第二十三幕 夢の舞台へ
冬の午後、放課後の舞風学園演劇部の部室。
外は冷たい風が吹いているというのに、中は熱気を帯びていた。
「……あ・い・う・え・おっ……あーーーっ……!」
鏡の前でひのりが声を張り上げる。だが最後の音が裏返り、情けない声になった。
「いっ……失敗!」
顔を真っ赤にして両頬を押さえるひのりを、窓際の七海がちらりと見て、小さく笑った。
「……裏返ってる時点で“発声”じゃないわね」
「う、うるさいっ!まだウォームアップだから!」
七海は何も言わず、手元のノートにさらさらと何かを書きつける。
ページの隅に書かれた文字は――“沈黙の強さ”。
洋子の言葉だ。あの日以来、七海の頭から離れなかった。
一方、紗里はスマホをテーブルに立てかけ、ダンス動画を見ながら足を踏み出していた。
「ワン・ツー・スリー・フォー……えいっ!」
――ドンッ!
「ぎゃっ!」
次の瞬間、紗里は見事にバランスを崩して床に転がった。
「ちょ、ちょっと!?足つったー!」
「ほら言ったじゃん、ミュージカルって体力勝負だよ!」
ひのりが駆け寄り、慌てて足を伸ばす。
そんなドタバタを横目に、みこは窓辺で小さく口を動かしていた。
「……あ、い、う……え、お……」
その声は小さすぎて誰にも聞こえない。けれど本人にとっては、精一杯の練習だった。
そして――部屋の隅では唯香が静かにストレッチをしている。
その動きには迷いがなく、柔らかな軸が通っていた。
(……やっぱり、あの時の感覚は身体に残ってる)
小さく息を吐き、肩を回す。
そのとき、ドアが静かに開いた。
「……すごいわね」
柔らかな声に、全員が振り向く。
音屋亜希先生が立っていた。
「いつもより静かで、でも熱気がある。――この前のワークショップ、効いたみたいね」
ひのりたちは慌てて整列した。
「……どうだった? 一人ずつ、感想を聞かせて」
先生の言葉に、場の空気が一瞬だけ緊張する。
⸻
「……はいっ!」
最初に手を挙げたのは、やっぱりひのりだった。
「悔しかったです! すごく、悔しかった。でも……それ以上に、楽しかった!
“本物”を見て、私、もっと演劇やりたいって思いました!」
その目は、まっすぐだった。
「そう」音屋は小さく頷く。「次」
「……“沈黙にも力がある”」
七海の声は落ち着いていた。
「先生の言葉、まだ頭から離れません。……台本にも、活かせそうで」
「ふふ……さすが、言葉にこだわる人ね」
次は紗里。
「ダンスで足つりそうになったけど……なんかクセになりそう!もっと動きたい!」
「ええ、その元気、失わないでね」
みこは少し俯いてから、小さな声で言った。
「……まだ、怖いです。でも……泣いたとき、先生に言われた言葉……
“感情を知るのが演技”って……あれを思い出すと、ちょっと、自分を出すのが楽しくなりました」
最後に唯香。
彼女は静かに一礼してから言った。
「……昔、先生に習った時とは違う意味で、厳しさを感じました。
でも――仲間と一緒だからこそ、もっと高みを目指したいと思います」
音屋は全員の顔をゆっくり見渡し、微笑んだ。
「……いい顔してるわ。正直、あなたたち、別人みたい」
⸻
「さて――本題に入りましょうか」
先生が軽く手を叩いた。
「学年末公演。そろそろ方向性を決めないと」
その言葉を合図に、ひのりが勢いよく手を挙げた。
「はいっ! 私……やりたいです!ミュージカル!!」
「……来たな、火付け役」
紗里がニヤリと笑う。
「でも……私も賛成!」
「……ハードルは高い。でも、やる価値はあると思う」
七海は冷静に言葉を選ぶ。
「……できるかな……でも、挑戦したい」
みこは胸に手を当て、小さくうなずいた。
唯香が最後に口を開く。
「やるなら、全員“本気”で。中途半端は、許されないわ」
音屋先生は静かに頷いた。
「面白いわね。顧問としては賛成。ただし――やるなら“完成度”を求めるわよ」
「もちろん!」
ひのりは笑顔で拳を握る。
⸻
「で、どんな題材にする?」
「既存の作品は……著作権があるよね」
「じゃあ、オリジナル?」
「……オリジナル、やってみたい。今なら書ける気がする」
七海がノートを握りしめた。
「よーし!次回はテーマ決め会議だね!」
ひのりが両手を広げ、宣言する。
「それなら今度の土曜、私の家にみんなで来て話し合わない?」
唯香が静かに提案する。
「えっ!? いいの?」
ひのりがぱっと顔を上げて、驚きと期待が入り混じった声を上げた。
「ええ。たまには場所を変えてみるのもいいと思って」
唯香は自然体で微笑む。
「確かに。唯香ちゃんの家って気になるかも。夏の合宿もすごい別荘だったし」
紗里が腕を組みながら、ニヤリとする。
「……わたし、なんとなくお城みたいな家を想像してるんだけど」
みこが小声で言うと、
「ふふ、それは来てみてのお楽しみね」
唯香が少しだけいたずらっぽく返す。
「じゃあさ、決まりだね!」
ひのりが勢いよく両手を掲げる。
「舞風学園演劇部、唯香ちゃんの家で新しい伝説、始まるよ!!」
みんなが少し苦笑しながらも、その目には確かな光が宿っていた。
そして休日の午後、透き通るような青空の下――
舞風学園演劇部の4人は、駅から少し歩いた高級住宅街の入り口に立っていた。
「……ここ、本当に住所あってる?」
七海がスマホを見ながら眉をひそめる。
「だって、ここってさ……“芸能人が住んでるエリア”って噂のとこだよ!?」
紗里がキョロキョロと周囲を見回す。どの家も白い壁にレンガ造りの門、庭には花壇が整えられている。
「……お、お城みたいなおうちばっかり……」
みこは紺色のカーディガンの裾をぎゅっと握り、少し肩をすくめていた。
「わ、わぁ……すごすぎて逆に落ち着かない……」
ひのりはデニムジャケットのポケットに手を突っ込みながら、固まった笑顔を浮かべている。
そのとき――
「こっちよ」
聞き慣れた落ち着いた声。振り向くと、白い門の前に唯香が立っていた。
淡いグレーのワンピースに、上品なネックレス――休日でもどこか絵になる姿。
「……ここ、唯香ちゃんの家……?」
ひのりがごくりと唾を飲む。
門の奥には、白壁に大きな窓が並ぶ二階建ての邸 宅。玄関まで続く石畳のアプローチには、彩り豊かな花々と、小さな噴水まである。
「セレブだぁぁぁ!!」
紗里が叫んだ瞬間、七海が即座に「静かに」と制したが、その声にも驚きが混じっていた。
唯香は軽く微笑んで、「さ、どうぞ」と門を開けた。
五人は石畳を歩き、重厚な玄関扉の前で思わず足を止める。
そして唯香がドアを開けたその瞬間――
「……お、お邪魔します……!」
ひのりが緊張気味に声を発した。
「お、お邪魔します……!」
「し、失礼します……」
「ご、ごめんくださーい……」
次々と声が続き、みんなそろってペコリと頭を下げた。
「そんなにかしこまらなくていいのに」
唯香はふふっと笑って、先頭に立って中へと案内した。
――玄関に足を踏み入れた瞬間。
「うわぁぁぁ……!」
4人の声が重なる。
吹き抜けの天井に、シャンデリア。磨き上げられた床、大きな階段。
壁には海外映画のポスター、棚にはクラシックな装飾品が並んでいる。
「……夏の合宿の別荘とは、また別の意味ですごいね」
七海が思わず、ぽつりと呟いた。
「うん……あっちは“非日常”だったけど、こっちは……」
ひのりは言葉を探して、天井を見上げる。
「“現実のお金持ち”って感じ……?」
紗里が小声で言うと、
「……なんか緊張の種類が違う……」
みこが、そっとカーディガンの裾を握った。
唯香は小さく笑い、肩をすくめる。
「住んでるわよ。こっちが“普段の場所”」
案内されたリビングはさらに圧巻だった。
大きなガラス窓の向こうには手入れされた庭。
ふかふかのソファに、置かれたグランドピアノ。
(……あの夏は、“みんなで来た特別な場所”だったけど)
ひのりは心の中で思う。
(ここは……“唯香ちゃんの時間”そのものなんだ)
「唯香ちゃん……ピアノもできるの?」
紗里が目を丸くすると、唯香は軽く頷いた。
「小さい頃に習ってたの。今でもたまに弾くわ。」
「たまに、で置けるサイズじゃないから!」
ひのりがすかさずツッコむ。
唯香は小さく笑ったが、指先は無意識に鍵盤の縁をなぞっていた。
(……“たまに”で済ませていい場所じゃないのに)
そんなやり取りの最中、奥のドアが開いた。
「いらっしゃい」
そんなやり取りの最中、奥のドアが開いた。
「いらっしゃい」
現れたのは唯香の母、宝真知子。
柔らかな色合いのブラウスにエプロンをかけ、手にはケーキの乗ったトレイ。
「唯香がいつもお世話になってるわね。よかったら召し上がって」
「は、はいっ!!」
4人は慌てて立ち上がり、深々と頭を下げる。
テーブルに並べられたのは、真っ白な生クリームと赤い苺が乗った手作りケーキ。
「すご……ホテルのデザートみたい……!」
みこの声は小さいけれど、驚きに満ちていた。
「お母さん、ありがとう」
唯香が小さく礼を言うと、真知子は穏やかに微笑み、キッチンへ戻っていった。
――あの日の厳しい声は、もうどこにもなかった。
「……唯香ちゃん、なんか“おもてなし上手”って感じだね!」
ひのりがケーキを頬張りながら笑うと、唯香は小さく肩をすくめた。
「ただ並べただけよ」
そんな温かな空気の中、話題は自然と本題へと移っていく。
⸻
「さて――学年末公演のテーマ、どうする?」
唯香の言葉に、空気がぴんと張りつめる。
最初に手を挙げたのは、やっぱりひのりだった。
「やっぱりさ、“魔法”じゃない?」
「……また?」
七海の視線が鋭くなる。
「だって――私たちが今ここにいるのって、ちょっと魔法みたいじゃん!」
ひのりの声は弾んでいた。
「唯香ちゃんとの再会だってそう。あの日の指輪のことも。舞台に立つときのドキドキだって、魔法でしょ?」
「……気持ちは分かる。でも、“魔法”だけじゃ安直すぎる。去年の7月にもやった題材だし」
七海の声は冷静だ。
「せっかくなら、もっと現実に根ざしたテーマで――夢と現実の狭間とか、進路とか……私たち自身の今を描くほうがいい」
「現実も大事だけど……でも、舞台でしかできないことってあるじゃん!歌って、踊って、世界を変える――そういうワクワクを、お客さんに届けたいんだよ!」
ひのりの言葉には熱がこもる。
「……ワクワクもいいけど、ただの派手なショーにはしたくない」
七海の視線がひのりを射抜く。
「ミュージカルは、物語が弱ければ成立しないのよ」
二人の間に、少しだけ火花が散る。
そのとき――唯香が、静かにカップを置いた。
「――“魔法”って、何だと思う?」
ひのりも七海も、思わず唯香を見た。
「私はこう思うの。魔法って、“何もないところに、何かを生み出す力”。
私たちの演劇も、そうじゃない?
台本が言葉になって、言葉が声になって、声が感情になって――
そして、それを観客に届ける。それって、立派な魔法よ」
沈黙のあと、七海が小さく息をついた。
「……そういう“魔法”なら、悪くない」
ひのりは顔を輝かせる。
「じゃあ決まり!テーマは“魔法”で――でも現実ともつながるやつ!」
唯香は微笑んだ。
「じゃあ、みんなでキーワードを出していきましょう。魔法、夢、現実、選択――全部、私たちの物語にできる」
テーブルにノートが並び、ペンが走る音だけが響いた。
――こうして、新しい舞台の種が、今、芽吹こうとしていた。
テーブルの上に並べられたノートの白いページに、次々と文字が刻まれていく。
「魔法」「夢」「現実」「選択」――ひとつの単語が、まるで波紋のように議論を広げていった。
「……でもさ」
紗里が、ケーキをフォークで切りながら口を開く。
「魔法と現実、どっちも大事ならさ、“夢”を真ん中に置くのどう? 魔法みたいにワクワクして、でも現実にも触れられるテーマじゃん」
「夢か……」
七海はペンを止めて、じっと一点を見つめる。
「……確かに、今の私たちにとって“夢”って重い言葉よね。進路も、将来も、誰だって考える時期」
「そうそう! 夢があるから現実がちょっと怖くなるし、逆に現実があるから夢にすがりたくなるんだよ!」
ひのりが身を乗り出し、力強く言う。
「それに――」
唯香が紅茶を一口含み、落ち着いた声で続けた。
「“夢”をテーマにした舞台なら、表現の幅も広がる。ダンスや歌だけじゃなく、舞台装置や光の演出で“夢と現実の境界”を描けるわ」
「わぁ……それ、めっちゃいいじゃん! ほら、光で夢の世界がふわって広がるみたいなやつ!」
紗里が両手を広げて大げさに表現する。
「そういう幻想的なシーンを、物語に意味を持たせながら入れたいわね」
七海は小さくうなずくと、ノートの隅に書き込む。
『夢を追う人』『夢を諦めた人』『夢に縛られた人』――それぞれの選択を描く』
その文字を見たひのりが、目を輝かせる。
「いいじゃん、それ! “夢を持ってる子”と“持ってない子”が出会う物語とかさ!」
「あとさ……夢って、必ずしも“叶えるため”だけのものじゃないんじゃない?」
みこが、そっと声を上げた。
「たとえば、叶わなくても……その夢を“見てた時間”に意味があるっていうか……」
その言葉に、場の空気が少し柔らかくなる。
唯香は、ふと遠い視線を落とし――そして静かに言った。
「……ええ、そうね。それは、私が一番よく知ってる」
彼女の言葉に、4人はそっと唯香を見つめる。
けれど唯香は、気を取り直すように微笑んだ。
「じゃあ、方向性は“夢”で決まりね」
「決定――!」
ひのりが手を叩くと、空気が一気に明るくなる。
――そのとき。
唯香がリモコンを手に取り、壁際の大きなモニターを点けた。
「……ついでに、これも見ておいてほしいの」
画面に映し出されたのは、淡い光の中で演じる幼い少女。
純白のドレス、無垢な瞳、そして震えを押し殺すような台詞。
――それは、かつて“天才子役”と呼ばれた頃の唯香だった。
「……すご……」
紗里が息を呑む。
「演技……めっちゃ上手い……でも……」
みこが首をかしげる。
「でもさ、なんか……笑ってない」
ひのりがぽつりとつぶやくと、唯香はモニターを消し、ゆっくりと振り返った。
「そうね。あの頃は、芝居が“義務”だったから。楽しいなんて、一度も思えなかった」
紅茶のカップを指で軽くなぞりながら、唯香は続ける。
「でも今は違う。――あなたたちと一緒なら、“好き”でいられる」
その言葉に、4人の胸がきゅっと熱くなる。
ひのりが思わず、笑顔を見せながら言った。
「じゃあさ、その“好き”を全部込めた舞台にしようよ!」
「うん! 最高の夢、見せよう!」
紗里が勢いよく拳を突き上げる。
七海も、静かにうなずいた。
「私、もう構成が浮かびそう。……これは絶対、面白い舞台になる」
――こうして、舞風学園演劇部の“新しい挑戦”が、静かに幕を開けた。
時計の針が、静かに午後五時を指していた。
唯香はソファから立ち上がり、テーブルの上をさりげなく整える。
「……そろそろ、帰らなきゃね」
七海がスマホをちらりと見て、静かに言った。
「えぇ……もうそんな時間?」
ひのりが未練たっぷりの声を上げる。
「だって、このケーキ、おかわりしたいくらい美味しかったし……!」
「ふふ、また作ってもらえばいいじゃない」
唯香は小さく笑って、玄関へとみんなを促した。
⸻
「今日は本当に、ありがとうございました!」
玄関先で、ひのりが元気いっぱいに頭を下げた。
「ケーキ、めちゃくちゃ美味しかったです!」
「……お邪魔しました。とても素敵なお家でした」
七海も、いつになく柔らかい笑顔を見せる。
「ごちそうさまでした……本当に、嬉しかったです」
みこは両手を胸の前で合わせ、小さな声で、それでもしっかり礼を言った。
「楽しかったです! また来たいなぁ!」
紗里は屈託のない笑みを浮かべる。
その様子に、唯香の母・真知子は、どこか照れたように微笑んだ。
「こちらこそ、唯香と仲良くしてくれてありがとう。……また遊びに来てちょうだいね」
「はいっ!」
4人の声が重なった。
唯香はその横顔を見ながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
(……昔は“帰りたい”ばかり思ってた家で、こんなふうに笑える日が来るなんて)
母の視線がふと、唯香に向く。
ほんの一瞬、目が合って、柔らかな笑みを交わす。
それだけで、十分だった。
門を出た4人の背中に、母が声をかける。
「気をつけて帰るのよ!」
「はーい!」
ひのりが大きく手を振ると、真知子は静かに見送った。
その隣で唯香も、同じように手を振っていた。
駅から帰りの電車に乗ると空はすっかりオレンジ色の夕焼けに染まっていた。
4人は唯香の家や母のこと、あの映像のことを思い返しながら歩いていた。
「……なんかさ、あの家、時間の流れ違う感じしなかった?」
紗里がぽつりと呟く。
「……でも、お母さん優しくて、安心した」
みこも小さく頷いた。
「ねぇ七海ちゃん」
ひのりがふと七海の手元を見る。
「さっきからずっとノート書いてない?」
七海は少しだけノートを開いて見せた。
そこには走り書きの文字が並んでいる。
――『夢を見る人』
――『夢を失った人』
――『夢に縛られた人』
――『現実に引き戻す声』
「……まだラフだけど」
七海は静かに言う。
「“夢”をテーマにしたオリジナルのミュージカル。
きっと、私たち自身の話になる」
「……夢って、見るだけじゃなくて、叶えるためにあるのかもね」
みこが、ぽつりと呟いた。
ひのりはその文字を見つめて、小さく息を吐く。
「……もう始まってる感じするね」
(――ここから始まるんだ)
ひのりは拳を握った。
次の舞台は、“夢”そのもの。
それは、彼女たちの“未来”でもあった。
――物語は、まだ続く。




