第七幕 フォーカス・オン・ひのり
その日、六時間目の授業が終わった教室には、開放感と脱力感が漂っていた。
だが、それも束の間。チャイムが鳴ると同時に入ってきた音屋先生の姿に、教室の空気がピリッと引き締まる。
「はい、ホームルーム始めます。プリント、配るわよ」
音屋先生は淡々と、束になったプリントを配り始める。
用紙の上部には『一年中間試験のお知らせ』と大きく書かれていた。
「来週から中間試験に入ります。赤点を取った場合、部活動は停止。これは全学年共通、例外なし。
“うっかり”じゃ済まされないから、各自きちんと準備するように」
淡々としたその口調に、生徒たちは一斉にため息をつく。
プリントを斜めに眺めながら、ひのりもまた机に突っ伏した。
「うぅ……またこの季節かぁ……」
小声でぼやいた瞬間――
「――特に、本宮さん?」
「へっ!? わ、私!?」
教室の前方、音屋先生がぴたりとこちらを見ていた。
少し微笑みすら浮かべながら、さらりと告げる。
「あなたの演技力は認めてるけれど、テストの台詞はアドリブ不可よ。
読解力と記述力も、“表現力”の一部だと理解してちょうだいね?」
教室にくすくすと笑い声が広がる。
隣の席の七海が、冷静に囁いた。
「おいおい、HRで名指しはズルいわ。完全に主演女優扱いじゃん」
「主演っていうか……吊るし上げだよぉ……」
ひのりは顔を真っ赤にして、机に突っ伏したまま、小さくうめいた。
⸻
放課後、演劇部の部室には重たい空気が漂っていた。
「……というわけで、勉強会をやりまーす」
七海があっさりと告げると、ひのりはガバッと顔を上げた。
「えっ、今すごく自然に流されたけど!? 勉強会!? しかも“やります”って決定済み!?」
「だって、赤点で部活停止とか絶対イヤでしょ? ひのりの家、ちょうどいいし」
「私の家……!? えっ、どういう基準で!?」
紗里がすかさず乗っかる。
「いや〜見たかったんだよね〜、ひのりの“聖域”。絶対さ、変なぬいぐるみとかいっぱいあるんでしょ?」
「あるけど!? あるけどさぁ!」
「お母さんとか、びっくりしない……?」
みこがそっと心配そうに尋ねると、ひのりは一瞬考えたあと、思い切ったように言った。
「……お菓子はある! 勉強できるかどうかは……保証しない!」
「お菓子あれば十分だな」
七海は満足げに頷くと、スケジュール帳を開いた。
「じゃあ、土曜の13時。ひのりの家集合で。Wi-Fiは? 冷房ある?」
「あるよ!? 家のスペック聞かれるとか初めてなんだけど!」
帰り道、ひのりは一人、とぼとぼと歩いていた。
部室でのにぎやかさとは打って変わって、静かな夕暮れが彼女を包み込んでいる。
試験前になるたびに、こうだった。
小中学校の頃からずっと、勉強は苦手。どれだけ楽しく過ごしていても、
「テスト」という言葉ひとつで、気持ちが冷え込んでいく。
「でも演劇部では、“伝説作るぞー!”って言って……なんか、うまくいっちゃって……」
小さくつぶやいて、空を見上げる。
橙色に染まった雲が、ふわりと形を変えて流れていった。
「次は……ちゃんとやらなきゃ、だよね……」
けれど、「ちゃんと」って何?
どうやれば“ちゃんとした自分”になれるのか、ひのりにはまだわからなかった。
⸻
土曜の午後、まだ陽が高い時間。
制服ではない、ラフな私服姿の七海・紗里・みこが、ひのりの家の前に集まっていた。
「ここか……ひのりちゃんの家って、なんか意外とちゃんとしてるんだね」
みこがぽつりと呟くと、紗里が腕を組んでニヤリと笑う。
「いやいや、中は分からんぞ? 隠しきれない混沌が潜んでる可能性大~」
「やめてよぉ……」
思わず背後から声がして、玄関の引き戸がガラリと開いた。
「ようこそ舞風演劇部勉強会へ! って、今の会話、丸聞こえだったからねっ!」
登場したのは、テンション高めのひのり。
その後ろから、優しげな笑みを浮かべたひのりの母と、もう一つ、勢いよく動く影――
「わんっ!」
突如飛び出してきたのは、大きなラブラドール・レトリバー。
ひのりの叫びが響く。
「ハッピー! ちょっと待って! 落ち着いてー!」
だが止まらない。
ハッピーは弾丸のように走り、まずは紗里に豪快に飛びついた。
「きゃあっ!? って、うわ、なにこれ! でかっ! でも可愛い~~~!!」
ハッピーは全力で舐めまわし、紗里は爆笑しながら受け止めていた。
「わ、わわっ……っ!」
みこはというと、目を見開いて数歩後ずさる。
「ひのり、こっち来ちゃってる、こっち来ちゃってるよ!? 無理無理無理!」
「ハッピー、ストーップ! みこちゃん怖がってるからあああ!」
ようやく首輪を引っ張って落ち着かせると、ひのりの母が申し訳なさそうに現れた。
「すみませんねぇ、うちの子……ちょっとテンション高くて」
「大丈夫です! もう、めっちゃ可愛いですから!」
紗里が笑いながらハッピーの頭を撫でる。みこはまだ少し距離をとっていたが、ようやく「だ、大丈夫……たぶん……」と小声で呟いた。
「じゃ、リビングどうぞ。冷房も効いてるし、テーブルも広めにしてあるから」
ひのりに案内されて、三人は家の中へ入っていった。
⸻
ひのりに案内され、リビングに通された三人。
そこは拍子抜けするほど“普通の空間”だった。
木目調のフローリングに、ベージュのソファ。
テレビ台の横にはレシピ本が並び、壁には家族写真が整然と飾られている。
窓際には小さな観葉植物。涼しげに風がカーテンを揺らしていた。
「……なんか、ふつうに“ちゃんとしてる家”だね……」
みこがぽつりと呟く。
「でしょ? うちの親、こういうとこだけきっちりしてるからさ〜」
とひのりが笑うと、紗里が腕を組んで警戒したような目を向ける。
「だがしかし……“魔窟”はこの奥にあるに違いない……!」
「やめてよ、探検隊みたいなノリで来るの……」
そして一行は、階段を上って2階へと向かった。
ひのりが2階の自室の前で立ち止まり、後ろを振り返る。
「じゃあ……覚悟はいい?」
「うわ、その言い方……フラグじゃん完全に」
紗里が苦笑しながら身構え、みこは不安げにひのりと七海を見比べた。
「……七海ちゃんは、平気なの?」
「うん。何回も来てるし。ていうか――」
七海は腕を組み、ドアを見つめながら淡々と続ける。
「何回も来てるけど今日はいつもより、ちゃんと片付いてると思う。床が見えるもん」
「それもう、家族目線じゃん!」
ひのりが突っ込みながら、照れ隠しのようにドアノブを握った。
「いくよ……それでは、いざ――開幕!」
ギィ……とドアが開け放たれる。
次の瞬間、三人の目に飛び込んできたのは、ひのりワールド全開の光景だった。
壁には手作りの魔法の杖、紙でできた王冠、大小さまざまな仮面。
棚には整然と並んだフィギュア――その中には、例の**「魔法少女ひのりん」**も。
ベッドには色とりどりのぬいぐるみが埋め尽くされ、まるでファンタジー空間の小劇場のよう。
「うわ……」
「……すご……」
「完全に……舞台の裏側って感じ……」
みこがそっと息を呑むように呟く。
紗里は部屋の真ん中まで進み、棚を見て思わず笑い出した。
「これ……なに!? 主役のグッズ展開!? っていうか、これ絶対ひのりんでしょ!?」
「バレたか〜。小学生の時、自分で考えたキャラなんだ。“魔法少女ひのりん”!」
「なんか、衣装のディテール細かくない……?」
「お母さんに誕生日プレゼントって言って頼み込んで、特注で作ってもらったの。世界に一体だけ!」
「そりゃ聖域って呼ばれるわけだ……」
七海はぬいぐるみをよけるようにして座りながら、肩をすくめた。
「うん、片付いてる。だいたい床が全部見えてる日は“奇跡の日”って呼んでいいやつ」
「失礼なこと言うな〜〜!」
ひのりは笑いながら枕を構えかけたが、すぐ我に返って勉強モードに戻る。
「……ってわけで、はい! 本日ここで“赤点回避作戦”を決行いたします!」
「言い出した割にはテンション高っ!」
「作戦名が既にアニメのサブタイなんよ……」
とぼけたやり取りに笑いが起こる中、ちゃぶ台のまわりにそれぞれ座ってプリントを広げていく。
みこが、ふと魔法少女ひのりんのフィギュアに目を留める。
「……なんか、すごく“大事なもの”って感じがする」
「うん。ひのりにとって、これは“出発点”みたいなもんだから」
七海の言葉に、ひのりは少しだけ照れくさそうに頷いた。
「……そう。今の私が、ここにいるのって……たぶん、この“ひのりん”から始まってるんだよね」
紗里がちゃぶ台に教科書を広げながら、ひのりの部屋をぐるりと見回して言った。
「……ってかさ。前回の打ち上げで言ったよね。“フォーカス・オン・ひのり”って」
「えっ……ああ、唯香が勝手に次回予告したやつ?」
「うん。今日、完全にそれじゃん。照明もセットも完璧。“本宮ひのり”主演の回って感じだよ」
ひのりはちょっと照れたように苦笑して、ポテチをつまみながら呟いた。
「……そっか。確かに、そうだったね。“私が主役の回”かぁ……」
ふと、その手が止まる。
目の前にある魔法少女ひのりんのフィギュアに、静かに視線を落とした。
「……ねえ。ちょっとだけ、昔の話してもいい?」
みこが目を丸くして頷き、七海は黙ってうなずいた。
ひのりは息を吸って、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「私、物心ついたときからずっと“誰かになりたい”って思ってたの。最初は、幼稚園のとき。正義の味方に憧れてて、“悪の幹部から先生を守るんだー!”って言いながら、布団の上でジャンプして怒られた」
「……めっちゃひのりっぽい」
紗里が吹き出しそうになりながらも、黙って続きを聞いた。
「小学校に上がってからも変わらなかった。お姫様のドレスを画用紙で作って登校したこともあったし、ランドセルに魔法ステッキつけて、“今日は魔界からの刺客が来る日”って言って、変身の練習ばっかりしてた」
「それ……友達、どう反応してたの?」
みこがそっと尋ねると、ひのりは少しだけ目を伏せた。
「……最初は、“面白いね”って笑ってくれた。でも、段々と浮いてきた。みんなが成長していく中で、私だけ“ごっこ遊び”から抜けられなくて……“いつまでやってるの?”って言われたこともあった」
部屋の空気が、少しだけ静まる。
けれど、ひのりは続けた。
「でもね、小学校のときに一度だけ、すごく不思議な出会いがあったの」
「……不思議な?」
「でも、そんな中でね……一度だけ、不思議な出会いがあったの。低学年ぐらいの頃だったかな?公園で、同い年くらいの女の子が一人で泣いてたの」
「泣いてた……?」
みこがそっと繰り返す。
「うん。なんか……誰かに追われてたというか、撮影のスタッフみたいな大人たちが遠くにいて、女の子はそこから逃げてきたみたいだった。服とかも、ちょっと舞台衣装っぽくて……そのときは気づかなかったけど、その子は子役で“何かの撮影だったんだ”って後から思った」
「え……そんな子と会ったの?」
「うん。私、“魔法使いごっこしない?”って声かけたら、その子、びっくりした顔して……でも少ししてから、こくんって頷いてくれて。一緒に魔法使いになって遊んだんだ。公園のベンチを“空飛ぶ馬車”にしてさ」
そのときのことを思い出すように、ひのりは少し笑う。
「最後に、“魔力を託します”って言って、おもちゃの指輪をその子に渡した。そしたら、スタッフみたいな人が来て、その子は無言で連れて行かれちゃった。……名前も聞けなかった。ほんと、あっという間のことだったんだ」
部屋の空気が、そっと染み入るように静かになる。
「へえ……優しい子だったんだね、ひのりもその子も」
紗里が答える。
「ううん……なんていうか、“誰かに見られるのが怖い”って感じの子だった。でも、一緒に遊んでる間だけは、すごく楽しそうで……」
ひのりは、机の引き出しをそっと開けた。
中から、小さなプラスチックの指輪を取り出す。
「最後に、この指輪の片方を渡したの。“魔力を託す”って言って。その子が泣かなくなってくれたらいいなって思ってた」
みこが、その指輪を覗き込みながら小さく呟いた。
「……その子、今もどこかで持ってるかもね」
「だったら、嬉しいな……あのとき公園で魔法使いごっこしたあと、“魔法って本当にあるかも”って思って……それから、“魔法少女ひのりん”ってキャラを考えて、フィギュアまで作っちゃったんだ」
ほんの少し微笑んでから、ひのりはまた視線を下げる。
「でも、中学に入ってからが、一番つらかったかも。演じることを口に出すと“イタイやつ”って思われるし、誰かになりきろうとしてると、“キャラ作ってる”って言われた。いつの間にか、教室でも孤立しちゃってた」
「……」
「でも、そんなときでも――七海だけは、そばにいてくれた」
静かに名を呼ばれた七海が、少し目を伏せた。
「笑って流してくれたり、“風の精霊が降りてきた”って言っても、“じゃあ傘持ってくるね”って返してくれたり……あれ、めっちゃ救われたんだよ」
「……そうだったんだ」
「だから、舞風に来て、演劇部に入って、また“誰かになれる場所”を見つけられて……ほんとに、嬉しかったんだ」
指輪を見つめながら、ひのりはぽつりと呟いた。
「もしかしたら、私ってずっと、“誰かを救いたい”って気持ちが強かったのかも。だから、演じるっていう“形”を使って、自分の居場所を探してたんだと思う」
沈黙が、優しく降りる。
誰もすぐには言葉を返さなかった。
けれどその沈黙には、確かに――“理解”と“共感”があった。
そして、紗里が静かに、けれど少し誇らしげに口を開いた。
「……やっぱり今日、“フォーカス・オン・ひのり”で正解だったね」
ひのりは照れくさそうに笑って、言った。
「……うん。ありがとう。ちゃんと、自分のこと……話せてよかった」
ひのりの語りが終わって、しばらく誰も言葉を発しなかった。
けれど、その沈黙は重くもなく、優しくそこに満ちていた。
そして――
「……ねえ、その子、今どうしてるんだろうね」
ぽつりと、みこが言った。
「え?」
ひのりが少し驚いたように顔を上げる。
「撮影から逃げてきたって子。その後どうなったのかなって。……なんか、ひのりちゃんの話を聞いてたら、気になっちゃって」
「……そうだね。あのときも、きっと何か悩んでたんだと思う。
今は、どこでどうしてるか分かんないけど……」
ひのりはそっと、天井を見上げた。
「……笑っててくれたら、いいな。あのとき、“ありがとう”って言えなかったからさ」
「ひのりの指輪、大事にしてるといいね」
紗里が、にやっと笑いながら言った。
「いや〜、近い内にどこかで再会して、“あの時の魔法少女だよね?”とか言われたら超エモいじゃん!」
「そんなこと、あるかなあ……でも、あったら泣いちゃうかも……」
ひのりは、少しだけ涙ぐみながら笑った。
そしてそのまま、外の空を見た。
窓の外には、夕暮れのオレンジ色がじんわりと広がっていた。
一日が終わる静かな気配と、どこか新しい始まりのような、透明な光。
「……そろそろ、帰ろっか」
七海が立ち上がって、みこや紗里もそれに続く。
ひのりの母が玄関先で見送る中、三人は「ありがとうございましたー!」と明るく手を振って帰っていった。
「……ふぅ」
玄関のドアが閉まったあと、ひのりはリビングに戻り、ちゃぶ台の前に座り直す。
そこには、使いかけのプリントと、開きっぱなしのノート。
少しだけ眺めて――
「……よし。やるか」
そう呟いて、シャーペンを手に取った。
苦手な数学のプリントを開いて、深呼吸する。
「“伝説作った”とか、“演劇は好き”とか言っといて……赤点で部活停止なんて、カッコ悪すぎるもんね」
誰に言うでもない独り言が、静かな部屋に溶けていく。
鉛筆の音だけが響く中――
ひのりの背中には、少しだけ覚悟が宿っていた。
演劇だけじゃなく、自分の“苦手”にも向き合ってみようと思えるくらいには。
夕暮れの光が、彼女の背中を静かに照らしていた。
続く