第十五幕 カメラ、回して
土曜日の朝。
舞風学園の正門前には、生徒の姿はほとんどなかった。
今日は授業はなく、校舎に入っているのは、部活動のために登校してきた一部の生徒だけ。
「……おはよう」
七海が静かに校門をくぐると、すぐ後ろから誰かが駆けてきた。
「おっはよ〜! 映画日和って感じじゃない!? 空、超いい感じ!!」
派手に手を振っていたのは、当然のように本宮ひのり。
制服の上にパーカーを羽織り、手にはコンビニの紙袋をぶら下げている。
「朝からテンション高いな……」
七海は苦笑しながらも、自然と歩調を合わせた。
「……今日、ついに“撮影本番”だよ? そりゃ気合も入るでしょ!」
「まあね。でも落ち着きなさい。最初に撮るのは“目覚めるだけ”なんだから」
「それが一番緊張するんだってば~……!最初のカットって、なんかもう“全部の始まり”って感じがするじゃん?」
「まあ、正論」
そう話しながら、ふたりはいつもの多目的室の前に到着した。
扉の向こうでは、すでに動画撮影部がセッティングを始めていた。
「おはようございまーす!」
ひのりが勢いよく扉を開けると、冴木あさひがカメラを担ぎながら振り向いた。
「おっ、本日の主役登場!」
「いいねその挨拶。主役って響き、いいね〜」
「映り映えも気合いも大事だけど、セリフはまだ少ないから安心してよ」
中島りつが淡々とコードを巻きながら言う。
「それが逆に怖いのっ!」
ひのりが両手をばたばた振る。
「……あら、おはよう」
その後ろから現れた唯香が、落ち着いた足取りで入ってくる。
「朝早くからありがとう。全部準備してくれてたのね」
「唯香ちゃんのためなら~!」
「うん、あんたのじゃなくて主演のためね」
りつがクールに突っ込んだ。
そして、最後に現れたのが、紗里とみこ。
「コンビニ寄ってたら遅れた~、ごめんごめん!」
「差し入れ……持ってきました……!」
ふたりが息を弾ませながらも笑顔で現れると、いよいよメンバーが全員揃った。
七海は、タブレットを取り出しながら言う。
「じゃあ、スケジュール通りに進めるわね。
最初に撮るのは“シーン1・カット1”。
ひのりが床で目を覚ますシーン」
「いっちばん緊張するやつ……!!」
ひのりが、肩をぐるぐる回しながら深呼吸する。
唯香が軽くカメラを覗きながら、静かに声をかけた。
「いい? ただ起き上がるだけ。でもその一瞬が、この物語のすべてを背負うのよ」
ひのりは、その言葉に――表情を引き締める。
「……うん、わかった。任せて」
その顔はもう、演劇部の“本宮ひのり”ではなかった。
動画撮影部のレンズが回り始める。
音声のマイクが掲げられ、全員が無言で位置に就く。
床に、制服のまま横たわるひのり。
七海が、台本を一枚掲げて言う。
「シーン1、カット1。少女、目覚める」
唯香が静かに告げる。
「カメラ、回ります」
「……本番、よーい――」
「――アクション」
土曜の静かな校舎の片隅で、
ひとつの“物語”が、目を覚ました。
静寂の中、床に横たわっていたひのりの指先が、わずかに動いた。
光に照らされた髪が、わずかに揺れる。
まぶたが震え、ゆっくりと開かれる。
目に入るのは、見慣れない天井。
ほんの少し、まぶしそうに顔をしかめる。
まだ、呼吸が浅い。視線が泳いでいる。
腕を動かすのにも力が入らず、手探りで床を押さえながら――
少女は、重い体をゆっくりと起こした。
――起き上がるだけ。されどそれは、
物語を背負った“最初の演技”だった。
視界が落ち着き、肩で息をしながら、彼女は口を開く。
「……ここ、どこ……?」
わずかに震えた声。
でもその言葉には、“空白の中にいる少女”の実在が宿っていた。
カメラはその表情を正面から捉えていた。
記憶を失った少女が初めて世界と向き合う、その瞬間を――
誰も声を出さなかった。
誰も笑わなかった。
緊張とも、感動とも言えない、
でも確かに“なにか”が、そこにあった。
しばらくの沈黙のあと――
「……カット」
唯香の、落ち着いた声が響いた。
ふっと空気が動き出す。
一瞬、緊張が解けたように、あさひが大きく息をついた。
「……めっちゃ良かったんだけど」
「マイクも問題なし、ノイズもない」と、りつ。
「動きもセリフも、完璧だったわ」と唯香が言うと、
ひのりは、起き上がったまま、ぽかんとしていた。
「……えっ、あれで終わり? カットかかった……?」
「うん。終わったの。最初の1カット、完了」
七海が近づいて、にっこりと笑う。
「おつかれ、ひのり」
「わー……なんか、すっごい緊張したけど……ふわふわする……」
ひのりが頭を振ると、周囲から拍手が起こった。
みこがぽそりと、「ひのりちゃん、ちゃんと“記憶を失った人”に見えたよ……」と言うと、
「だろ!? 私、演技派だった!?」と得意げに立ち上がる。
「自分で言うな」と七海。
「よし、じゃあ次のカットいこう!ノってきたー!」
唯香は、カメラの映像を確認しながら、静かに呟いた。
「――この感じでいける。思ってた以上」
1カット目。
たった数秒の“目覚めの演技”。
でもその中には、彼女たちの“はじまり”がしっかり刻まれていた。
「じゃあ、一旦休憩にしましょう」
唯香がそう言うと、空気がふっと緩んだ。
ひのりは肩の力を抜きながら、ポケットから紙パックの麦茶を取り出して一口飲む。
「ふぃー……はじめての映画撮影、すでに全身つかれてる……!」
「まだ5分も演技してないでしょ」
七海が淡々と突っ込む。
「気持ちの問題だよ、気持ちの!」
部室の隅では、紗里が照明に使うランプのコードを何気なくチェックしながら、
「ねえ次って、あれだよね? “あれ”始まるよね?」
と、ぼそっと言った。
「うん。ここからが本番よ」
唯香が頷く。
「次に撮るのは、“逃走シーン”。ひのりが学内を走って逃げる10分間のシークエンス」
「10分ノーカット撮影、です」
中島りつが、PCにタイムコードをセットしながら補足する。
「げぇっ、まじか……!」
ひのりが絶望した顔で膝に手をついた。
「ノーカット!? ってことは……一発撮りってことだよね?」
「そう。段取りも演技も、ミスできない」
冴木あさひがカメラの位置を再調整しながら、軽く笑った。
「まあ、多少のトラブルは味になるけどね。でも一番大事なのは“流れを止めないこと”。途中で止めたら、それまでが全部パー」
「うわ~……急にプレッシャーが……!」
その様子を、教室の壁際から静かに見つめていたのは、名塚真帆だった。
彼女はカメラのライブモニター越しに、ひのりの表情を観察していた。
無言で、ただ見つめながら――ふと、独りごとのように呟く。
「……あの子、面白いな。演技してるのに、時々“地”が混ざる。
でもそれが妙に、リアルで……強い」
その言葉に、近くにいたみこが聞き返す。
「……ひのりちゃんのこと?」
真帆はコクリと頷く。
「うん。カメラ越しだと余計わかる。どこまでが演技で、どこからが素の本宮ひのりか……境目が、曖昧なんだよね。
……それが“映像映え”する」
「……それって、良いことなの?」
「少なくとも、“記憶を失った少女”っていう役には……すごく合ってる」
あさひがパチンと手を叩いた。
「よーし、そろそろ次の準備入るよー!」
唯香が、ひのりに向き直る。
「ひのり、もう一回確認。
これから10分間、ノーカット。走る、隠れる、振り向く、すべて一発勝負。
でも、“正解”はひとつじゃない。流れを止めなければ、自由に演じていい」
「……了解、監督っ」
ひのりは口元を引き締めて、深呼吸する。
「今の私にできること、全部カメラにぶつけるから――!」
教室の空気が、再び張り詰めていく。
誰もが、その“10分間”の重さを感じていた。
そして――
物語の“静の始まり”から、“動の本編”へ。
少女が、まだ知らない“何か”から逃げるシーン。
それは、物語の核心へ向かう最初の一歩だった。
「……アクション」
最初の一歩が、乾いた床を叩いた。
ひのりの足が、校舎の廊下を駆け出す。
ガランとした土曜の校舎――
その静けさを、足音が切り裂いていく。
光の差し込まない廊下は、どこまでも無機質だった。
白い壁、掲示板、閉じられた教室の扉。
どれも見覚えがあるはずなのに、まるで違う学校に見える。
「っ、はぁ……」
走りながら、制服の胸元が上下する。
自分の呼吸が、やけに大きく聞こえる。
カメラが後ろから迫る気配と、背後から迫る“何か”の気配が重なる。
(逃げなきゃ……)
(でも、何から?)
ひのりは角を曲がり、反射的に視線を後ろへと振り返る。
そこには誰もいない。
ただ、少しだけ開いた扉の奥に、黒い影がちらついた気がした。
――見間違いかもしれない。
でも、ひのりの脳が“危機”と判断した。
「……やだ、来てる……」
小声でつぶやきながら、ひのりは再び走り出す。
廊下の先には、階段。
ひのりは手すりをつかみながら、一段飛ばしで駆け上がった。
金属の手すりは冷たかった。
コンクリートの段差が、足にじんわり響く。
身体は重い。
けれど、頭の中はどんどん冴えていく。
(私、どこまで逃げられるんだろ……)
2階の踊り場に着いた瞬間、ひのりは息を整えた。
窓からの光が、顔に当たる。
その瞬間だけは、時間が止まったように思えた。
でも――また、誰かの気配。
階段の下から、足音。
音はしないのに、心臓が“音”のように鳴っている。
「っ……!」
反射的に、教室の扉を開けて中に滑り込む。
窓のカーテンが揺れている。
黒板のチョークの粉が、床にうっすらと舞っている。
(誰か、いた?)
(いや、いない)
(でも、いま来る)
ひのりは机と机のあいだを低く走り、
教師用の机の下に身を隠した。
「……なんで、こんなことに……」
口元に手を当てて、息を殺す。
足元に落ちた自分の影が、震えている。
その時――扉が、少しだけ開いた。
ギ……という音。
(本当に誰か来る……!?)
ひのりの中で、演技と恐怖の境界が一瞬溶けた。
(この“怖い”は、なんだろう)
(演技の“怖い”? それとも、“私”が思い出しかけてる“怖さ”?)
そのとき、ひのりの目の前に落ちていた小さな“何か”が目に入った。
――校章のバッジ。
制服から落ちたのか、それとも最初からそこにあったのか。
彼女はそれを手に取り、じっと見つめる。
そこには、**「MAIKAZE」**という刻印。
(私は……舞風の生徒?)
(じゃあ、名前は?)
(記憶は……)
その瞬間、外の廊下を何かが通り過ぎる影が走った。
ひのりは、息を呑む。
カメラは、その顔のアップをしっかり捉えていた。
汗が頬を伝い、唇がわずかに震えている。
涙ではない。けれど、そこには確かな感情があった。
自分でも気づいていない、“奥底のなにか”が揺れている。
「……誰か……」
震える声が漏れた。
「……誰か、教えて……」
声にならない問いかけ。
それが、そのシーンの終わりだった。
「……カット」
唯香の声が静かに響いた。
教室の中、時が止まったように全員が黙っていた。
あさひはカメラをそっと下ろし、
りつは無言で音声レベルを確認しながらモニターに目を落とす。
真帆が、映像を確認しながら小さく呟いた。
「……今の、入った。全部、入ってたよ」
ひのりは、机の下から出てきて、まだ肩で息をしていた。
「……やば……これ、演技って言えるのかな……」
「いいのよ、それで」
唯香が、微笑む。
「だって――今のあなた、確かにそこに“いた”から」
午後の多目的室は、すっかり様子を変えていた。
窓には黒いカーテンがかけられ、照明も最小限に落とされている。
天井の一角から吊り下げられたプロジェクターが、
壁一面に――青白い、どこか現実とは思えない“世界”を映し出していた。
そこは、廃墟のようで、宇宙のようでもある。
薄靄がかかった古びた通路。
どこまでも奥行きのある、視界の曖昧な風景。
「よし、背景OK」
中島りつがノートPCの再生ボタンを押し、背景映像のループが始まった。
「今回は、あえて“合成じゃない”方向で押し切る。
“その場にある”ように見せる、ってことで」
「音も、ちょっと加工してくから、台詞は一拍置いてね」
真帆が言いながら、サウンドを流す。
それは、電子音とも風の音ともつかない“空白の音”。
「いよいよだね……記憶世界パート」
ひのりが小さくつぶやいた。
「なに演じればいいのか、正直よくわかんないけど……不安はない。
なんか、あの“逃げてた私”の続きって感じがしてる」
「準備はいい?」
唯香が声をかける。
ひのりは、そっと頷いた。
「じゃあ――カメラ、回ります」
「本番、よーい……」
「アクション」
映像に包まれた空間の中。
ひのりが、ゆっくりと一歩を踏み出す。
「……ここは……」
自分の声が、微かに反響する。
床はいつもの教室のはずなのに、足音がどこか違う響きを持っていた。
世界が滲んでいる。
揺らめく風景に、視線がぶれる。
「……夢の、続き……?」
そのとき、彼女の前に“何か”が現れる。
光の奥から、ひとりの少女が歩いてくる。
――七海だった。
でも、それはただの七海ではなかった。
白と黒のバイカラーの衣装に、冷たい目線。
感情を切り離したような口調で、こう言った。
「あなたは、間違ってる。
“自分が誰かを知らない”まま、走ってるだけじゃ、何も変わらない」
「……七海……? 違う……でも、似てる……」
さらに、今度は背後から、ピンクのフード付きパーカー姿の少女が跳ねるように現れた。
――紗里。
だけどその笑顔は、少しだけ鋭かった。
「考えるなってば~! 感じろってやつだよ!」
「だって、さっきの走り、めっちゃ“本音”出てたもんね!」
「あなたは感情。あなたは論理。じゃあ……私は?」
ひのりは、誰に聞くでもなく呟いた。
そして、最後に現れたのは、静かに立っていた少女――
――みこ。
純白のワンピースに、懐中時計をぶら下げている。
「……この音、覚えてる?」
彼女が時計を開くと、カチカチと時を刻む音が鳴った。
その音に合わせるように、映像がチラつく。
――誰かの笑い声。――木漏れ日。――約束。
「私の……記憶……?」
ひのりの中で、何かが揺れ始める。
見たこともないはずの風景が、心の奥を叩いている。
それは、自分が“思い出そうとしているもの”。
でも、思い出してしまったら、今の自分じゃなくなってしまう気がして――
「……やだ……」
震えた声が漏れる。
ひのりは、一歩後ずさる。
そのとき。
暗闇の奥から、“何か”が現れた。
真っ黒な影。形のない存在。
けれど、確かにひのりの心の中の“何か”を象っていた。
唯香が、モニター越しにその瞬間を見ていた。
「……ここからよ」
影は、形を持たなかった。
でも確かにそこに“在る”とわかる。
空間が歪み、映像の明度が不自然に変化していく。
プロジェクター越しに表現された闇が、まるで生きているかのようにひのりににじり寄る。
「っ……!」
ひのりは、反射的に後ろへ下がった。
でもすぐに、誰かがその背中を支えた。
「立って。逃げるだけじゃ何も変わらない」
七海が、冷静な声でそう言う。
「ねえ、怖いなら、一緒に叩きのめそ!」
紗里が、両手を振り上げてポーズを取る。
「大丈夫……わたしも、ここにいるよ」
みこが、そっと手を伸ばしてきた。
ひのりは、一瞬戸惑ってから――
力強くうなずいた。
「うん、やろう……4人で!」
そして、影に向かって駆け出した。
戦いは、実際には存在しない。
でも――観ている者には、確かに“見えた”。
影に向かってパンチを繰り出す紗里。
目に見えない何かを受け止めるように手を広げるみこ。
冷静に間合いを詰め、指先で何かを“封じ込める”ように動く七海。
そして――
それらを結ぶように、
ひのりは両手を突き出し、叫ぶ。
「思い出したよ……あたしは……逃げてなんかない……!!」
空間が揺れた。
背景映像が一瞬だけ白飛びし、
プロジェクターが投影していた“影”がノイズのように消えていく。
4人は、ゆっくりと呼吸を整えた。
何も起こらなかったはずの教室。
だけど、誰もが確かに“何かが終わった”ことを感じていた。
「……終わったの?」
ひのりがポツリとつぶやいた、そのときだった。
教室の奥から、足音が響く。
コツ――コツ――
そこにいたのは、黒いワンピースに身を包んだ一人の女性。
照明の暗がりから、すっと現れたその姿。
カメラ越しでも、その表情がはっきり映る。
それは――唯香だった。
けれど、いつもの唯香ではなかった。
静かで、冷たく、どこかすべてを知っているような、そんな目。
「……演じるのって、楽しい?」
その一言に、教室が凍ったような静けさに包まれる。
「“本当のあなた”を思い出すことと、
“演じている誰か”に成りきること。
どっちが、あなたの“本音”なのかしらね」
ひのりが、言葉を失ってその場に立ち尽くす。
カメラは、彼女の揺れる瞳を捉えていた。
唯香は、何も言わずにその場を通り過ぎていく。
その姿は、まるで現実と幻想の狭間に消える幻のようだった。
そして、残されたひのりの胸には、
小さな疑問が、ひとつだけ残っていた。
(私……今の自分って、誰?)
それは、誰かの台詞じゃない。
“本宮ひのり”という一人の少女が、
初めて、自分に問いかけた言葉だった
唯香が去った暗闇の中、ひのりは一人、
“誰もいない記憶の世界”に立ち尽くしていた。
(……私って、なんだろ)
さっきまで誰かと戦っていた。
みんなと笑ってた。
でも今、自分の体が、
自分の声が――自分のものでないみたいだった。
脚本にはない。
台詞もない。
でも、言葉が浮かんできた。
ひのりは、目を伏せたまま、口を開いた。
「……ねえ。
誰かに“何者か”として期待されて、
誰かの“記憶”に縛られて、
それでも私――」
一呼吸、空気が止まる。
「私って、何?」
その声は震えていたけど、はっきり届いた。
静まり返った教室に、言葉だけが響いていた。
「――カット!」
唯香の声がかかったのは、しばらくしてからだった。
誰もすぐには声を出せなかった。
中島りつがカメラを止め、
名塚真帆がイヤモニを外して、小さく息を吐く。
「今の……ガチだったよね」
「うん、あれは……脚本になかったよ」
あさひがモニター越しに呟いた。
七海、紗里、みこも静かにひのりを見ている。
ひのりは、自分のセリフに戸惑っていた。
演技だったのか、本音だったのか――自分でも、よくわからなかった。
唯香が、そっとひのりの肩に手を置いた。
「今の、すごく良かった。
……でも、今日はここまでにしよっか」
ひのりは、目を伏せたまま小さく頷く。
「うん……」
プロジェクターの電源が落とされ、
記憶の世界は静かに幕を下ろした。
夕焼けが、少しだけ窓の隙間から差し込んでいた。
教室の照明が戻ると、みんなの表情に少しずつ日常が戻ってくる。
「今日は、よく頑張ったね」
「さすが主演」
「私もちょっと泣きそうになったよ」
そんな声がぽつぽつと交わされる。
だけど――
ひのりの胸には、うまく言葉にできないモヤモヤが、まだ残っていた。
自分の言った「私って、何?」という一言。
あれは、誰に向けた言葉だったのだろうか?ひのりの心には謎が残るままであった。
続く