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舞風学園演劇部 1年編 青春の開演  作者: 舞風堂
第六章 夢を歌う舞台へ
22/26

第二十二幕 新たな世界、ミュージカルへ

 冬の陽が落ちかけた午後四時すぎ。

 まだ冷たい空気が教室の隙間を吹き抜けるような一月の放課後――舞風学園の演劇部部室では、久々に揃った5人の部員たちがストーブの前で丸くなっていた。


「……三学期って、始まるとあっという間なんだよねぇ……」

 ひのりが缶のココアを両手で包みながら、ぽつりと呟く。


「進路とかの話もちらほら出始めるし……」

 みこがストーブの前で自分の指をさすりながら言う。


「なんか急に現実味出てくるよね」

 紗里が頷きつつ、カバンからお菓子の小袋を取り出してみんなに配る。


「演劇部としては、次は学年末公演が控えてるわけだけど……そろそろ、方向性を決めないと」

七海が手帳をめくりながら、真剣な表情で切り出す。


「前回はクリスマスの朗読劇だったから、今回はもっと動きのある舞台がいいな〜」

 ひのりが元気よく言うと、


「でも、ただ元に戻すだけじゃもったいない気がするの」

 唯香が静かに意見を添える。


「“新しい挑戦”ってやつか〜……たとえば?」

 紗里が首を傾げると、唯香は少し考えてから答えた。


「たとえば……音楽と演技を融合させる“ミュージカル”とか。最近、プロでも挑戦する人増えてるし」


「ミュージカル! いいねっ! ダンスとかも入れちゃったりして!?」

 ひのりの目が輝きだす。


「……でも、いきなりやるにはちょっとハードル高くない? 私たち、歌やダンスの練習はあまりしてこなかったし」

 七海が冷静にツッコミを入れる。


「やっぱり“準備”って必要だよね〜……」

 みこも同意しつつ、温かいクラッカーを齧る。


 そのとき――。


「……いいわね、そういう話」


 ドアの隙間からスッと入ってきたのは、音屋亜希先生だった。

 いつもの落ち着いた服装に、マフラーを軽く巻いている。


「音屋先生!」

ひのりが嬉しそうに立ち上がる。


「聞いてたわよ。ミュージカル、興味あるのね」

 音屋は笑いながら頷く。


「もし本気で“その世界”に触れてみたいなら、知り合いの劇団が、高校生向けに“体験ワークショップ”をやるって話があるの。演出・歌・ダンスの基礎を教えてくれる。どう? 興味ある?」


「……あります!!」

 ひのりが即答し、立ち上がって拳を握る。


「おお、さすが主演女優志望……」

 紗里が目を丸くする。


「プロの現場って、ちょっと緊張するけど……勉強にはなりそう」

 七海が真剣な目で言うと、


「見てみたい、そういう世界……」

 みこも小さく頷く。


「演劇は、“見聞きして感じる”のも大事なの。経験して、引き出しを増やすにはいい機会だと思う」

 唯香が静かに背中を押すように言った。


「じゃあ、全員参加で申し込んでおくわね。詳細は明日、正式に伝えるわ」

 音屋先生が微笑んで、部室をあとにする。


 残された5人は、ぽかんとしたまま互いの顔を見合わせ――


「……なんか、すごいこと始まる予感がしてきた!」

 ひのりがキラキラした目で言った。


「嵐の前の静けさ、ってやつかもね……」

 七海が小さく笑いながら呟いた。


 舞風学園演劇部が、音屋亜希先生の案内で訪れたのは、

 とある劇場施設の地下にあるリハーサルスタジオだった。


――そして、扉の向こうに“彼女”はいた。


「ごきげんよう、あなたたちが音屋の教え子たちね?」


艶のある低音が響いたその瞬間、

部屋の空気が一段、引き締まるのを感じた。


革のような艶のある黒のジャケット。

深紅のスカーフ。背筋の通った立ち姿。

動きの一つ一つが洗練され、どこか“舞台”そのもののような存在感。


その人――城戸洋子きと・ようこは、まるで一つの芸術だった。


「お、お、おはようございますっ……!」


ひのりが反射的に立ち上がり、ほとんど敬礼のような挨拶をする。


「場に入るときはまず、相手の目を見て、呼吸を合わせて――」


「はいっ!」


「返事は“はい”だけでいい。余計な言葉は、空間の緊張を壊す」


「は、はいっ……!」


(……なにこの人、空気変える力が桁違いすぎる……)


 七海が目を見開く。


 彼女の目の前にいるのは、“伝説の舞台女優”。

 かつて白百合歌劇団で主演を務め、“銀鏡の妖精”と呼ばれた女優――


 その名にふさわしく、鋭く、そして気高い。


「今日1日。あなたたちは“自分”を捨てて“役”に向き合う覚悟があるかしら?」


「……はい!」


五人の声が重なったとき、城戸洋子の唇が微かに笑みを描いた。


「ふふ……ならば、見せてもらいましょう。あなたたちの――“魂”を」


「では、まずは自己紹介から始めましょう。舞台に立つ者は、自分の声で名乗るのが礼儀です」


城戸洋子が一歩引き、軽く手を広げた。


「あなたから」


指されたのはひのりだった。


「は、はいっ! 本宮ひのりです! 演じることが大好きで、夢は“伝説の主演女優”になることです!」


声は張っていたが、足先が少し震えていた。


「次」


「伊勢七海です。脚本も担当していて、言葉の力で心を動かす演劇を目指しています」


 静かで落ち着いた声。だがその瞳は鋭く、城戸も微かに頷いた。


「小塚紗里ですっ! いろんな役になりきるのが好きで……えっと、子どもたちに喜ばれる演技がやりたいです!」


 元気だがどこか初々しい、紗里の言葉に城戸は一瞬目を細めた。


「し、城名みこです……。まだ、うまくはないけれど……感情を伝えることを、大切にしています」


 小さな声。だが、みこの言葉に込められた誠実さは、場を少し和らげた。


そして――


「宝唯香です。元子役として活動し、演劇部としても頑張っていきたいです。そしてお久しぶりです、洋子先生」


 その瞬間、空気が変わった。


 他の4人が一斉に唯香の方を見る。


城戸洋子もまた、唯香の名を聞いた瞬間、目を細める。


「……唯香。もうそんなに経つのね。あのときは……まだ背がテーブルより低かったかしら?」


「はい。稽古場の隅で、ひたすらセリフを繰り返していました」


「ええ、あの頃から“目の光”が他の子とは違っていたわ。“役を生きる”覚悟が、すでにあった」


「……光栄です」


 唯香はほんの少しだけ頭を下げた。


「……知り合い、だったの?」


 ひのりがぽつりと聞くと、唯香は軽く頷いた。


「小学生のとき、一度だけ……洋子先生が特別講師をしていた子役養成クラスに参加していたの。母が連れて行ってくれて」


「……それで、あの厳しい先生に耐えられたんだ」


 七海が小声で呟くと、唯香はうっすらと微笑んだ。


「……慣れ、というより、“舞台”という場所の記憶が、私を守ってくれてるのかも」


 城戸洋子はその言葉を聞いて、小さく頷く。


「宝唯香。あなたは昔から“演じること”よりも、“見ること”に長けていた。今はどうかしら?」


「……今は、“生きること”を少しずつ学んでいます。仲間と一緒に」


 その一言に、城戸の唇が僅かにほころぶ。


「……いい答えね。ならば今日から、“役として生きる”とはどういうことか、その答えを身体に叩き込んでもらうわ」


 声に込められた気迫に、再び空気が引き締まる。


 唯香の過去。

 そしてこれから向き合う“本物”の世界。


 彼女たちの挑戦は、まだ始まったばかりだった。


「では……まずは、ウォームアップから始めます」


 城戸洋子が、ゆっくりと手を打った。

 その音は小さいのに、なぜかスタジオ全体に響いたような気がした。


「舞台に立つ者の身体は“楽器”です。

柔軟であること、軸があること、そして何より――“意識が通っていること”。

そのための準備を、怠ってはいけません」


 ひのりたちは、少し緊張した面持ちで円になって立つ。

 スタジオの床は柔らかなリノリウムで、冷たさを感じることもない。


「深呼吸から。吸って……吐いて。肩の力を抜いて。首をまわす。ゆっくり、丁寧に」


 洋子の声に合わせ、全員が肩を回し、身体を伸ばしていく。


「腰を落として、背中を丸めない。指先まで意識を通して」


 彼女の目は、まるでレーザーのように鋭く、動作の一つ一つを見逃さない。


(本当に、遊びじゃないんだ……)


 七海はストレッチをしながら、思わず背筋が伸びるのを感じていた。


「いい? “自分の身体が舞台でどう見えるか”を意識するのは、俳優の基本。

 観客はあなたたちの一挙手一投足を“選ばず”に見るのです。あなたが選んで見せる必要がある」


 一つ一つの言葉が重く、けれど心に響く。


「それじゃあ、次は発声。……誰か、得意な人?」


「はいっ!」


 ひのりが勢いよく手を挙げた。


「……元気ね。いいでしょう、先頭で見本を」


 ひのりは張り切って立ち、深く息を吸い――


「アーーーーーーーーー!!」


「やり直し」


 洋子が即座に言う。

 ひのりは目を丸くして、しゅんと縮こまった。


「演劇の発声は“叫ぶ”ことではありません。

あなたの声は“誰に、どう届かせたいのか”。その目的がなければ、ただのノイズよ」


 ひのりは顔を真っ赤にしながら、もう一度深く息を吸い込んだ。


「……ア……ア、ア……あい、うえ、お……!」


 彼女なりに丁寧に発声しようとしているのは分かるが、どこかぎこちなく、声が上ずっている。


「……だめね。やり直し」


 洋子の声音は変わらず淡々としているのに、その一言がズシリと響いた。


「“声を出す”ことが目的じゃない。“伝えるために発する”のよ。

 舞台はお遊戯会じゃないの。“ただ頑張ってます感”を見せる場じゃない。

 観客は、あなたの努力にお金を払うんじゃない。真実に、払うの」


 ――その瞬間だった。


「……っぐ……ひっく……」


 ひのりの肩が震え、小さくしゃくりあげた。


「……ご、ごめん……ちょっと……悔しくて……!」


 目にいっぱい涙をためながら、ひのりは唇を噛みしめていた。


 誰よりも“楽しむこと”がモットーの彼女が、こうして涙を見せるのは珍しい。


「ひのり……」


 紗里が思わず声をかけかけるが、洋子がそれを制した。


「――その涙は、無駄じゃないわ」


 ひのりは目を見開く。


「悔しいと思うのは、“もっとできるはず”って自分を信じてる証拠よ。

あなたには、“想い”がある。だから伸びる。……怖がらずに、もう一度やりなさい」


 厳しくも、決して突き放すことのない言葉。


 ひのりは涙をぬぐって、深く息を吸い込んだ。


「……もう一回、やる……!」


 そのとき――


「……っ、うぅ……」


 背後で小さなすすり泣きが。


 今度は、みこだった。


「……ご、ごめんなさい……私、緊張で……息が苦しくて……」


 両手で口を押さえながら、堪えきれず涙をこぼしてしまう。


「……あなたもか」


 洋子は一歩近づき、みこの前で静かに言った。


「涙は否定しない。でも、泣くなら今ここで泣きなさい。

 ステージの上では、“涙”も“心”もすべてが表現。

 あなた自身の感情を知って、それをどう伝えるか――そこからが、演技のはじまり」


 みこは目を真っ赤にしながら、必死にうなずいた。


「……はい……わたし、頑張ります……!」


 洋子はしばらく見つめたあと、小さくうなずいた。


「では、次の人。……誰?」


 その声に、七海が静かに一歩前に出た。


「私、やります」


 場の空気がまた、少しだけ変わった。


――こうして、“試される”時間は続いていく。



 七海は真っすぐ前を見据え、静かに深呼吸した。


「……あ・い・う・え・お・あ・お、か・き・く・け・こ・か・こ……」


彼女の声は、無理なく、淡々とした調子で滑らかに続いていく。


「……悪くない。感情は控えめでも、芯がある。

あなたのようなタイプは、“沈黙の強さ”を活かせるわ」


 洋子の口元が、かすかにほころんだ。


 続いて紗里が前に出る。


「よーし、いっくよー!」


 勢いよく構えたが、いざ声を出すとやや不安定だった。


「……あ・い・う・え……あっ、ちょっと噛んじゃった!」


「焦らないこと。元気はいいけれど、舞台では“安定”こそが信頼なの。

でも、あなたは“伸びる素質”を持っているわ」


「わぁ、うれしい……!」


 紗里は素直に喜んでいた。


 次は、先ほど泣いてしまったみこ。


 おずおずと前に出て、声を震わせながら発声を始めた。


「……あ、あい、う……え、お……」


 小さな声がスタジオにかすかに響く。


「……声が届いていない。

でも、それは“出せない”んじゃなくて“出し方を知らない”だけ。

あなたの声は――澄んでいる。育てていけば、武器になるわ」


 洋子の目が静かに優しさを帯びた。


 みこはほっとして、小さくうなずいた。


 最後に、唯香が前へ出た。


「……始めます」


 淡々とした口調で言い、姿勢を正して呼吸を整える。


「……あ・い・う・え・お、か・き・く・け・こ……」


 声量、滑舌、リズム――すべてが整っていて、堂々たるものだった。


「……ほぉ」


 洋子が興味深そうに目を細める。


「しばらく見ないうちに、随分と完成されてきたわね。

やはり、基礎は染みついているのね」


 唯香は何も言わず、静かに一礼した。


 その背筋には、演技者としての矜持が滲んでいた。


「……面白い子たちね」


 洋子は全員を見渡し、ゆっくりと語る。


「あなたたちには、それぞれ“違う光”がある。

まだ荒削りだけど、舞台は“削って磨く場所”。

さあ――これからが本番よ」


 スタジオに、再び緊張の空気が走った。


 洋子がひとつ息をつき、空気を切り替えるように手を叩いた。


「次は、ダンスに入るわ。あなたたち、“ミュージカル”がどういうものか、もう分かっているわね?」


 ひのりたちは姿勢を正し、緊張した面持ちで頷いた。


「歌うだけでは足りない。踊るだけでも足りない。“物語”を、全身で表現する。それがミュージカル。……心も、体も、“止めないこと”が大事」


 洋子の視線が、ひとりひとりを刺すように巡る。


「では――基本のステップからいくわよ。準備して」


 洋子がタブレットを操作すると、スタジオのスピーカーからリズミカルなクラシック・ジャズ風の音楽が流れ出す。


「足のポジションはこう、リズムは“ワン・ツー・スリー・フォー”……しっかり拍を感じなさい!」


 彼女の足さばきは、年齢を感じさせない切れ味。ターン一つ、足運び一つにも無駄がない。


「はい、順に真似して。紗里さん、先頭で」


「へっ!? あ、はい!」


 紗里が少し慌てながらも前に出て、洋子の動きを見よう見まねでなぞる。


「……うん、悪くない。だがリズムに乗れてない。もっと音楽を“感じて”。あなたは感覚派なのでしょう?」


「は、はいっ!」


 次々と交代して、みこ、七海、ひのり、唯香がそれぞれステップを踏む。


 みこは緊張しつつも真面目にこなし、七海はぎこちなくもタイミングを掴もうとしていた。


 そして――


「唯香さん」


「はい」


 唯香の足運びは、他の誰よりも滑らかだった。リズムの取り方も正確で、背筋も伸びていて、腕のラインも美しい。


「……あなた、子役時代にダンスやっていた?」


 洋子が少し目を細めて言うと、唯香は小さく頷いた。


「はい。洋子先生に、基礎を教わりました」


 スタジオの空気が、ほんの一瞬止まる。


「……そうだったわね。忘れてないのね、あの頃の“体”」


「ええ。記憶より、身体のほうが覚えていました」


「ふふ……いい答えね。なら、今回は“お手本”をお願いするわ」


「承知しました」


 唯香がすっとステージ中央に立つと、再び音楽が流れる。

 彼女の動きに、ひのりたちは息を飲む。


 軽やかで、しなやかで、何より――“伝わる”ダンスだった。


「……すごい……唯香ちゃん、別人みたい……」

みこが呟く。


「すごい、けど、負けてられない!」

 ひのりが拳を握る。


 洋子はゆっくりとうなずいた。


「さあ、あなたたちの番よ。“自分”を解き放って踊ってごらんなさい。失敗してもいい、恥ずかしがってる暇はない。“見られる”ことに慣れなさい」


 ひのりたちは一斉に立ち上がる。


 ――“挑戦”の時間が、今、始まった。


 休憩を挟んだ後、再び静けさがスタジオを包む。


 城戸洋子がピアノの前に立ち、鍵盤の上に手を添えた。


「次は――“歌”よ。ミュージカルとは、演技・ダンス、そして歌。

どれが欠けても成り立たない総合芸術。けれど、歌は特に“心”が出るわ」


 パチン、と指を鳴らすと、鍵盤の上で簡単な音階が響く。


「まずは発声を思い出して。音階を追いながら、基本の音を出していきましょう」


――「ドーレーミーーファーソー……」


 それぞれ、順番に声を重ねていく。


 最初にひのり。明るいが、やや不安定。


 次に紗里。リズム感はあるが、少し鼻にかかる。


 七海は音程が正確だが、感情が抑えめ。


 みこは声が細いが、ピッチはしっかりしている。


 唯香は――


「ドーレーミー……」


 と、流れるように美しく、表現力に満ちた声を放った。


 洋子はピアノを止め、ゆっくり言う。


「今のは……唯香さんね」


「はい」


「昔、歌の指導を受けていたことは?」


「……少しだけ。小さい頃に」


「ええ。あなたの声――覚えているわ」


 唯香は一瞬目を伏せ、ふっと微笑んだ。


「まさか、またご指導いただけるとは思いませんでした。“先生”」


 洋子はその言葉に、珍しく目を細めた。


「……あの頃はまだ小さかったのにね。あなたの“真面目さ”と“怖さを隠した瞳”が印象的だったわ。

けれどその時から、あなたは“音”を表現に変える力を持っていた」


「……ありがとうございます」


 ふたりの視線が静かに交差する。その空気に他の4人は息を呑んでいた。


「……唯香ちゃん、前にも先生と会ってたんだ……?」


「子役時代、数ヶ月だけご指導いただいたことがあります。でもその後、家庭の事情で……」


 ひのりはじっと唯香の横顔を見て、そっと言った。


「……だから、あんなに歌も上手だったんだね」


「……まだまだ。今の私は、まだ“未完成”です」


 唯香はあくまでも冷静だった。


 ――その後、それぞれが課題曲を一節ずつ歌う。


 元気なひのりは音程が外れ気味だが、表情豊か。

 紗里は明るく、声に伸びがある。

 みこは緊張しながらも一生懸命に歌い、

 七海は詞の解釈に力を入れて、物語性を感じさせる声。


 洋子は全員の歌を聴き終えると、ゆっくりと総評する。


「誰一人として、“完成”には届いていない。けれど――可能性は、ある。

明日から、あなたたちの“芝居”がどう変わるか……見せてもらうわ」


 歌唱の練習が終わり、空気がようやく緩んできたころ――


「……さあ、最後にもう一度だけ“最初に戻る”わよ」


 城戸洋子が手を叩いて、場の空気を再び引き締める。


「ウォームアップ、発声、ダンス、そして歌――すべてを踏まえて。

最初にやった“自己紹介”、覚えてる?」


 5人は互いに顔を見合わせ、すぐに気づく。


(あの時は、ただ名前を言っただけだった……)


「今のあなたたちなら、“さっきとは違う自分”を見せられるはずよ」


 洋子の言葉に、ひのりがそっと手を挙げる。


「……やってみたいです」


「いいわ。では、あなたから」


 ひのりはゆっくりと前に出て、背筋を伸ばす。


 深呼吸一つ。そして――


「本宮ひのりです! 舞台の上でも下でも、みんなの笑顔のために全力で頑張ります!」


 声はまだ拙い部分もあるが、まっすぐで熱意に満ちていた。


「……合格」


 洋子がぽつりと言うと、ひのりの目がきらりと潤んだ。


 続いて七海、紗里、みこ、唯香と順に名乗っていく。

それぞれが今日という一日を経て、自分の声で、自分の言葉で語る姿に――


(……たった一日でも、人は変われる)


 洋子の表情が、ほんの少しだけやわらいだ。


「以上で、今日の体験は終わり。……よく、ついてきたわね」


「今日は指導してくださり、とても有意義な時間を過ごすことができて本当にありがとうございました。」


 唯香はお礼を言い、洋子は一礼してスタジオを後にする。


 残された5人は、しばらく呆然と立ち尽くしていた。


「……すごかったね……」

 みこがぽつりと呟くと、


「……うん。でも、なんか今すっごく胸が熱い」

 紗里が目を輝かせながら言った。


「私……もっと演劇、好きになったかも」


「私も」

 七海が小さく、でもはっきりと頷いた。


「わたし、もう泣かないように頑張る」

 みこは微笑みながら言い、


「……演劇は、“本気”をぶつける場所なの」

 唯香がぽつりと呟く。


 その言葉に、ひのりが大きく頷いた。


「よーし! じゃあさ、今度の公演……ミュージカル、やってみようよ! 本気で!」


「うんっ!」


「もちろん!」


「やろっ!」


「異論なし」


 5人の声が重なった瞬間、スタジオの照明が落ち、薄暗くなった空間に、静かな決意が灯っていた。


 ――こうして、“新しい舞台”への扉は、静かに開かれた。


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