辞めた時
小説なんて初めて書いてみました。意外と楽しくてビックリリンリン
イギリスの偉い大学の人が鬱の人に小説を書かせてみる実験をしてるらしい。客観視出来るからって。
ということで小説を書いてみようと思う。
カッコいい勇者みたいな書き出しとか青春溢れる乙女の様な書き出しではなく、精神疾患者が自分の治療の一環として書く事を宣言してから始まる小説なんて妙だ。
誰でも憧れるであろう第二の人生を、自由自在に変幻し息を宿すことが出来るこの執筆という行為で私は自分を見つめ直そうとしている。
少しつまらない様な気がしてるがワクワクする自分もいる。
医者に救いを求めただ自分の苦悩や辛さをえずく人の様な他者に絶望し自分の理解者を求め臨床心理士に思いを連ねる人の様な姿勢で書くつもりだ。
そんな文章を書く私は例に漏れず疾患者でそんな疾患者を見守る医師が君達だ。
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「学校に行きたくない。」
登校・授業・下校・夕ご飯・お風呂
いつも通りの1日を終えリビングに母親しか居なくなった夜の12時前
まるで明日1日の予定を話すみたいに軽々と口にしたんだ。
僕って人間の大前提としてある程度の関係性がある人からは辛そうだとか苦しがってるとかそういう事を思われるのが苦手だった。
親も例外ではなくそういう場においての話し合いとか何が嫌だから行きたくないとかその類の話をしたく無かった。
「だから明日は学校行かないや。それじゃ」
「なんで行きたくないの?」そんな言葉を発させる隙を与えない為に僕は言葉を重ね無理にこの場を収めようとした。
ただ焼石に水なことくらい分かってる。
学費も制服代も毎日作ってくれるお弁当も今まで母がしてくれていたこと全部を裏切ってしまう様な感覚だった。
母と話せばそれを妙実に感じてしまうだろうから話したくなかった。逃げたかったんだ。
「はぁ?」
母から出た言葉は意外にも驚きと怒りが混ざった様な言葉だった。
心のどこかに息子の僕なら母を裏切っても優しく諭して受け入れてくれるんじゃないかってそう思ってた。僕が"裏切った"という事実を僕に感じさせないでいてくれるんじゃないかと思っていた。
そんな甘過ぎる理想と突きつけられた現実に落胆と悲しみ、それと少量の納得も存在した。
ただその時の僕にその場に居続ける度胸はなかった。
「それじゃあ」
それだけ言い残した後僕はリビングに居る母を置いて寝室に向かい眠りについた。
次の日の朝
起きると目の前に母親が居た。寝れなかったのだろう。顔がヤツレ泣いた後が頬に残っていた。
それがまた辛くて僕は布団に視線を落としながら話をした。
「なんで学校に行きたくないの?」
「分かんない。」
「分かんないってことはないでしょ。」
「分かんないんだって‼︎」
「いじめられてるの?」
僕は小中学校と度々いじめられていたことがあったから母はこんな事を聞いてきたんだと思う。
ただ自分でも分からなかった。
なんで行きたくなかったのか。話したくないのではなく当時は本当に分からなかったのだ。
毎日比較的楽しく学校に通っていた気がしてた。ただ、それがある日プツンと糸が切れた様なそんな感覚がして学校に行きたくなくなった。
母の気持ちを考えると気が気でもないだろう。原因が分からなければ解決のしようも息子の心に寄り添う事も出来ないのだから。
そんな罪悪感を感じながら僕は泣きそうになっていた。泣きたいのは母親なのに。僕は泣きそうになっていた。
学校に行きたくないなと初めて思った日の事だ。
その日も当たり前の様に学校を終え夕ご飯を食べてお風呂に入っていた。
ただその時、泣きたくなってしまった。
昔から君は考えすぎだよ。
とか心配症だね。
と言われることが多かった。自分の考えの偏りに気づくのは非常に困難で当時の僕は過去に悲観的になり過ぎていた事に気づけなかった。
小・中学校と虐められたりのトラブルはあったものの比較的楽しい学校生活を送って来たと思っていた。ただ何も考えずに遊んでゲームして少し課題をやって寝て。
そんな毎日の繰り返しに子供の頃の僕は結構満足していたのだと思う。
僕は度々この様にして過去を振り返ってみる。どんな事があったかとか確かこれはああだったなとか、別に意味なんてないんだろうけど、暇な時とか何も考えてない時とかによくする様になっていた。
その日も僕はお風呂で過去について考えていたんだ。
楽しかった事悲しかった事イライラした事色々な過去の感情を今の目線から客観視する。
そうすると、気づく時があるんだ。
あ、この人僕のこと苦手だったんだな。とか色々なことに気づく。本当は気付いても気にしなくて良いことに気付いていくんだ。
人の顔を思い浮かべる。人の顔を思い浮かべる。誰しもが僕に対して好ましくない感情を抱いてる様に感じた。実際は定かではないが当時の僕にはそう感じた。
そうしていく内に何か自分が壊れる様な。分からなくなってしまうんだ。今まで積み上げて来た自己肯定感とか自尊心とか自信とか考え方とか、そういった大事なモノは全部過去の経験から生まれるものだ。
そんな大切な過去を僕は全部否定して悲観的な色に塗り替えた。
それに気付いてからはトントン拍子に進んでいった。人の目線が怖くなってマスクをした。人の顔が怖くなって目を逸らした。人の態度が怖くなって本音を話せなくなった。人の言葉が怖くなって信じれなくなった。
今まで自分が上手くやってきたと思っていた過去は全部僕の虚栄であり現実は私の認識と程遠い、とんだ思い上がりの人間なんだと感じた。そんな自分に価値を感じれなくなって高校に居るのが嫌になった。
そんな様な事を当時は言語化する事は出来なかったししようともしてなかった。ただ漠然と"辞めたい"って気持ちが頭に浮かんでいた。
だから母や先生に幾ら何故学校を辞めたいのかと聞かれても僕は"分からない"としか言えなかったんだ。
母に辞めたいと言った3ヶ月後
僕は学校を辞め通信制高校に編入した。
僕が母に学校を辞めたいと言ってから実際に辞め通信制高校に編入するまで、僕はほとんど親と口を聞かなかった。
変な罪悪感を抱き変な意地を張ってしまっていたのだ。
そんな時父から母のカウンセリングに僕もついてきてくれないかと言われた。
罪悪感が積もった。私という存在は産み育ててくれた母をカウンセリングを受けなきゃならないまでの精神状態に追い込んだんだと感じた。
変な意地もここでは張らなかった。ただ僕は「わかった」とだけ言ってついて行った。
向かった施設は母のカウンセリングと同時に僕のカウンセリングも行う様子だった。今思うと息子から心理士が悩みを聞き出し母に共有する的な所だったと思う。自分のその複雑な感情に言葉を付ける事ができずにいた僕はその時間のほとんどを床のカーペットのシミを数えるのに使っていたのだと思う。
ただその日の僕は以前リビングから聞こえた
「なんでこうなっちゃったんだろう。何がダメだったのかな」
って母の言葉を頭の中でずっとぐるぐるさせていた。
カウンセリングを終え僕が応対室で待っていると母と父が出てきた。母は泣いていた。
母が泣いているのは何度か見たけど成長期を終え母より少しだけ高くなった目線で見た母の涙は普通の涙をしていた。
それまで漠然とあったお母さんという人。本当に悪い言い方かも知れないけど僕は母を母としか見れてなかった。1人の人間として見れてなかった。自分の母親も自分や友人と同じ学生時代を過ごし成功と失敗を重ね始めての育児に全力を割いているのだと分かってあげれていなかった。
今なら母の
「何がダメだったのかな」
という発言にも納得がいく気がした。
母も初めてだったのだ。
僕が初めてボールを蹴った時全く見当違いの方向に飛んでいった様に、初めてゲームをした時に操作方法が分からずネットや友達に聞いてなんとかなんとか進んでいった様に
私の母だって始めての育児だったのだ。何も分からない中必死に試行錯誤し僕を育ててくれていたのだ。
それに気づくと今までの自分がどれだけ受け身だったかも分かった。どれだけ恵まれていたかも分かった。
その時から両親を悲しませない様に親孝行していこうって思う様になっていた。
カウンセリングの帰りには父がステーキを食べさせてくれた。