第二十四幕 テストと稽古、二つの試練
時期は2月中旬に入る頃。
舞風学園演劇部の部室には、張り詰めた空気が漂っていた。
「……できた」
机の上に、七海がそっと一冊のノートを置く。
細やかな文字で埋め尽くされたそのページのタイトルは――
《ドリーム・ステップ!》
――『夢を追う人』『夢を諦めた人』『夢に縛られた人』――それぞれの選択を描く物語
「ついに完成……!」
ひのりが食い入るように表紙を見つめる。
「すごいよ七海ちゃん……ほんとに書き上げたんだね」
みこの声は震えていた。
七海は深呼吸をひとつ置いて、言った。
「――学年末公演、この台本でやるわ」
その瞬間、部室の空気が一変する。
唯香がページをめくり、目を細めてつぶやく。
「……本格的ね。セリフとト書きが、舞台を想定してる」
「当然よ。ミュージカルだから、セリフの合間に**“歌”と“動き”**が入る。……でも、時間はないわ」
七海の言葉に、ひのりが力強くうなずく。
「よしっ、やるぞー! 夢の舞台、全力で!!」
そのとき――
ガラリとドアが開いた。
「元気ね。でも、その元気がどこまで保つかしら?」
低い声。
振り返ると、音屋亜希先生が立っていた。
今日はいつもの柔らかな笑みではない。
その瞳には、鋭い光が宿っていた。
「……先生、今日は――」
「稽古よ。本気の。それとも“遊び”でやるつもり?」
その一言で、空気が一段と引き締まった。
⸻
稽古開始――“ぬるま湯”からの脱却
体育館横の特別リハーサル室。
広い鏡張りの空間に、冷たい木の床とピアノの音が響く。
「まずは基礎。――呼吸、できてる?」
音屋が一歩前に出る。
「はいっ!」
ひのりが元気よく答えるが――
「答えなくていい。“呼吸で示しなさい”」
次の瞬間、音屋の声が飛ぶ。
「――吸って! 背中まで空気を入れて! ……吐いて! もっと!
そこ、紗里、肩が上がってる! ……みこ、止めない、動きを止めると声も死ぬ!」
一人ひとりに、鋭いダメ出し。
その声は容赦がない。
「演劇部の発声じゃない、“舞台人”の発声をしなさい!」
鏡越しに映る自分の顔。
額に汗がにじむ。
呼吸が荒れる。
――まだ“始まったばかり”だ。
⸻
「次はダンス。――ミュージカルを甘く見るな」
ピアノの伴奏が鳴る。
軽やかなリズム――だが、ステップは複雑。
ワン・ツー・スリー・ターン、アームアップ、シェネ!
「テンポに乗って! 止まらない! ……ひのり、その笑顔、客席まで届く!? ……七海、リズムに置いていかれてる! ……紗里、軸! 軸を感じて!」
「うわっ、足が――!」
転びそうになる紗里を、ひのりが慌てて支える。
でも、音屋は止めない。
「助け合ってる暇はない! 本番は一人ひとりが舞台に立つのよ!」
――その言葉に、全員の背筋が凍った。
⸻
「最後、歌。――“セリフを歌に乗せる”って、どういうことか分かる?」
音屋の問いに、みこが小さく手を上げる。
「……セリフの延長で……感情を……」
「正解。でも、やれてない」
ピアノのイントロが響く。
「――ひのり、歌って」
ひのりは一歩前へ出て、声を張る。
♪「夢は――光――」
だが――
「**だめ。**ただの“カラオケ”よ。それじゃ伝わらない」
音屋の声は冷たい。
「“夢”って言葉に、あなたは何を見てるの?
観客が、あなたの“夢”を信じられるように歌って」
ひのりは唇を噛み、もう一度息を吸う。
――でも、声が震える。
「……私、まだ――」
その声を遮るように、音屋が言った。
「――次、唯香」
唯香が静かに前へ出る。
深呼吸一つ。
そして、ピアノに合わせて――
♪「夢は――光――」
声が、空気を震わせる。
まるで、言葉に“心”が宿った瞬間だった。
「……これが、“歌う”こと」
音屋の声が響く。
「――あなたたち、まだぬるま湯よ。
でも、このままじゃ――舞台に立つ資格はない」
全員が、言葉を失った。
⸻
(……悔しい)
ひのりの胸が熱くなる。
(私、こんなところで終わらない……!)
「もう一度、お願いします!」
ひのりの声が響いた。
音屋先生の目が、わずかに光る。
「――いいわ。何度でもやりなさい。
舞台に立ちたいなら、“本気”を見せて」
稽古場に、再びピアノが鳴り響く。
「――今日はここまで」
ピアノの音がふっと止まり、音屋亜希先生の声がリハーサル室に落ちる。
全員がその場で息を整え、汗を拭った。
「……でも、忘れないで」
音屋は腕を組み、鋭い視線を向ける。
「テスト勉強も、あなたたちの“現実”よ。舞台に全てを捧げたい気持ちは分かるけど、勉強を疎かにするのは愚か者のすること」
「……はい!」
5人の声が、いつもより強く、真剣に響いた。
それぞれの胸に、ひとつの決意が芽生えていた――
“どちらも諦めない。舞台も、現実も、全力でやりきる”
音屋はわずかに口元をほころばせる。
「いい顔ね。それじゃ――解散」
冷たい冬の夜、彼女たちの戦いは、まだ始まったばかりだった。
――数日後、放課後の喧騒が消えた夜。
ひのりの部屋。机の上には教科書とノート、赤ペン、そして……台本。
「えーっと……“夢は、誰かに笑われるものじゃない――”……」
小声で台詞をつぶやきながら、英単語帳を片手でめくる。
(テスト勉強と稽古、どっちも大事……!でも、頭がショートしそう!)
勢いよく立ち上がり、カーテンの前でポーズを取る。
「――『夢を信じる勇気を、今ここで!』」
台詞と一緒にターン……ガタッ!
机の上のペン立てが倒れ、カラカラと床に転がった。
「ちょっとひのり!何やってんの!?」
ドアを開けて現れたのは母。両手には洗濯物のカゴ。
「えっ、あ、これは……あの、その、歴史の暗記ダンスっ!」
苦し紛れの言い訳に、母は眉をひそめる。
「はいはい……夜中に騒がないでよ。近所迷惑だからね」
「わ、わかってるって!」
母が去ったあと、ひのりは小さく笑って――
(でも、絶対負けない。テストも、舞台も!)
机に戻り、再びノートを開いた。
――カレンダーには、大きく赤字で書かれている。
「公演日まで、あと1か月」
一方、七海はテスト勉強と並行して歌の練習を頑張っていた。机の上には、きちんと整えられた教科書とノート。
七海はペンを走らせながら、そっと口を動かす。
「♪夢は――光……」
声は小さい。けれど、その音には確かな響きがあった。
(……ただ音をなぞるだけじゃだめ。意味を、感情を……)
視線を落としながらも、彼女の手は止まらない。
ノートの片隅には、走り書きのメモ――
『セリフと歌の境界をなくす』
静かな部屋に、ページをめくる音と、かすかな歌声が重なっていた。
紗里の家ではリビングでテレビはつけっぱなし、テーブルには勉強道具。
しかし――紗里はそこから離れ、スマホを床に置いて動画を再生していた。
「ワン・ツー・スリー・フォー……ターン!」
リズムに合わせて、ステップを踏み、手を広げる。
――が、その瞬間。
「……お姉ちゃん、何やってんの?」
振り返ると、妹の花乃(小2)が、ポップコーン片手に首をかしげている。
その後ろから、年長の陽翔も顔をのぞかせる。
「ダンス? ……ヘンなの」
「ヘンじゃないしっ! 舞台でカッコよく決めるための練習!」
紗里は慌てて胸を張るが、二人の目はきらきら輝いていた。
「ねぇねぇ! 教えて!」
「ぼくもやる!」
「えっ!? ……ちょ、ちょっと待って! 床で滑るから靴下脱いで!」
リビングに、にぎやかな笑い声と、バタバタと動く足音が響いた。
(……こういう時間も、嫌いじゃないな)
紗里は額の汗をぬぐいながら、小さく笑った。
紗里と近所のみこは、机の上には教科書とノート、そしてスマホ。
みこはイヤホンを片耳だけに差し、スマホで流れる音階をなぞるように声を出していた。
「……あ、い、う……え、お……」
小さな声から、少しずつ音程を広げる。
♪「夢は――光――」
まだ震えはあるけれど、その声は真剣だった。
――トントン。
障子越しに、小さなノック音。
「……みこ?」
祖母の穏やかな声が聞こえる。
慌ててイヤホンを外すと、襖の隙間から顔をのぞかせた。
「……おばあちゃん……ごめん、うるさかった?」
「いいや。……でも、びっくりしたよ。声、大きくなったねぇ」
祖母は優しく微笑んで、静かに部屋へ入ってくる。
「小さい頃から歌が好きだったろ。お風呂でも、よく歌ってたじゃないか」
「……そう、だったかな……」
みこは頬を少し赤くしながら、目を伏せる。
でも、その口元はほんの少しだけ笑っていた。
「……頑張りなさい。みこの声、きっと誰かを元気にするから」
――その言葉に、胸がじんと熱くなる。
「……うん」
小さく答えた声は、もう震えていなかった。
そして唯香は、暖かなライトに照らされたリビングの片隅。黒いグランドピアノの前で、静かに指を走らせていた。
――軽やかな音階のあと、声が重なる。
♪「夢は――光――」
その響きは澄みきっていて、迷いがない。
(……感情を、もっと――)
口元にだけ小さな笑みを浮かべながら、もう一度。
ピアノの音に合わせ、言葉を乗せる。
♪「夢は――届く――」
リズム、呼吸、声量。
すべてが整っている。
だけど、それは決して“楽だから”ではなかった。
小さな指先に、静かな熱が宿っている。
曲を弾き終えた唯香は、そっと鍵盤の蓋を閉じる。
「……よし」
短くつぶやき、振り返ると――机の上には開きっぱなしの参考書。
唯香はピアノの椅子から立ち、迷いなく机に向かう。
赤いペンを手に取り、数式を解き始めた。
その横顔は、まるで嵐の中でも揺れない炎のように――静かに、しかし強く燃えていた。
5人はミュージカル公演に向けての練習と並行してテスト勉強を頑張るのであった。
3月上旬、テストを終えて返却された放課後の部室に、重苦しい沈黙と紙の擦れる音が混ざっていた。
机の上には、返却された答案用紙が無造作に積まれている。
「…………終わったぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
ひのりが机に突っ伏し、魂を抜かれた声で叫んだ。
「……何が終わったの?」
七海がペンを回しながら淡々と訊く。
ひのりは顔を上げ、震える手で答案を突き出した。
「数学、英語、国語――全部、赤点!!」
「多すぎでしょ」
七海はこめかみに手を当てる。
「で、紗里は?」
唯香の視線が横に移ると、紗里は苦笑いで答案を広げた。
「……英語と数学……二教科アウト……」
「“補習組”確定ね」
唯香の声は冷ややかだった。
「ひのりちゃん、紗里ちゃん……大丈夫だよ、きっと……!」
みこが必死にフォローするが、ひのりは机に突っ伏したまま両手を広げた。
「本番まであと2週間なのに!? 補習とか地獄すぎる~~!」
「……補習だけじゃないわよ」
七海が静かに告げる。
「レポート課題、全教科提出。追試はその後。終わらなきゃ部活禁止」
「な、なんでそんなルール!? 学校の鬼ィィィ!!」
ひのりが絶叫し、紗里も「わたしも無理ぃぃ!」と机に突っ伏す。
だが、その悲鳴をかき消すように、ドアが開いた。
「――騒がしいわね」
現れたのは、音屋亜希先生。冷たい冬の風をまとったような表情だ。
「テスト終わったなら稽古を再開するわよ。……と思ったけど、その顔を見る限り、勉強も放っておけないわね」
音屋の視線がひのりと紗里を射抜く。
「言っておくけど――公演は2週間後。本気で間に合わせるつもりがないなら、降りなさい」
空気が一瞬で凍った。
ひのりは唇を噛み、ぎゅっと拳を握る。
「――降りない。やる。……どっちも、やってみせる!」
紗里も顔を上げる。
「わたしも……諦めない!」
音屋はゆっくりと腕を組んだ。
「なら、こうしなさい――追試と課題をクリアしつつ、稽古は全力。それが条件」
「えぇぇぇ……」
ひのりは頭を抱えたが、七海が即座に言った。
「やるしかないでしょ。舞台に立ちたいなら」
唯香が静かに告げる。
「――明日から、勉強と稽古、両方の“戦場”よ」
「戦場って言うなぁぁぁ!!」
ひのりが叫んだその声が、部室の天井にこだました。
――そのとき、ひのりが突然、顔を上げた。
「……でもさ」
ひのりの瞳が、まっすぐに輝く。
「これってさ、青春っていう舞台を、私たち全力で演じてるんだよね!」
その言葉に、紗里が拳を握りしめる。
「そうだよ!泣き言言ってる暇なんてないっ!」
みこは少し不安そうにしながらも、ぎゅっとペンを握った。
「……うん。やる。だって、私たち――一緒だから」
唯香は静かに目を細め、言葉を紡ぐ。
「“諦めない”って決めたのは、私たち自身。……だから、やり遂げましょう」
七海はノートを開き、淡々と。
「まずは、やることを全部書き出しましょう。課題も、稽古も、全部」
その瞬間、空気が変わった。
――戦う舞台はひとつじゃない。
でも、どちらも全力で挑む価値がある。
そして――紗里が、ぽつりと笑った。
「……うん、そうだね」
七海も、唯香も、みこも、静かにうなずいた。
本番まで、残り二週間。
彼女たちの前に立ちはだかるのは、課題という現実と、舞台という夢。
二つの試練に挑む日々はまだ終わっていなかった。
続く。




