさぁと。細く細く。まるで霧のように。けれど霧よりも深く。
全てを多いつくす雨の幕は、どこまでもどこまでも、家を、森を、村を、世界を包みこむ。
――まるで、繊細な檻のように。
リルシャの森は、迷いの森。
ひとたび足を踏み入れれば、それは緑の迷宮になる。
迷宮を覆うのは、降りしきる雨。
さぁさぁと、静かな音を立てて。
閉じ込められ囚われるのは、一体、誰?
蘇るのは、遠い世界の思い出。
聞こえる雨音は、まるで思い出の扉を開くノックのように、私の記憶を引きずり出す。
哀しい、と、思うには、時間が立ち過ぎた。
けれど、切ない思いは、胸から消えない。
降りしきる雨の音は、途切れることなく、静かにあたりをみたす。
私には解らない。
遠いその記憶を、忘れてしまうべきなのか、忘れないほうがいいのか。
忘れない限り私は、この世界で異端であり続けてしまうように思えるし、かといって、忘れてしまうにはその想い出は大事すぎた。
こうして、どっちつかずのまま、ずっと――そう、この世界に落ちた時からずっと――ふわりふらりと私は在る。
森の娘。森の妖精などと呼ばれる度に、浮かぶのは自嘲。
――地に足がつききっていないことを、まるで看破されたかのようで。
同じ家の中には、レイルがいつもいる。今夜はカインもいる。
――雨の中、村まで歩いて帰ることなど無理だろうから、一晩とめることになったのだから。
ひとりじゃない。
私はひとりじゃない、けれど。
私は、ひとりなのだ、と。
その複雑な境界は、私の中に消えることなく、刻み込まれるように在る。
ことり、と、音が聞こえる。
私は、ゆっくりと、視線を上げる。
そう、こんな夜は。
いつも、こんな夜は。
――静かに、彼は、側にいた。
「……レイル」
部屋に入ることなく、入り口で。扉にもたれかかった体勢のまま、静かにこちらを見詰める視線。
そこにあるのは、どんな感情なのか。
私が夜、ひとりで泣いていそうな時になると、静かに側にいた彼。
何も言わず。何もとわず。――なにもせず。
そう、今夜のように、ただ、じっと私の側に――触れ合わない距離ではあるけれど――あって、見詰める、彼。
それを、いつから居心地悪いと思わなくなったのか。
いつから、それで落ち着くようになったのか。
――いつから、彼のその目にある感情を知りたい、と、思うようになったのか。
抱きしめるわけでもない。
慰めるわけでもない。
ただ、そこにあるだけの存在に、いつしか心を慰められるようになったのは、なぜなのか。
わからない、けれど。
それは、ひとつの変化。
それは、ひとつの兆し。
彼は、危険なものかもしれないのに。
そう――カインに指摘されて憤慨を覚えたにも関わらず、私自身がどこかで彼のことを疑っているというのに。
彼は、時折、姿を消す。
ほんの数刻のそれは、疑問に思うほどのことではないかもしれない。
狩りのためでもあるだろうし、彼自身にもひとりになる時間は必要だろう。
――けれど。
何故か、私は、疑っている――否、理解しているような気がしていた。
彼が、求めることを。
彼の行動の意味を。
恐らくそれは――……。
雨は降る。
ただ静かに雨は降り続ける。
揺らぐ心を、揺らぐ思いを、静かに封じ込めるように。
「……どうしたら、いいの」
夜があけ始める。
ひとりの部屋の中、呟いた言葉は、誰にも聞こえないまま。
静かに森の中へと消えていった。