居候志望
我に返って、とにかく、男を家に戻らせて、残りの作業を、とりあえず済ませて――しかし、ほとんど仕事はのこっていなかったのだが――取り急ぎ朝食にした。
男はどうやら、朝のうちに水を浴びてきたらしく、さっぱりとした様子で、質素なつくりの椅子に腰掛けている。
……最大の疑問は、君の体力は一体どうなってるんだ? ということか。前日まで寝込んでいたはずなのに、今朝になってこの元気。驚きの回復だ。これが体力と鍛え方の差なのか。それとも、異世界人との体質の差なのか。
なにはともあれ。
シンプルで定番の我が家の朝食を、もくもくと食べ終えて。すっきりする香草茶をいれたところで、やっと話をする体勢が整った。
ふう。と、満足の吐息をひとつ。そして、彼に顔をむけると、じっと見詰めた。
「で。貴方は誰?」
いまさらな気がものすごくするけれど、これを聞かないことには話が始まらない。まっすぐに視線をむければ、同じく、まっすぐに視線が帰ってきた。
緑の瞳が、森の木の葉のようだ、と、意味もなくふと思う。
男は、ぽつりと告げた。
「レイル」
沈黙が落ちる。
「……ええと、それだけ?」
「……」
「……えーっと、なんでこの家の前に倒れてたの?」
無言のまま、ゆっくりと香草茶を、まるで自分が主人であるかのように優雅に、しかし表情なく飲み干す男に、頬が僅かに引きつるのを感じる。……おまえ一体何様のつもりだ。と、ちらりと内心柄の悪さが出てきてしまうのはご愛嬌。だって現代日本の今時の娘でしたから。このくらい、普通、の、はず。まぁ。この世界にきてから、なんだか前より自由奔放に内心なってるけど。外側は大人しいいい子ぶりっこだけど。おじいさんの影響とか、いろいろで。うん、たぶん。
じっと見詰める先で、男はゆっくりと器を机に戻すと、口を開いた。
「……シュトレックの街にいた。追われているうちに森に迷い込んだ」
「追われている?」
追われている、とは尋常ではない。言葉がたりなくて要領はまったく得ないけれども、なにか犯罪を侵したか、なにかに巻き込まれた可能性が高い。つまり、最初に思った厄介ごとだという感覚は、間違いではなかったのか。やっぱり放置しておくべきだったか。それとも、家に引っ張り込まずに森の中に引っ張って捨てて来るべきだったか。なんにしろ、失敗してしまったのには違いがない。ぐるぐると、失敗の文字が脳内を巡る。
それが表情と声にでてしまったのだろう。
男の片眉が、ぴくり、とあがる。
「たいした事ではない。追っ手も森まではこないだろう。ここは安全だ。」
確かに。森になんの備えもなく、知識もなく入ろうとする人間はそうそういないだろう。……まあ、何を思ったか、目の前の男は、逃げるためとはいえ森の中に突入して来たようではあるが。通常であれば、森の中にはいるのは限られた人間だけ。追っ手も普通であれば、追っかけてはこないだろう。それをかんがえると、彼の言葉は間違いない。ように聞こえる、が。
「この森には、狩人達も訪れるわ。その追っ手が、彼ら狩人を雇えば――ここだって安全じゃないのよ」
そう。ひっそりと街に広まっている、森の家の噂。発端を考えた時、しばらくして思いついたのは狩人たちだった。私以外で唯一、生活の糧を得るために森に足を踏み入れる人間。今まで、彼らにとって森の中の事は語らないのが鉄則だったから、最初は思い至らなかった。が。時は春。ちょうど新しい人間が森へと気はじめる時期だったことを考え合わせると、狩人である可能性も高い。
ならば。
私一人ならば、なんとでもなる。むしろ何とかできる。けれど。人をかくまう余力も、気力もない。つまり、ここは安全ではないのだ。彼にとって安全ではありえない――はずなのだ。
まぁ、もっとも、リルシャの森へと来るようなレベルの狩人が、そうそうはっきりとしない怪しげな依頼を受けるかと言うと、そこは疑問なのだけれど、全くないとは言い切れないのが、ある種の身分社会の現実だろう。
それに。どうしても、ひとつ、ものすごく引っかかることがある。ここは安全だ。なんて、彼が言い切っているけど。なんだかおかしくないだろうか。私が、この家は安全よ、っていうならまだわかる。けれど、だ。客分である、むしろ厄介物である男が、ここは安全だ、と、ゆったりと優雅にここで過ごしている。この状況をおかしいと思う私が、おかしいのだろうか。
「問題ない」
一体何が問題ないというのか。
……なんだか、嫌な予感がする。すんごく、嫌な予感がする。
彼の中では何らかの結論が出てしまっているようで、その上で話しているようだけれど。その結論ってたぶん、いや、おそらく、まちがいなく、私にとって嬉しくないこと、というよりも――好ましくないことのような、気がする。うん。
この場合。
嫌な予感がするからと、そのままにするわけにはいかない。
つまりは、聞くしか、ない訳で。
私は、しぶしぶと口を開いた。
「まさか、とは、思うけれど。……ここに居座る気じゃ、ないでしょうねぇ?」
語尾が上がってしまう。居座られるのは迷惑この上ない。厄介な存在である、という理由もそうだけれども――最大の理由は。
私は、人が、自分の領域にいることが、あまり好きじゃ、ないのだ。自分の領域と認識した範囲内に、自分以外の誰か――ごく近しい人間以外、しかも彼らですら、あるライン以上近づかれるのは好きじゃない――が、存在することが、そう、はっきり言えば、いや、なのだ。
だから。
できれば――否、できなくとも、さっさと出て行ってほしい、というのが、心からの本音、なのだ。
少しばかり、祈るような気持ちで、彼の言葉をまつ。そう、気のせいであってほしい。いや、きっと私の気のせいに違いない。
す、と男の目が細まる。
「何を言う」
その言葉に、ほっ、と、肩の力がぬけた。なんだ、ほら、やっぱり気のせいなんだ。
「そ、そうよね、居座るなんてそんな――」
勘違いだったかと、少し気はずかしい気持ちで目を伏せつつ、続けた私の言葉は、無駄な美声にさえぎられた。
「しばらくここに滞在するに決まっているじゃないか」
唖然として目をあげれば、男は、たいしたことではない、と言わんばかりの顔で、世話になる、なんていいながら、お茶のお代わりを要求して来る。
――この世界に、ひっくり返し易いちゃぶ台というのは、存在しないのだろうか。