下
お茶会も無事終わり、私の離宮にはしばしゆったりしたムードが流れた。相変わらず教師二人からの講義は続いているが、慣れてきたおかげかかなりスムーズに、余裕を持ってこなせるようになっている。
書斎には、社交の場に出たり人と話をしたりする時困らないように、と最近は様々な本が運び込まれるようになった。赤裸々な恋愛小説から最新の学術書まで、ガルド先生さえうなるようなコレクション。それらを空いた時間にパラパラと読んでいる。
今日もまた、ページをめくりながら私は気がそれているのを感じていた。
思うのは、私たちの計画について。彼女が私を王位に就け、そして殺すその一連の流れのこと。
彼女が私に望んでいるのは、王位を私自ら奪還することではない。
望まれているのは、彼女から与えられる王位を適度に維持し、その傍らで彼女が様々な事柄を処理する許可を与えること。そして、彼女が求めるタイミングで打ち倒されることだ。
見事なまでに傀儡。彼女の思い通りに動く適度に頭のいい人形へと、私は導かれる。学びの全てに感謝をしているし、私の短く終わるであろう人生が最大限彼女のためになることをうれしくも思っている。一方で、少し寂しいのだ。彼女の治世を見られないことが。
彼女は私を王女様、としか呼ばない。本来は殿下、と呼びかけるべきで、そういったことになじまないガルド先生ですらそう呼ぶのに。私は彼女に呼ばれるたび、その目に「王女」という一つの役としてしか私が映らないことを寂しく思った。
こんなこと、彼女には到底話せない。未来の王の時間をそんなことで奪ってはならない。
私はただ、彼女の臣下だった、王位はいらない。権力など、私が求める物ではない。求めるのはただ、気高くあることだ。彼女は私を気高くいさせてくれる。それで十分な、はずだ。
その朝は、突然やってきた。
「王女様」
呼ばれて本から顔を上げると、彼女が真剣なまなざしで私を見ていた。ただ事ではないとわかる。目線で続きを促すと、彼女は軽く頷いて口を開いた。
「王女様の王位継承権が第一位となりました。」
思考が停止する。
いつか来るとわかっていて、でも来るはずが無いと思っていた。散々準備はしたはずだったのに、まだ足りなかった。
「っ・・・」
なぜ、という言葉を必死に飲み込む。私を射貫く彼女の視線を見つめ返して、ようやく脳に血が巡り始める。方法を尋ねることに意味など無い。もう、その時は来てしまったのだから。
「・・・そう」
努めて、冷静に返事をする。動揺を彼女に知られないなど、きっと無理な話だ。だからせめて、外側だけ取り繕えればいい。彼女以外の全員を騙すことができれば、彼女にとっては十分だろう。
一つ、彼女が頷く。
「併せて、王はもう長くないと思われます」
「御見舞いの準備を。それから・・・いつ、私が立つことになってもいいように、準備を」
「はい、王女様」
こんな時でも優雅な礼をして、彼女が書斎を出て行く。
残された私はゆっくりとうつむき、二粒だけ涙をこぼした。
「お父様・・・」
憎い人ではなかった。
ここに一人閉じ込められ、王族らしい生活が与えられなくても、それはきっと父のせいではないのだと感じていた。
行事で顔を合わせるたび、遠巻きにする兄弟たちや王妃様をよそに、必ず側まで来てくれた父。ソファーに腰掛ける私の前に膝をついて、不便はないかと聞いてくれたその目は優しさに満ちていた。
聞かれるたび、私は首を振っていた。
本当に、不便と感じることはほとんどなかったからだ。強いて言えば、侍女たちの働きが十分でないことには思うところもあったが、訴え出るほどのことには思えなかった。何も言わず黙っていることに決めたのは私自身だ。
人とほとんど言葉を交わさず育った私は、感情の動きが小さい。それ故に、一度も自分の身の上を嘆いたことはなかった。
ガルド先生に学んでからは状況を冷静に見て可能性を考えるようになった。そのうえで自分の状況を顧みると、父には何か事情があるように思えるのだ。
人を一人、それも王族を、ずっと閉じ込めておくのは並大抵のことではない。離宮を一つ使ってまで、そうせねばならなかった理由があるのだ。
私がここにいるのは、きっと何か深くて重たい事情があるのだと承知していた。
だから、私はその死を喜べない。
でも、もう道は決めてしまった。
「私は、王になる・・・」
事情があるのだと言い聞かせても、どうしても孤独だった日々に意味を与えてくれた、彼女のために。
落ちて本のページにしみこんだ涙が、ゆっくりと乾いていった。
実際に王位に就くことになった日のことは、実はよく覚えていない。王位継承権第一位となったことを知らされてほんの数日。何でも無い天気のいい日に、世話係が王の死去を告げた。
王宮への移動、服装の準備、慣れない法具の取り扱い、式典の順番。めまぐるしく詰め込まれる情報を追うのに必死で、感情をまじまじと見つめる時間は無かった。おかげで、王の事をゆったりと考えて涙を流さずいられたのだと思うが。
戴冠式は、初めて入る大広間で大した練習もできずに行われた。
絨毯が惹かれた大広間。長いマントを侍女たちにもたれ、冠をつけてたくさんの貴族に囲まれた中を歩く。広間は大きくて、玉座は遠い。じりじりと進むその道のりが、まるで世話係と出会ってから今までを象徴するようだった。
王位に就くことになるなんて、考えられないような日々。今も、なにが起こったか分からないまま絨毯を踏みしめている。
一歩一歩転ばないように、と神経をとがらせて歩くうちに、いつの間にか玉座にたどり着いた。初めて座ったそれはベルベット特有の感触がして、あまり座り心地のいいものではなかった。
「新女王陛下に、礼!」
広間に集まった貴族たちが、一斉に私へ礼をする。男も、女も、老いも若きも皆、私を『王』としてみている。
息が詰まるような高揚感があった。
「皆、顔を上げよ」
つとめて、声をゆっくりと太く吐き出した。
顔が上がり、何百という瞳が私を見る。ひるみそうになるのをこらえた。今、私はこの瞬間のために生きている。この瞬間を彼女に捧げるために、生かされているのだ。
「今、この瞬間より、我こそは女王リューシィである!」
宣言すると、わっと歓声が上がった。
この国では、即位する際名前を変える風習がある。
リューシィ。それは、いつか愛した物語のあこがれの主人公の名。この名前に縋って、私は王となる。
戴冠式を終えた晩。寝所で1人横になって父のことを考える。死が一枚膜を隔てたところにあるような感覚で実感がわかず、涙を流せなかった。そのことをほんの少しだけ、悲しいと思った。
教育の甲斐あって、私はつつがなく王の職務をこなすことができた。最初は不信感をあらわにしていた大臣たちも、私がある程度話の通じる人間だと分かると安堵したようだった。
王となってからも世話係とガルド先生は側にいて、日に一度は会話する時間を作っていた。少しでも不安があれば意見を仰ぎ、彼らの言うとおりに政治を動かすことも多い。立派な傀儡だが、彼らが出す以上の答えを持ち合わせる人間は宮中にいなかった。おかげで目立った批判なく、それなりに良き王を務められていたと思う。
基本的には世話係の教育に従っていた私だが、少しだけ、隠れて権利を行使した。
王、という立場になって、私が得た情報を得る自由。この自由を目一杯行使して、私は三つのことを調べたのだ。
その三つとは、私がどのように生まれたのか、彼女はどのように私の世話係となったのか、私はどうしてこの椅子に座ることができたのか、である。
どれも、知らないことだった。そして、心から知りたいことだった。
私がどのように生まれたのかについては、先王の日記、私が生まれたときのカルテなど様々な物から知ることができた。
私の父親は先王、そして母親は、ある侯爵家の娘だった。元々後ろ暗い領地経営によって国から目をつけられていた侯爵は、ついに一線を越えてしまった。詳しくはどの資料にも明言されなかったが、どうやら人身売買に加担したらしい。
急激な人口の変化を不審に思われ、国が秘密裏に調査して判明した最悪の事実。先王は即座に侯爵家の取り潰しを決め、しかしことの重大さ故に処罰の方法やタイミングを思案していた。
そのため、表向き侯爵はそのまま侯爵であり、全貴族が集められ祝われる国王の誕生祭にも出席した。この日が、私の人生の始まりだったのだ。
侯爵は感づいていた。自分の悪行が王に知られ、近く窮地に立たされるだろうと。だから娘を同行させ―王を襲わせた。
先王は自分を落ち着けるためか、日記にこの日の出来事を書き殴っている。
その日、会場の警備は手薄だった。王のそばに貴族しかいなかったこと、お祭り騒ぎで民衆が王宮に入らないようにすることの方が重要視されていたことなど、要因は様々。だが少なくとも、王が貴族に害されるとは誰も思わなかったのだ。王によって存在を保証されている貴族が、自分を危うくするようなことはしないだろう、と。ただ一人、失う物をなくした侯爵だけは違った。
先王はアルコールで少し酔い、パーティーを楽しむ貴族たちを残して寝室へ向かった。王の居室を守る兵も、この日は外の警備にかり出されていた。大勢の世話係たちにもパーティーに駆り出されていたので彼は一人だった。もちろん、彼らが持ち場を離れるのは王が承認した上でのことだ。
王は上機嫌に寝室へ入り、服を脱いだ。世話係が置いていった寝間着に着替え、ベッドに体を横たえたところで何者かに飛び乗られた。
手近に剣はなく、王は拳を固めるよりも先にそれが女であることに気づいてしまった。
女子供に優しい人だったという。きっとそれは真実だ。私は行事の時にしか顔を合わせなかったが、合うたびに苦い顔をして、しかし確かに優しい眼で私の頭をなでる人だった。
女は泣いていた。身なりはきちんとしていて、今日この場にいられるのだから貴族だろうと思った。王はこの不審者をつかみ出す前に、話を聞いてやろうとしたのだ。優しさは、仇となった。
女は泣きながら王に襲いかかり、王が精を吐くまで動くのをやめなかった。
侯爵家は即座に取り潰された。私も、本当なら生まれる前に死ぬはずだったのだ。しかし、そうはならなかった。侯爵が貴族たちに吹聴して回ったのだ。娘が王の子を授かった、と。
パーティーの夜、二人がいなかったことは周知の事実だった。王は正しい情報を伝えようとして、それが不可能であることに気がついた。あまりにも広く知れ渡りすぎていた。
結果として、娘は保護された。パーティーの夜の出来事はなかったこととされ、私は無事に生まれてしまったのだ。
日記の中で、王は何度も自分を恥じていた。あんな者相手にも欲が出たこと、無闇に優しさを与えたこと。何よりも、最愛の妻を裏切ったこと。
王の子供は多くいるが、私以外全員正妻との間に生まれた子である。陰に日向に王を支えてくれた彼女への愛は強く、二人の信頼関係は厚かった。それを裏切ってしまったと、王は自分を責めていた。正妻は王が受けた傷に理解を示し献身的に支えたが、王が彼女に許しを請わない日はなかった。
王にとって、私たち母子と毎日顔を合わせることは苦痛以外の何物でもなかったのだ。王だけでなく、私の実母にとっても、王の家族にとっても。
私の実母は、ついに耐えかねて私が言葉を話す前に身を投じて死んだ。遺書には私への言葉と父親である侯爵への恨みが綴られていた。侯爵に人生を支配され、泣きながら王にまたがった彼女もまた、侯爵の被害者だったのだ。
天涯孤独の身となった私は、離宮に移されることになった。王たちは私の存在に耐えかねていたし、罪人と王族の血を引く私は王宮で暮らすべきではないとの意見もあった。だから、必要な物は全て与えて、健やかに育っていつか死ぬように、と。
王女がいることは国民に知られてしまったから、行事には顔を出させる。しかし病弱だと言うことにして必要以上に交流はさせない。
私にはひたすら、静かな人生とその幕引きが望まれていた。
これが、私の出生の全てだ。
彼女がどのように世話係になったのか、についてはあまり意外性のない話が出てきた。激しい政争の最中、公務で地方に旅立った彼女の父親が事故で亡くなったのだ。
王妃が流行病との闘病の末に亡くなった。王宮の窓から黒い布が垂らされ、王妃を偲んでいたのを思い出す。しかし、王妃が死んでも王の治世は続く。王妃なしで各国との社交を行うのは難しかった。それに、私が生まれたときのことは王に深い傷を残している。あいている王妃の座を奪おうとする輩が現れる前に、誰かを立てる必要があった。
候補として名が挙げられた二人の令嬢。二人とも礼儀、知性など王妃になるには十分な資質を備えていた。親も王家への忠誠心が篤い信頼できる者たちだった。こうなると、どちらを王妃にすべきかが大きな問題である。王妃になるとなれば、どちらかの家がより強い力を持つことになる。
父親たちは、より多くの支持を集めようと躍起になった。娘に教育を受けさせ、王の信頼があることを示し、社交に力を入れる。
そうやってじわじわと、白鳥が水面下で足をばたつかせるように勢力を伸ばしていたその真っ只中で、突然の訃報だった。
山間の道を馬車で走り、バランスを崩して崖下に転落―。痛ましい事故だが、ままあることだ。政敵はこの事故に無関係であることもまもなく証明された。
後ろ盾がないものを王座に就けることはできない。新王妃になれなかった彼女は、命じられて私の世話係になった。
これが私の知り得た全てで、彼女がどうしてあんなにも王座を求めるのかはわからない。父親への弔いかもしれないし、あるいは彼女の欲望故かもしれない。何にせよ、私は最後まで彼女に捧げると決めてしまったから、あとは流れに身を任せるだけだ。
私がいかに王座を手に入れたのかについては、結局分からなかった。残されている公的な文書は、何もかもが真実を語っていないように感じたからだ。
王として君臨すること4年。ある日突然、その日はやってきた。
明け方早く、王宮内が騒がしくなる。お逃げください、と声をかけて扉を押さえるために走って行く人々の中に、世話係の姿は無かった。全て、今日で終わるのだ。
王宮内が騒がしくなっていくのを無視して、私は即位の際離宮から持ってきたソファーに腰掛けて本を眺めていた。
扉が開き、丁寧に閉められる。
「王女様、」
「・・・ついに来たのね」
彼女がズボンをはいているのは初めて見たな、と思う。結い上げられた髪は勇ましく、装飾は一つも無いのに今まで見た中で一番優雅だと思えた。
初めて会った日、彼女は私にはっきりと言った。時が来れば殺す、と。約束したとおりにその時が来ただけだ。
ソファーから立ち上がり、窓に歩み寄る。外は大勢の人が押し合いへし合いしているが、見渡す限り血は見えない。できる限り傷つけないように、と立ち回っているのだろう。よく見れば、王宮側の人間も武器を持っていない。
「王宮の武器を全て運び出したのね」
なるほど、と思う。支えてくれた王宮の人間に多少の情はある。傷つかないならばその方がいい。後の遺恨も少ないだろう。
足に柔らかな寝衣が触れた。今私は頭のてっぺんから足の先まで、彼女に与えられた物に身を包んでいる。まるで、彼女が彼女のために誂えた贈り物のようだと思った。
彼女が側まで歩いてくる。隣に並んで、私をわずかに見下ろしてくる。背が伸びて尚、彼女には届かなかった。
いつになく優しく、彼女は微笑んだ。
携えていた短剣を抜く。切っ先が目の前に突きつけられる。こんな物騒な物を携えて尚、彼女はあまりに美しい。
うっすらと空が明るくなりはじめている。夜明けだ。
この部屋の窓からは離宮が見える。顔を上げて、思わず笑みがこぼれた。うっすらと壁が青みがかり、神秘的な雰囲気を醸し出している。
「薄明の宮…」
涙がこぼれそうになったのは、その光景があまりにもきれいで感動したせいだ、多分。
「王女様」
彼女の声音は決して焦っても、急かしてもいなかった。むしろ気遣うようだと感じたのは、私の勘違いだろうか。
「もう、大丈夫」
「…では、」
剣を握る手に、力が入ったのが分かる。
「お覚悟」
私は目を閉じ、衝撃に備えた。
薄い刃物が勢いよく振られ、音を立てる。的確に切り裂かれる感覚がした。
そういえば、こんなにも長い間一緒にいたのに彼女の名前を呼んだことはなかった。誰よりも私を見て、育ててくれた私の世話係。彼女の名前は、とびきり可憐な花の名だったはずだ。
歩き慣れた王宮を着慣れない簡素なブラウスとスカートで歩く。
目的の部屋の前で裾を少し直し、手の甲を扉に向けた。扉をノックするのに慣れなくて、未だにドキドキする。
返事が返ってきたのを確認し、扉をそっと開けて閉じた。
「マーガレット様、お時間です」
書斎で何事か書き付ける彼女に声をかける。顔を上げた彼女は微笑んで、私を見た。
新しい、我らが首相。
「ありがとう、ルイーズ。今行くわ」
頷き、扉のそばに控える。切りそろえた毛先が肩に触れる感触に、まだ慣れない。
私はルイーズ。マーガレット様に命を吹き込まれた、彼女のための淑女だ。