或る傭兵の独白
その噂が広まったのは、春の初めの頃だった。
リルシャの森の中に人がすんでいる――その噂を、シュトレックの酒場で彼が聞いたのは、花の盛りも終わろうとする頃。
西の辺境。その一番端にあるリルシャの森は、獣が多く生息し、樹木が生い茂る迷いの森として有名だった。
酒場の主人が言うには、今まで狩人が稀に訪れるだけだった森の中に、家がたっているのだという。
そこには花が咲き、畑があり、果樹が植わり、獣の森とは思えぬほど穏やかな空気が流れている、と。狩人たちの噂になっていたのだと、主人は言う。
あんな森に住むなんて、どんな奇特な人間なのか、と呟いたレイルに、酒場の主人はこう告げた。
――ある人は、少年だといい、ある人は少女だという、艶やかな黒髪の、細身の人間なのだそうだ、と。
むしろ、妖精かなんかなのかもしれねぇなぁ、と、磊落に笑いながら言う言葉に、興味を惹かれたのは一瞬。
けれど、酒場を出る頃には、その噂話など、頭の隅から消えていた。
これから仕事だ。商隊の護衛という、辺境にしてはまぁまぁの仕事。今回の相手は金払いのいい顧客だ。しばらくはその護衛の仕事にかかりきりになる。
そう――辺境で傭兵家業にせいを出す自分と、その森に住むという人のかかわりなど、ありえないはずであり、だからこそレイルはそんな噂話など、忘れてしまっていた。
けれど。それを思い出すことになろうとは、そのときの彼は、これっぽっちも想像などしていなかった。
ましてやその人間と深くかかわることになることなど――思いもよらないことだった。
あくまで、噂は噂であり。
それは、遠くはなれた点と点でしかなく。
それが結ばれて、線になりつながっていくことなど――誰に予想しえただろうか。
それは、誰も知らない、不思議な巡り合わせ。
特別でもなんでもない、しかし、偶然の、出来事。
――そして、物語ははじまる。