第二十五幕 山場を超えて
三月。
学年末テストが、すべて返却された。
教室には、答案用紙を見ながら一喜一憂する声が飛び交っている。
「やったー、平均超えた!」
「数学ギリギリだった……」
そんな中――
ひのりは、自分の机の上に並んだ赤い数字から、目を逸らせずにいた。
国語:赤点
数学:赤点
英語:赤点
「……え」
声にならなかった。
何度見ても、現実は変わらない。
(うそ……三つ……?)
頭の中が真っ白になる。
七海のノートで勉強して、夜中まで課題もやって、
あんなに頑張ったのに――結果はこれだった。
「……ひのりちゃん」
隣から、みこが心配そうに覗き込む。
「だ、大丈夫……?」
「……うん……だいじょぶ……」
まったく大丈夫じゃない声だった。
紗里も、ひのりの答案をちらっと見て、言葉を失う。
「……ま、まじか……」
七海は何も言わず、ただ静かにひのりの赤字を見つめていた。
唯香だけは、表情を変えずに視線を伏せている。
――その日の放課後。
部室に入る前、五人は音屋亜希に呼び止められた。
「ひのりちゃん、ちょっと来なさい」
声は穏やかだった。
それが逆に、怖かった。
職員室横の小さな面談室。
音屋は答案の束を机に置き、淡々と告げる。
「……赤点、三教科。補習対象ね」
ひのりは、喉がひりつくのを感じながら頷いた。
「……はい……」
「正直に聞くわ」
音屋は目を上げる。
「あなた、舞台に出る気ある?」
「え……?」
「本番まで、あと二週間よ」
声が低くなる。
「主役が赤点で補習漬け。
この状態で“学年末公演”に立つつもり?」
ひのりは、何も言えなかった。
「言っておくけど」
音屋は続ける。
「これは、あなた一人の問題じゃない」
ひのりの胸が、嫌な音を立てて鳴る。
「あなたが補習になるなら、
稽古時間は削られる。
全体の仕上げにも影響する」
そして――決定打。
「だから、連帯責任にするわ」
ひのりの顔から、血の気が引いた。
「え……連帯……?」
「ひのりちゃんの課題が終わるまで、
全体稽古は“制限付き”」
その言葉を、音屋ははっきりと告げる。
「通し練習は中止。
個別パートのみ。
本番形式の稽古は、あなた次第」
――つまり。
ひのり一人の赤点で、
全員の舞台が止まる。
音屋は、最後に静かに言った。
「舞台に出る気がないなら、
今ここでやめてもいいのよ」
ひのりの視界が、ぐらりと揺れた。
「仲良しごっこなら、別の部活でもできる」
音屋の声は冷たい。
「でも、これは“本番”よ。
覚悟がないなら、主役は降りなさい」
ひのりは、唇を噛みしめる。
(やめる……?
私が……?)
面談室を出たとき、
廊下の向こうで待っていた四人の視線が、同時にひのりに集まった。
何も聞かなくても、伝わってしまう。
空気が、重く沈んでいた。
(……やっちゃった)
この瞬間、ひのりは初めてはっきりと理解した。
自分の赤点は、
「自分だけの失敗」じゃない。
――舞台そのものを、止めかねない失敗なのだと。
いい流れ。ここは「責められる」じゃなくて
淡々と正論で刺され続ける地獄にした方が効く。
⸻
そのまま、重たい空気のまま多目的室に入った。
誰も、すぐに口を開かない。
いつもなら自然に始まるストレッチも、今日は妙にぎこちない。
「……じゃ、始めよっか」
ひのりが無理やり明るく言う。
返事は、ない。
七海が台本を開いたまま、ぽつりと言った。
「……ひのり、さっき先生に何言われたの」
ひのりの肩が、わずかに跳ねる。
「……連帯責任、だって」
沈黙。
その沈黙を、唯香が破った。
「……つまり」
淡々とした声。
「あなたの赤点が原因で、通し稽古できないってことね」
ひのりは、何も言えない。
「ごめん……」
小さく絞り出す。
七海は眼鏡を外し、静かに言った。
「ごめん、で済む話じゃないよね」
その言葉が、胸に刺さる。
「私たち、今いちばん必要なのって“通し”でしょ」
七海の声は冷静だった。
「フォーメーションも、間も、感情の流れも、全部」
紗里が口を開こうとするが、言葉が出ない。
「それが全部止まるって」
七海は続ける。
「かなり致命的なんだけど」
「……分かってる」
ひのりは俯いたまま言う。
「ほんとに……ごめん」
唯香が、ひのりを真っ直ぐ見た。
「分かってるなら、どうしてこうなったの?」
責める口調ではない。
でも、逃げ場のない問いだった。
「勉強も、稽古も、両立するって言ったのは、あなたよね」
ひのりは言葉に詰まる。
「……頑張ったつもり、なんだけど……」
「“つもり”じゃ意味ない」
唯香は即答した。
「舞台は結果しか見ない場所」
その一言が、ひのりの喉を締めつける。
「赤点ってことは」
七海が淡々と続ける。
「最低限の自己管理もできてないってことだよね」
「……っ」
「それで主役は、正直きつい」
言葉は静か。
でも、内容は容赦がなかった。
みこが慌てて口を挟む。
「ま、待って……!
ひのりちゃん、ちゃんと頑張ってたよ……!」
「頑張ってたのは知ってる」
七海は視線を逸らさず言う。
「でも、結果がこれ」
紗里も、珍しく黙ったまま床を見つめている。
唯香が、さらに追い打ちをかける。
「正直に言うわ」
声は低い。
「今のひのり、
“夢を追う人”って役に、説得力ない」
ひのりの心臓が、どくんと鳴った。
「だって、現実すら追いついてないもの」
ひのりは、思わず声を荒げた。
「……そんな言い方しなくてもいいじゃん!!」
「いいえ」
唯香は冷静だった。
「言わなきゃいけないから言ってる」
七海も頷く。
「ここ、部活じゃなくて“舞台”だから」
その瞬間、ひのりの目に涙が滲む。
「……私だって……
本気でやってるのに……」
声が震える。
「なのに、赤点ひとつで……
全部否定されるの……?」
みこが、ぎゅっとひのりの袖を掴む。
「ひのりちゃん……」
七海は一瞬だけ言葉を探し、そして言った。
「否定してるんじゃない」
「……じゃあ何」
「“信用”の話」
その言葉が、決定的だった。
「今のひのりは、
舞台を預けるには、正直……不安」
ひのりの視界が、滲んでいく。
唯香が、静かに付け加える。
「この状態で本番迎えたら、
一番傷つくの、ひのり自身よ」
沈黙。
誰も、ひのりを責めている顔はしていない。
でも、誰一人として、ひのりをかばってもいなかった。
(……私だけ、取り残されてる)
楽しかったはずの演劇部が、
いつの間にか――
“結果と覚悟”しか許されない場所になっていた。
ひのりは、とうとう声を詰まらせた。
「……もう……どうすればいいの……」
その小さな呟きが、部室に、重く落ちた。
その日から、ひのりの生活は一変した。
放課後――
みんなが部室に向かう時間、ひのりだけは別の教室にいた。
補習課題のプリントが、机の上に山積みになっている。
「……まず数学……」
小さく呟いて、ペンを走らせる。
分からないところは教科書を開き、スマホで調べ、
それでもダメなら、七海に送られてきたノートの写真を見返す。
眠くても、やる。
頭が回らなくても、やる。
(……やるしかない)
泣く時間も、言い訳する時間も、もう残っていなかった。
⸻
部室に戻るのは、いつも最後だった。
「……遅れてごめん」
息を切らして入ってくるひのりに、
最初の頃は、誰も何も言わなかった。
ただ、視線だけが刺さる。
それでもひのりは、すぐに台本を開く。
「……途中からでも、入る」
言い訳はしない。
疲れたとも言わない。
声がかすれても、歌う。
足がもつれても、動く。
⸻
数日後。
ひのりのノートは、別物のようになっていた。
赤ペンだらけの課題プリント。
隙間には、小さく書かれた歌詞メモ。
ページの端には、振り付けの矢印。
授業中も、休み時間も、
ひのりはずっと何かを書いていた。
「……ひのりちゃん、最近ずっと机向かってるよね」
みこが、小声で紗里に言う。
「前はさ、テスト前でも普通に駄弁ってたのに」
「……あいつ、マジで追い込まれてるな」
紗里は、ひのりの背中をちらっと見る。
声は出さない。
でも、空気は変わり始めていた。
⸻
ある日の稽古。
通し練習の途中、
ひのりの声が、明らかに変わった。
♪「夢は――光――」
以前のような、空回りの声じゃない。
喉を絞らず、でも、逃げない。
七海が、思わずペンを止める。
唯香も、鏡越しにひのりを見る。
(……あれ)
みこの歌声と、自然につながる。
フォーメーションのズレも、ほとんどない。
曲が終わったあと、
しばらく誰も声を出せなかった。
沈黙を破ったのは、音屋先生だった。
「……今の」
全員が身構える。
「ひのり、もう一回」
ひのりは驚きつつも、立ち位置に戻る。
同じフレーズ。
♪「夢は――光――」
さっきより、さらに深い。
音屋は、何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと頷いた。
⸻
その日の帰り道。
七海が、ひのりの横に並ぶ。
「……課題、どう」
「……終わったの、まだ半分」
「……それで、この声?」
ひのりは苦笑する。
「正直、頭パンクしてるけど……
舞台でだけは、止まりたくない」
七海は、少しだけ黙ってから言った。
「……信用、戻ってきてると思うよ」
ひのりは目を見開く。
「え」
「少なくとも、私は」
その言葉に、ひのりは一瞬だけ言葉を失い――
そして、深く息を吐いた。
「……ありがとう」
⸻
部室の空気は、まだ張り詰めている。
でも、あの“刺すような沈黙”は、もうなかった。
誰も、ひのりを責めない。
誰も、甘やかさない。
ただ、同じ速度で走ろうとしている。
(……取り戻せるかもしれない)
ひのりは、汗だくのノートを抱きしめながら思った。
楽しいだけの演劇部には、もう戻れない。
でも――
本気でぶつかり合う場所としてなら、
ここは、まだ“帰れる場所”だった。
公演前日。
特別リハーサル室には、いつもより静かな空気が流れていた。
ざわつきも、雑談もない。
あるのは――呼吸の音と、靴が床を擦る音だけ。
ひのりは、深く息を吸って立ち位置につく。
(……いよいよだ)
七海はノートを閉じ、ペンを置いた。
紗里はストレッチを終え、無言で音楽プレイヤーをセットする。
みこは楽譜を胸に抱え、目を閉じて呼吸を整える。
唯香は鏡を見ず、ただ前を見ていた。
誰一人、笑わない。
でも、誰一人、怯えてもいない。
⸻
「……じゃあ、通すわよ」
音屋亜希の声も、いつもより低かった。
ピアノのイントロが流れる。
ひのりの足が、自然に動く。
声が出る。
もう、考えていない。身体が先に反応していた。
♪「夢は――光――」
七海の語りが重なり、
紗里の動きがリズムを作り、
みこの声が空気を柔らかくし、
唯香の存在が、舞台を締める。
誰か一人が突出することもない。
誰か一人が沈むこともない。
五人で、一つの物語だった。
⸻
最後の音が消える。
沈黙。
誰も、すぐには動けなかった。
息が、少しだけ荒い。
音屋は、しばらく何も言わずに五人を見ていた。
そして――ゆっくりと、口を開く。
「……ここまで、よく来たわね」
その一言に、全員の肩が、ほんの少しだけ緩む。
「最初は、正直言って、どうなるかと思ってた」
音屋は、珍しく笑った。
「赤点だの、衝突だの、泣き出すだの……問題だらけだった」
ひのりは思わず苦笑する。
「でも」
音屋の声が、少しだけ優しくなる。
「今のあなたたちは、ちゃんと“舞台の顔”になってる」
七海が小さく息を吐く。
紗里は、拳をぎゅっと握る。
みこは、目を潤ませながらうなずく。
唯香は、何も言わず、でも確かに笑っていた。
そして、音屋先生は最後にこう言った。
「明日は、もう指導しない」
「あなたたちの舞台は、あなたたちのものよ」
ひのりの胸が、じんわりと熱くなる。
(……やっと、ここまで来た)
失敗も、衝突も、涙も、全部含めて――
この場所に立っている。
五人は、何も言わずに、ただ並んで鏡の前に立った。
そこに映るのは、
もう“不安な部活”じゃない。
本番を迎える、
“舞台のチーム”だった。
続く。




