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舞風学園演劇部 第一部 青春の開演  作者: 舞風堂
第六章 夢を歌う舞台へ
25/26

第二十五幕 山場を超えて

 三月。

 学年末テストが、すべて返却された。


 教室には、答案用紙を見ながら一喜一憂する声が飛び交っている。


「やったー、平均超えた!」

「数学ギリギリだった……」


 そんな中――

 ひのりは、自分の机の上に並んだ赤い数字から、目を逸らせずにいた。


国語:赤点

数学:赤点

英語:赤点


「……え」


 声にならなかった。


 何度見ても、現実は変わらない。


(うそ……三つ……?)


 頭の中が真っ白になる。

 七海のノートで勉強して、夜中まで課題もやって、

 あんなに頑張ったのに――結果はこれだった。


「……ひのりちゃん」


 隣から、みこが心配そうに覗き込む。


「だ、大丈夫……?」


「……うん……だいじょぶ……」


 まったく大丈夫じゃない声だった。


 紗里も、ひのりの答案をちらっと見て、言葉を失う。


「……ま、まじか……」


 七海は何も言わず、ただ静かにひのりの赤字を見つめていた。

 唯香だけは、表情を変えずに視線を伏せている。


 ――その日の放課後。


 部室に入る前、五人は音屋亜希に呼び止められた。


「ひのりちゃん、ちょっと来なさい」


 声は穏やかだった。

 それが逆に、怖かった。


 職員室横の小さな面談室。

 音屋は答案の束を机に置き、淡々と告げる。


「……赤点、三教科。補習対象ね」


 ひのりは、喉がひりつくのを感じながら頷いた。


「……はい……」


「正直に聞くわ」

 音屋は目を上げる。

「あなた、舞台に出る気ある?」


「え……?」


「本番まで、あと二週間よ」

 声が低くなる。

「主役が赤点で補習漬け。

 この状態で“学年末公演”に立つつもり?」


 ひのりは、何も言えなかった。


「言っておくけど」

 音屋は続ける。

「これは、あなた一人の問題じゃない」


 ひのりの胸が、嫌な音を立てて鳴る。


「あなたが補習になるなら、

 稽古時間は削られる。

 全体の仕上げにも影響する」


 そして――決定打。


「だから、連帯責任にするわ」


 ひのりの顔から、血の気が引いた。


「え……連帯……?」


「ひのりちゃんの課題が終わるまで、

 全体稽古は“制限付き”」


 その言葉を、音屋ははっきりと告げる。


「通し練習は中止。

 個別パートのみ。

 本番形式の稽古は、あなた次第」


 ――つまり。


 ひのり一人の赤点で、

 全員の舞台が止まる。


 音屋は、最後に静かに言った。


「舞台に出る気がないなら、

 今ここでやめてもいいのよ」


 ひのりの視界が、ぐらりと揺れた。


「仲良しごっこなら、別の部活でもできる」

 音屋の声は冷たい。

「でも、これは“本番”よ。

 覚悟がないなら、主役は降りなさい」


 ひのりは、唇を噛みしめる。


(やめる……?

 私が……?)


 面談室を出たとき、

 廊下の向こうで待っていた四人の視線が、同時にひのりに集まった。


 何も聞かなくても、伝わってしまう。


 空気が、重く沈んでいた。


(……やっちゃった)


 この瞬間、ひのりは初めてはっきりと理解した。


 自分の赤点は、

 「自分だけの失敗」じゃない。


 ――舞台そのものを、止めかねない失敗なのだと。


いい流れ。ここは「責められる」じゃなくて

淡々と正論で刺され続ける地獄にした方が効く。


 そのまま、重たい空気のまま多目的室に入った。


 誰も、すぐに口を開かない。

 いつもなら自然に始まるストレッチも、今日は妙にぎこちない。


「……じゃ、始めよっか」

 ひのりが無理やり明るく言う。


 返事は、ない。


 七海が台本を開いたまま、ぽつりと言った。


「……ひのり、さっき先生に何言われたの」


 ひのりの肩が、わずかに跳ねる。


「……連帯責任、だって」


 沈黙。


 その沈黙を、唯香が破った。


「……つまり」

 淡々とした声。

「あなたの赤点が原因で、通し稽古できないってことね」


 ひのりは、何も言えない。


「ごめん……」

 小さく絞り出す。


 七海は眼鏡を外し、静かに言った。


「ごめん、で済む話じゃないよね」


 その言葉が、胸に刺さる。


「私たち、今いちばん必要なのって“通し”でしょ」

 七海の声は冷静だった。

「フォーメーションも、間も、感情の流れも、全部」


 紗里が口を開こうとするが、言葉が出ない。


「それが全部止まるって」

 七海は続ける。

「かなり致命的なんだけど」


「……分かってる」

 ひのりは俯いたまま言う。

「ほんとに……ごめん」


 唯香が、ひのりを真っ直ぐ見た。


「分かってるなら、どうしてこうなったの?」


 責める口調ではない。

 でも、逃げ場のない問いだった。


「勉強も、稽古も、両立するって言ったのは、あなたよね」


 ひのりは言葉に詰まる。


「……頑張ったつもり、なんだけど……」


「“つもり”じゃ意味ない」

 唯香は即答した。

「舞台は結果しか見ない場所」


 その一言が、ひのりの喉を締めつける。


「赤点ってことは」

 七海が淡々と続ける。

「最低限の自己管理もできてないってことだよね」


「……っ」


「それで主役は、正直きつい」


 言葉は静か。

 でも、内容は容赦がなかった。


 みこが慌てて口を挟む。


「ま、待って……!

 ひのりちゃん、ちゃんと頑張ってたよ……!」


「頑張ってたのは知ってる」

 七海は視線を逸らさず言う。

「でも、結果がこれ」


 紗里も、珍しく黙ったまま床を見つめている。


 唯香が、さらに追い打ちをかける。


「正直に言うわ」

 声は低い。

「今のひのり、

 “夢を追う人”って役に、説得力ない」


 ひのりの心臓が、どくんと鳴った。


「だって、現実すら追いついてないもの」


 ひのりは、思わず声を荒げた。


「……そんな言い方しなくてもいいじゃん!!」


「いいえ」

 唯香は冷静だった。

「言わなきゃいけないから言ってる」


 七海も頷く。


「ここ、部活じゃなくて“舞台”だから」


 その瞬間、ひのりの目に涙が滲む。


「……私だって……

 本気でやってるのに……」


 声が震える。


「なのに、赤点ひとつで……

 全部否定されるの……?」


 みこが、ぎゅっとひのりの袖を掴む。


「ひのりちゃん……」


 七海は一瞬だけ言葉を探し、そして言った。


「否定してるんじゃない」


「……じゃあ何」


「“信用”の話」


 その言葉が、決定的だった。


「今のひのりは、

 舞台を預けるには、正直……不安」


 ひのりの視界が、滲んでいく。

 唯香が、静かに付け加える。


「この状態で本番迎えたら、

 一番傷つくの、ひのり自身よ」


 沈黙。


 誰も、ひのりを責めている顔はしていない。

 でも、誰一人として、ひのりをかばってもいなかった。


(……私だけ、取り残されてる)


 楽しかったはずの演劇部が、

 いつの間にか――

 “結果と覚悟”しか許されない場所になっていた。


 ひのりは、とうとう声を詰まらせた。


「……もう……どうすればいいの……」


 その小さな呟きが、部室に、重く落ちた。


その日から、ひのりの生活は一変した。


 放課後――

 みんなが部室に向かう時間、ひのりだけは別の教室にいた。


 補習課題のプリントが、机の上に山積みになっている。


「……まず数学……」


 小さく呟いて、ペンを走らせる。

 分からないところは教科書を開き、スマホで調べ、

 それでもダメなら、七海に送られてきたノートの写真を見返す。


 眠くても、やる。

 頭が回らなくても、やる。


(……やるしかない)


 泣く時間も、言い訳する時間も、もう残っていなかった。



 部室に戻るのは、いつも最後だった。


「……遅れてごめん」


 息を切らして入ってくるひのりに、

 最初の頃は、誰も何も言わなかった。


 ただ、視線だけが刺さる。


 それでもひのりは、すぐに台本を開く。


「……途中からでも、入る」


 言い訳はしない。

 疲れたとも言わない。


 声がかすれても、歌う。

 足がもつれても、動く。



 数日後。


 ひのりのノートは、別物のようになっていた。


 赤ペンだらけの課題プリント。

 隙間には、小さく書かれた歌詞メモ。

 ページの端には、振り付けの矢印。


 授業中も、休み時間も、

 ひのりはずっと何かを書いていた。


「……ひのりちゃん、最近ずっと机向かってるよね」

 みこが、小声で紗里に言う。


「前はさ、テスト前でも普通に駄弁ってたのに」


「……あいつ、マジで追い込まれてるな」


 紗里は、ひのりの背中をちらっと見る。


 声は出さない。

 でも、空気は変わり始めていた。



 ある日の稽古。


 通し練習の途中、

 ひのりの声が、明らかに変わった。


♪「夢は――光――」


 以前のような、空回りの声じゃない。

 喉を絞らず、でも、逃げない。


 七海が、思わずペンを止める。


 唯香も、鏡越しにひのりを見る。


(……あれ)


 みこの歌声と、自然につながる。

 フォーメーションのズレも、ほとんどない。


 曲が終わったあと、

 しばらく誰も声を出せなかった。


 沈黙を破ったのは、音屋先生だった。


「……今の」


 全員が身構える。


「ひのり、もう一回」


 ひのりは驚きつつも、立ち位置に戻る。


 同じフレーズ。


♪「夢は――光――」


 さっきより、さらに深い。


 音屋は、何も言わなかった。

 ただ、ゆっくりと頷いた。



 その日の帰り道。


 七海が、ひのりの横に並ぶ。


「……課題、どう」


「……終わったの、まだ半分」


「……それで、この声?」


 ひのりは苦笑する。


「正直、頭パンクしてるけど……

 舞台でだけは、止まりたくない」


 七海は、少しだけ黙ってから言った。


「……信用、戻ってきてると思うよ」


 ひのりは目を見開く。


「え」


「少なくとも、私は」


 その言葉に、ひのりは一瞬だけ言葉を失い――

 そして、深く息を吐いた。


「……ありがとう」



 部室の空気は、まだ張り詰めている。

 でも、あの“刺すような沈黙”は、もうなかった。


 誰も、ひのりを責めない。

 誰も、甘やかさない。


 ただ、同じ速度で走ろうとしている。


(……取り戻せるかもしれない)


 ひのりは、汗だくのノートを抱きしめながら思った。


 楽しいだけの演劇部には、もう戻れない。

 でも――


 本気でぶつかり合う場所としてなら、

 ここは、まだ“帰れる場所”だった。


 公演前日。


 特別リハーサル室には、いつもより静かな空気が流れていた。

 ざわつきも、雑談もない。


 あるのは――呼吸の音と、靴が床を擦る音だけ。


 ひのりは、深く息を吸って立ち位置につく。


(……いよいよだ)


 七海はノートを閉じ、ペンを置いた。

 紗里はストレッチを終え、無言で音楽プレイヤーをセットする。

 みこは楽譜を胸に抱え、目を閉じて呼吸を整える。

 唯香は鏡を見ず、ただ前を見ていた。


 誰一人、笑わない。

 でも、誰一人、怯えてもいない。



「……じゃあ、通すわよ」


 音屋亜希の声も、いつもより低かった。


 ピアノのイントロが流れる。


 ひのりの足が、自然に動く。

 声が出る。

 もう、考えていない。身体が先に反応していた。


♪「夢は――光――」


 七海の語りが重なり、

 紗里の動きがリズムを作り、

 みこの声が空気を柔らかくし、

 唯香の存在が、舞台を締める。


 誰か一人が突出することもない。

 誰か一人が沈むこともない。


 五人で、一つの物語だった。



 最後の音が消える。


 沈黙。


 誰も、すぐには動けなかった。

 息が、少しだけ荒い。


 音屋は、しばらく何も言わずに五人を見ていた。


 そして――ゆっくりと、口を開く。


「……ここまで、よく来たわね」


 その一言に、全員の肩が、ほんの少しだけ緩む。


「最初は、正直言って、どうなるかと思ってた」

 音屋は、珍しく笑った。

「赤点だの、衝突だの、泣き出すだの……問題だらけだった」


 ひのりは思わず苦笑する。


「でも」

 音屋の声が、少しだけ優しくなる。

「今のあなたたちは、ちゃんと“舞台の顔”になってる」


 七海が小さく息を吐く。

 紗里は、拳をぎゅっと握る。

 みこは、目を潤ませながらうなずく。

 唯香は、何も言わず、でも確かに笑っていた。


 そして、音屋先生は最後にこう言った。


「明日は、もう指導しない」

「あなたたちの舞台は、あなたたちのものよ」


 ひのりの胸が、じんわりと熱くなる。


(……やっと、ここまで来た)


 失敗も、衝突も、涙も、全部含めて――

 この場所に立っている。


 五人は、何も言わずに、ただ並んで鏡の前に立った。


 そこに映るのは、

 もう“不安な部活”じゃない。


 本番を迎える、

 “舞台のチーム”だった。


 続く。


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