第二十五幕 山場を超えて
「ここが戦場だ! いや、歴史の舞台だっ!!」
ひのりは自宅の部屋で机に向かって教科書を握りしめ、時代劇の侍になりきっていた。
「徳川家康……関ヶ原を制した将軍! ……覚えたっ!」
次の瞬間、英語のノートを広げる。
「――真実はひとつ! be動詞、三人称単数、ここにあり!!」
探偵になりきりながら、英文を音読。
そして数学のプリントを前に――
「出でよ、xの値! 連立方程式よ、我に解答を授けたまえっ!」
魔法使いポーズでペンを振る。
だが――時計は午前1時を回っていた。
「ふぁぁぁぁ……眠い……」
ペンを落とし、机に突っ伏すひのり。
その瞬間、部屋のドアが開く。
「ひのり、まだ起きてんの!?」
母が顔をのぞかせ、呆れ顔。
「近所迷惑になるでしょ、その大声……何の芝居してんのよ」
「ち、違うって! 勉強! これは、暗記演劇法なの!!」
「はいはい……いいから、早く終わらせなさい」
ドアが閉まると、ひのりは拳を握る。
(負けない……絶対に終わらせてみせる!)
――そして朝。
眠そうな顔で学校に登校したひのりは、ギリギリで全課題を提出。
「――よしっ!終わったぁぁぁぁぁ!」
教科書とレポートの山に囲まれた机で、ひのりが万歳した。
全教科の課題を提出し終えた瞬間だった。
「ふぅ……危なかったぁ……」
机に突っ伏しながら、視線がカレンダーへと向かう。
赤字で大きく書かれた文字――
《公演まで、あと14日》
(……課題は片付いた。でも、次は――)
視線の先、開きっぱなしの台本。
(ここからが“本当の勝負”だ)
⸻
放課後、舞風学園・特別リハーサル室。
広い鏡張りの空間に、緊張と汗の匂いが漂う。
すでに集まっている仲間たち。
七海は台本を片手に、指先でリズムを刻んでいる。
紗里はストレッチをしながら、小さくダンスのステップを確認。
みこはイヤホンを片耳に差し、かすかに歌を口ずさんでいた。
唯香は――静かに目を閉じ、深い呼吸を整えている。
(……みんな、スイッチ入ってる)
ひのりはドアノブを握ったまま、胸の鼓動を感じた。
(置いてかれたくない……!)
ガチャ――
ドアを開けると、冷たい空気の中に音屋亜希先生が立っていた。
腕を組み、その瞳は鋭い。
「全員、そろったわね」
低く、張り詰めた声。
「言っておくけど――演劇は“遊び”じゃない。本気じゃないなら、帰りなさい」
その一言で、空気がピリリと凍った。
「……大丈夫です!課題も終わったし、もう全力です!」
ひのりは拳を握り、声を張った。
だが、音屋の視線は冷たい。
「課題? そんなの当たり前。――ここからは、“役を生きる覚悟”がある者だけ残りなさい」
全員が、無言でうなずいた。
そして――ピアノの音が鳴り響く。
⸻
「まずは、歌とダンスを合わせて。――フォーメーションを崩さない! もっと音を“感じて”!」
音屋の声がリズムに混ざり、容赦なく飛ぶ。
ワン・ツー・スリー・ターン!
ひのりは必死で笑顔を作る。
(よし、笑顔全力――!)
だが、その瞬間――
「ひのり、その笑顔は“仮面”よ! 舞台に欲しいのは記念写真じゃない!」
「えっ……!」
足が止まりそうになる。
七海の冷静な声が背中に飛ぶ。
「だから言ったでしょ。“役を生きろ”って」
「わ、分かってるってば!」
声が上ずる。視線が泳ぐ。
唯香の声が鋭く切り込む。
「……なら、見せなさい。“できる”を」
張り詰めた空気。
鏡越しに映る自分の顔――汗と、不安と、焦り。
音屋が手を叩く。
「――次は歌。ひのり、前へ」
イントロが流れる。息を吸う。
♪「夢は――光――」
声は響く。でも――
「止めなさい」
ピアノが止まり、沈黙が落ちた。
「今のは“音”をなぞっただけ。観客が聴きたいのは、あなたの“心”よ」
音屋の目が射抜く。
「その“夢”に、命を賭けられるの?」
胸が締めつけられる。
(私……できてない……)
「――もう一度」
音屋の声が落ちる。
再びイントロが流れた。
でも、ひのりの手は、まだ小さく震えていた――。
翌日。
放課後の特別リハーサル室には、昨日よりもさらに熱気がこもっていた。
大きな鏡に映るのは、5人の少女たち――だが、その表情はどこか硬い。
「じゃあ、今日も通しでいくわよ」
音屋亜希先生の声が響く。
腕を組み、5人を射抜くような視線を送る。
「仕上げ段階に入るわ。……いい? 中途半端なら舞台に立たせない」
その言葉に、ひのりは思わず息を呑んだ。
(昨日よりも、さらにピリピリしてる……!)
「課題は終わったんでしょ?なら、言い訳はないわね」
音屋の視線がひのりを一瞬だけ鋭くかすめた。
ひのりは小さくうなずく。
「……はい」
ピアノのイントロが鳴る。
ひのりは息を吸い込み、全身に力を込めた。
絶対にやってやる……!
通し稽古を開始する。
「ワン・ツー・スリー・ターン、アームアップ、シェネ!」
鏡の前で、5人が一斉に動く。
フォーメーションは複雑。
歌いながら、動きながら、表情を作り――。
「テンポに乗って!止まらない!」
音屋先生の声が飛ぶ。
「ひのり、その笑顔は“仮面”よ!舞台で欲しいのは写真じゃない、生きた表情!」
「……っ!」
ひのりは心臓をぎゅっとつかまれたような気分になった。
「七海、言葉が置き去りよ。“歌詞”じゃなくて、“心の声”を届けて!」
「紗里、ステップ軽い! 軸を感じて!」
「みこ、止めない!息を止めたら声も止まる!」
「唯香――あなただけは、崩れないわね」
――その一言が、場の空気をさらに重くした。
(……やっぱり、唯香ちゃんは別格……!)
ひのりの胸に、焦りがチクリと刺さる。
⸻
30分後。
ピアノの音が止み、音屋は腕時計を見て短く告げた。
「私は職員会議があるから席を外すわ。残りは自主練習で仕上げなさい」
「はい!」
5人の声が響くが、その裏にあるのは――緊張と苛立ち。
音屋が出て行った瞬間、静寂が落ちる。
鏡張りの部屋に、誰かの小さなため息が響いた。
「……じゃあ、もう一回通そうか」
ひのりが明るく声を上げる。
だが――返事は、ない。
七海が、ゆっくりと振り返った。
「……ねえ、ひのり」
その声は、いつもの落ち着いた調子。
だけど――冷たい。
「自分の動き、見てた? 完全に浮いてた」
「えっ……」
ひのりは固まる。
「そ、そんなに……?」
「そんなに、じゃない。“完全に”」
七海の言葉は、鋭く切り込む。
「台詞も軽い。歌も……“叫んでるだけ”」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 昨日よりはマシだって……!」
ひのりは必死に言い返す。
その瞬間、唯香が冷ややかに告げた。
「“マシ”じゃ意味がない。本番は13日後。観客は、昨日よりマシな演技を見に来るの?」
「……っ!」
ひのりは唇を噛んだ。
胸の奥が、ズキズキと痛む。
「そんな言い方しなくても……」
紗里が眉をひそめて口を開く。
「ひのり、頑張ってるじゃん!」
「頑張ってるだけじゃ通用しない舞台なの」
唯香の声は冷たく、容赦がない。
「――甘えるなら、今のうちにやめなさい」
「な、なんでそんなにキツいの!? 唯香ちゃんだって、最初からできたわけじゃないでしょ!」
ひのりが声を荒げると、唯香の瞳が鋭く光った。
「……私は最初から、本気だった」
「じゃあ、私は本気じゃないって言うの!?」
「そう聞こえるなら、そうなんじゃない?」
――空気が、ピキリと音を立てた。
「ちょ、ちょっと、やめようよ!」
紗里が慌てて声を上げる。
「こんなピリピリしてたら、余計にうまくいかないって!」
「じゃあ、どうするの?」
七海の冷たい声が重なる。
「あと13日で仕上げる方法があるなら、教えてよ」
「そんなの……」
紗里は言葉を詰まらせた。
――沈黙。
その沈黙を破ったのは――震える声だった。
「……もう、やめようよ……」
みこが、顔を伏せながらつぶやいた。
「ケンカなんて、したくないよ……。私たち、同じ演劇部でしょ……?」
その言葉に、全員が動きを止める。
「ひのりちゃんだって、唯香ちゃんだって、七海ちゃんだって……みんな、一緒に舞台を作りたいからここにいるんじゃないの……?」
――声が震えていた。
でも、その一言で、張り詰めた空気が少しだけ緩む。
ひのりは、ぎゅっと拳を握った。
「……ごめん」
小さな声だった。
唯香も、七海も、言葉を失っていた。
鏡越しに見えるのは――バラバラになりかけた5人。
でも、その胸の奥には、同じ痛みと焦りが渦巻いていた。
――公演まで、あと13日。
「夢と現実のステップ」は、まだ揃っていない。
だけど――絶対に、止まるわけにはいかなかった。
――数日後。
リハーサル室に差し込む午後の光は、どこか柔らかかった。
けれど、その空気の中で動く5人は、誰一人として“柔らかく”はなかった。
ひのりは、鏡の前で必死に動きを繰り返す。
ターン、ステップ、ポーズ――その表情には、迷いがない。
(……負けない。ぜったい、追いつく)
昨日まで震えていた声は、もう震えていなかった。
その隣で、七海がノートを片手に、台詞を口にしては、歌に乗せる。
低く、深く、呼吸を意識する姿は、まるで別人のよう。
(言葉じゃなく、“心”を届ける……)
彼女の視線は、鏡の奥の“舞台”を見つめていた。
紗里は汗で濡れた髪を気にせず、ダンスの動きを何度も繰り返す。
「……1、2、3……よし、決まった!」
笑顔を浮かべながらも、その足元は赤く擦り切れていた。
(痛くても……止まれない!)
みこは、ピアノ伴奏に合わせて歌う。
その声は、小さいけれど、優しかった。
でも――その奥に、確かな芯が芽生えていた。
「♪夢は――光――」
(……怖くない。私の声で、届けるんだ)
そして――唯香。
誰よりも冷静な彼女は、誰よりも練習を重ねていた。
ピアノを弾きながら歌い、鏡の前で動き、台詞を口にする。
彼女の瞳には、もう迷いはない。
(これは、私の“好き”を証明する舞台――)
⸻
時計の針は、容赦なく進んでいく。
日めくりカレンダーには、大きな赤字が浮かんでいた。
「公演まで、あと7日」
その日めくりの数字が、ひのりには挑戦状に見えた― ―。
部室の扉を開け、ひのりが声を上げる。
「みんな……ここまで来たね」
その声には、不思議な力があった。
七海がペンを置き、静かにうなずく。
「……ええ。でも、まだ終わってない」
「うん。むしろここからが本番」唯香の声も落ち着いている。
紗里が汗を拭いながら、拳を握る。
「泣き言なしで、突っ走るしかないっ!」
みこは、ぎゅっと楽譜を握りしめて、小さく微笑んだ。
「……一緒に、最後まで」
彼女たちは、再び鏡の前に立った。
光に照らされるその姿は――
“夢”を追い、“現実”を超えるための、戦士たちのようだった。
――さらに日が進み、ついに公演前日。
部室には、ピリピリした空気ではなく、張り詰めた集中と穏やかな自信があった。
全員、黙々と動きを確認し、声を整えている。
ひのりはステップを繰り返しながら、七海の声を耳にしていた。
「……大丈夫、言葉に“心”をのせれば、届く」
その一言に、ひのりは小さく頷き、笑みを浮かべる。
紗里は足首を回しながらひのりにグータッチを送る。
「いけるよ、あたしたちなら」
みこは譜面をぎゅっと握り、深呼吸してから歌い出す。その声は――もう震えていなかった。
唯香は全体を見回し、静かに笑む。その笑顔には、かつての冷たさは一切なかった。
そのとき、音屋亜希先生が入ってくる。
かつての“鬼の目”ではなく、どこか柔らかな視線を向けて。
「……よく、ここまで来たわね」
その声に、全員が振り向く。
「最初は、正直、不安しかなかった。でも――今のあなたたちなら、胸を張って舞台に立てる」
ひのりは思わず、目頭が熱くなるのを感じた。
「先生……ありがとう」
「礼なんていらないわ。明日は――楽しみなさい。演劇は、楽しむためにあるのよ」
そう言って、音屋はふっと笑った。
その笑顔を見て、5人は同時に頷いた。
(……やれる。今なら、どんな壁も超えられる――!)
⸻
カレンダーには、最後の1枚。
《公演当日》の文字が、夕陽に照らされていた。
そして、運命の日は、もうすぐそこだった――。




