――カインの焦燥
心臓が、激しく脈打つ。
背中を、じわり、と、嫌な汗が流れた。
――ああ。
俺は今、どんな表情をしているのだろう。
ほんの、僅かな間、だというのに。
あれから――あの、村への彼女の立ち入りが禁止されてしまった時から、それほど長い時間が過ぎたわけでは、ないというのに。
何故。
その言葉が、ぐるぐると頭を巡って、止まらない。
その男は誰なんだ。
君にとって、その男は、どんな存在なんだ。
彼女を引き寄せて問い詰めてしまいたい気持ちを、必死で押し殺す。
困ったように目の前で笑う彼女に、口内に苦い味が広がる。
彼女の中には、本当に、警戒心とか、自衛心というものはないのだろうか。
苦い思いのなかに、少しばかり呆れたような思いすら混じってしまう。
ちらりと視線をうつしたさき、その男は、我関せずといった風情で、木に凭れかかっている。
見るからに、普通の人間ではない――訓練された人間だろう、その男。
ミオは、森の中、家の前に倒れていた彼を放って置けなかったというけれど。
どうして、と。
どうして、そんな得体の知れない人間を、彼女は容易く受け入れてしまったのか。
どこか警戒心が薄い所があるのは、気づいていた。
警戒心がないわけではないのだけれども、人間に対して壁があるにもかかわらず――おひとよしとでもいうべきか、困った人間に対しては冷たくできない、放置できない「優しさ」を持っている人間であるというのは、少なからず彼女を見てきた中で、幾度となく目にしてきた。
それが彼女の魅力のひとつであることは間違いないのだけれど――これは、この、状況は。
この国は、この近辺は、確かに、長い間平和で大きな争いらしきものは存在しない。
治安自体はそこまで悪くない、といえるが――だからといって、完全にいいといえる状態ではない。
人がいる所には、悪心が沸く。
実際、小さな村であるトマソンの村でも、稀に盗難事件が起こったり――外部からの狩人や旅人が揉め事を越すことがないわけではない。
ミオ自身、一度ならずと、村に訪れたときにそれを目にしている、はずなのに。
彼女はどこか、楽観視してしまっているような――安全であることが当たり前であるかのような感覚を、持ってしまっているように思えて仕方がない。
それは、まるで幼子のような。まるで、何も知らない子供のような、そんな風情を、時折垣間見せる。
苦々しい思いを隠しながら、とにかく、と、商品の取引を始める。
苦い想いと、どこか心配でしょうがない、そう、激しい庇護欲のような想いと――それをすべて、ぐっと心の内に隠して、微笑みながら。
ほっとどこか安心したように、取引に応じてくる彼女の笑みを、見詰めながら思う。
守らなければ、ならない娘なのだ、と。
この子は、守らなければならない存在なのだ、と。
心の中で静かに決意する。
彼女は幼子ではない、と、わかっているのに。
幼い、包みこんで守らなければならない子供ではない、はずだと、解っている、のに。
たとえ止められようと――このまま放置しておくなんて、そんなことはできない。
にこやかに終えた取引の後、ちらりと見詰めた、その男は――レイルの表情、は。
どこか、興味深そうに――面白そうに、こちらをみている、もので。
カッ、と、内心血が昇る。
馬鹿にされている、と。そう、感じてしまって。
思わず握り締めた掌は、ぎり、と音を立てて、強く爪後を残した。
その想いが恋情と疑わず。
守らなければと思った、楽観視しているとそう思いこんだ自分が、彼女の真実を知らなかったのだと知ることになるのは、まだ先の話。
それでも、そのときの想いは。
強く――たとえ思っていたものではなかったとしても――まっすぐなものであったのだと、信じている。