上
初対面の印象は、ひどく不機嫌そうな人。
私が押し込められている離れの、めったに使われないせいでかなりほこりっぽい応接室で、私は彼女と向き合っていた。
ソファーに座る私。そこから10歩ほど離れた場所でまっすぐ立っている彼女。
その表情のどこにもにこやかさはなく、ただ静かに凪いでいる。服装も、高貴な身分にふさわしくなくおとなしいものだった。王族たる私との初対面にふさわしいとはおそらく言えない代物だ。
「本日から、世話係を務めます」
すがすがしいほど温度のない声。
ふと、違和感を覚える。温度がない。暖かくもないけれど、決して冷たくもない声だった。
上半身を倒して礼をされる。その一瞬、彼女の顔が苦々しげに動くのを見た。とはいえ多分、私以外にはわからない程小さな変化だ。ずっと無表情な大人を見て育ってきた私にしか、理解できない程度の、本当に小さな。
先ほどの声音と併せて、違和感が強くなる。
自分に興味のない人間が私の意思と無関係に送り込まれてくる。ただそれだけの今日だと思っていたけれど、もしかしたら違うのかも知れない。
彼女は想定と違う。今まで私が出会った誰とも、全く違う。
彼女が不遜な態度を取った、といって違和感を感じたのではない。むしろ逆。
声音も表情も、他の人間のようにあからさまに嫌悪を示してこなかった事に驚いたのだ。
仮にも王族とはいえ継承権は最低位、国民からも家族からもその存在を忘れ去られた王女。それが私。
めったに他の家族が住んでいる本邸、すなわち宮殿には行かず、この離れの中でひっそりと生きている幽霊のような存在。そんな人間にこびへつらって意味があると考える貴族は少ない。
年にほんの2,3回参加する宮廷行事でも、その態度はあからさまだ。彼らが侮蔑の笑みか存在への困惑を浮かべるところしか、私は見たことがない。
並の貴族すらそうなのだ。まして彼女は、一度は次代の王妃とまで目されて社交界の華と名高かった名家ジュレサールの娘。それが世話係になるなどこの上ない屈辱だろう。彼女の身の上を思えば、誰よりも大きく表情が動いておかしくないはずなのに。
(今、努めて崩さないようにした…)
想定外ほど興味深いものはない。
思わず、背筋を伸ばして居住まいを正す。
そうしてから、礼した姿勢を崩さない彼女に気づいた。ああ、そういえば私は彼女の主人なのだ。私が許さねば、彼女はその身を起こせない。
こんな簡単なルールすら、無視する者が多くてすっかり忘れていた。
「顔を、あげて」
久しぶりに人間相手に出した声は低く掠れていた。しん、と一拍沈黙が落ちたので、もしや届かなかったかと内心焦る。が、それは杞憂だった。
す、と動いて起こされる体。再びあらわになり、私をまっすぐと射貫くその瞳。
背筋がぞくりとした。その目の意味が分かった。
彼女が浮かべているのは、笑みでも困惑の表情でもなかった。ただ静かに、私を値踏みしていた。瞳が真っ直ぐ私を見据えていた。
彼女は考えているのだ。私を足がかりに、どうやって戻るかを。彼女が手をかけ、そして座り損ねた、あの玉座に。
彼女は、「私」を見ていた。背後にある王室や「王女」という肩書でなく、私自身がどこまで有用か、私の持つ能力を測ろうとしていた。
彼女が、なにを思い浮かべているのか分かった。私を利用して玉座に舞い戻り、そして、手が届いたらその後は。
私はその瞳の中に、彼女が私を殺す未来を見た。
私にとってその未来は、あまりにも甘美に思えた。
(ああ…彼女のために死のう)
つまらない言い方をすれば、私は退屈していたのだと思う。
あまりの退屈に、このとき私はいともたやすくこの身を彼女に捧げて死のうと決めてしまったのだった。
ここで生きて、やがてひっそりと果てていくのだろうと諦めていた人生に、光が差した気すらしていた。私の命に意味ができる。彼女が、意味ある物にしてくれる。
「私の世話係になると、そう聞きました」
「はい」
「……」
くるりと周囲を見回す。末席の王女には厳重な護衛もなく、この部屋には私たち二人だけだ。
「…ここへ」
持っていた扇で近くをさして、私が座っているソファーのそばまで来てもらう。従って歩くその足取りは音を伴わず、静かで猫の様だった。思わず見とれる。物語に出てくる完璧なお姫様が現実にいたら、きっとこんな風だろう。
隣に立った彼女を手招きし、顔を近づける。
「貴方は私を殺すのね」
「…時が来ればです、王女様」
彼女は、否定しなかった。
私相手にばれたところでどうなるとも思わなかったのだろう。そして、その判断は正しい。私が命を狙われている、と騒いだところで、真面目に取り合う人間はいないはずだ。なぜって、私の命に狙う価値はないから。そんな人間はいない、と思われて終わりだろう。
「時が来るまでは、生きていてもらわねば困ります」
美しい唇が、静かに私への殺害予告を告げる。
「では、そのときまで。私を育てて」
交換条件と言うほど大した物ではない。ただ純粋に、私は美しいプリンセスになりたかった。死ぬまでに一度ぐらい、彼女のように動いてみたい。美しく、軽やかで。私の部屋に雑多に放り込まれた古くさいおとぎ話の様に、穏やかで恐ろしくて目が離せないものになりたい。
私は役立つ駒になる必要があるはずだ。彼女はそうなるために必要なすべてを、私にきっと与えてくれると確信していた。
「わたくしは、貴方を育て、祭り上げ、そして殺します」
ギラリと紅い目が光る。
「とても素敵な計画ね」
満面の笑みを浮かべた私に、彼女は微笑む。
「ええ、完璧に実現させてご覧に入れます」
いつの間にか私が座る椅子の背もたれに手をついて、覆い被さるように私を値踏みしていた彼女。その手がするりと髪に触れて、そっと息をついた。
清めを忘れられ、輝きの鈍くなった私の金髪。
「兎にも角にも、貴方を磨かねば」
彼女が最初に手をつけたのは、古びた家具や体に合わない洋服で埋め尽くされた私の持ち物を改善することだった。
王妃を輩出する機会を逃して世話係に身を落としたとはいえ、彼女は未だ力ある貴族の一人である。一級品に囲まれて育った彼女の目によって選りすぐられた職人たちに注文が飛び、やってきた針子に私自身も採寸された。
それからほんの数日の間に調度品や装飾品、さわり心地のいいドレスなどがどこからか運び込まれる。どれもが恐ろしくシンプルだがこの上なく上質な物だとわかった。離宮とはいえ王宮の敷地内にあるここに、こんなにも自由に人を出入りさせたり物を運び込んだりできる物だろうかとは思う。だが、事実目の前に積まれた物たちを見る限り、彼女と彼女の家がどうにかしたのだろう。どうやって、など考える意味の無いことだ。
調度品を確認する私たちの横で、見知らぬ女性2人がテキパキと動いている。そのうち一人がすっと近づいてきて、彼女に耳打ちした。彼女は頷き、真新しい家具にうっとりとしていた私を呼ぶ。
「王女様、準備が整いました」
「何の準備?」
首をかしげた私を促し、女性たちの方へ連れていく。
女性たちが準備していたのは桶に入った湯と布。
「失礼いたします」
女性たちは私の服を脱がせ、下着姿にしてから湯に浸した布でゆっくりと肌を拭っていった。あまりにも手早く、手慣れた様子で服がまくられ、肌が拭われ、新しい柔らかな下着に替えられていく。その様子に目を白黒させている間に、すっかり清められてしまった。 いつの間にか世話係が選んでいた、これまた新しいドレスに着替えさせられる。
「お似合いです、王女様」
世話係が微笑んで、女性たちに手を振ってみせる。二人は一礼して去っていった。
「彼女たちは?」
「私の侍女です。王女様の侍女は仕事が粗いようですので」
確かに、それは真実だった。そもそも私は人前に出ない。国を挙げての行事、新年や国王の誕生日などの時しか家族と顔を合わせないし、国民の前に姿を現さない。外出と行っても離宮の周りを散歩する程度の私。誰にも見られないのに、毎日美しく磨き上げたり洋服を気遣ったりすることを私の侍女たちは無駄だと感じたようだ。その証拠に、行事が行われる前の数日間以外に湯で隅々まで体を拭われたり新しいドレスをもらったりしたことはない。いつも冷たい水の入った桶で顔を洗い、数日に一度布と水が与えられたのを使って自力で体を清めていたのだった。
初めて、肌が芯から暖かくなった気がする。
「明日からは、彼女たちに清めの手伝いをさせます。王女様はいつ何時も美しくあらねばなりません」
「はい」
私はこくりと頷いて、なめらかなスカートをなでた。
「ありがとう」
「いえ」
次に世話係が始めたのは私の教育だった。
彼女は物置同然にしていた一室を書斎とし、たくさんの本が運び込んだ。全て、私が新しいドレスや調度品に気を取られている間にいつの間にか整えられていた。
「王女様、こちらに」
世話係に呼ばれ、示された椅子に腰掛ける。目の前には机もあった。私の体格に合わせて作られたそれらは使い心地がよく、試しに、と広げられた本のページをめくったり、紙に物を書いたりするのにも支障がない。
横でそれらを確認し、満足げに世話係がうなずいた。こだわりの品であるらしい。自分の仕事の結果が良いものであると、彼女がほんの少しだけうれしそうにすることを私は知った。
座った私の目の前に、一枚の紙が差し出される。
言語、政治、歴史―と様々な科目名が並び、下に小さく本の題名らしき文字が書かれていた。
「文字は読めますか?」
「はい、学んだので」
私には7歳から教育係がついていた。世話係と交代で私のそばからいなくなったが、文字や文学について相当にしごかれたので読み書きは支障なくできる。
「では、ここに書いた本を一週間のうちにすべて読んでください。最低限の知識は身につきます」
「あ・・・」
「何です?」
「この本は、タイトルに見覚えがあります」
指したのは、歴史の本『我が国の建国と繁栄、未来について』
立ち上がり、本棚の前を歩く。一応国の予算で買われた物を捨てるのはよくないだろう、との判断で、前の教育係に与えられて私が読んだ本たちは書斎の端にまとめられていた。
「ここに」
「・・・なるほど」
「あの、何か?」
世話係が思案顔になってしまったのにびっくりして首を傾げる。
いつも委細なく整えられてから渡されることばかりだったから、彼女が目の前で何かを考えているのを見るのは初めてだ。
「王女様、この本は何歳の時に与えられ、お読みになりましたか?」
「おそらく・・・9歳ぐらいのときではないかと」
「理解できていますか?」
「時間はかかりましたが読破はしました。解説は、前の教育係にいただきました」
彼女はまた少し考え込んだ後、うなずいた。
「わかりました、ではこの本は読まなくても結構です。他にリストの中で読んだことがある本は?」
「言語の欄の、『ドーワヅの物語』も読んだことがあります」
「では、その2冊以外を一週間のうちに読むように」
「はい」
世話係は机に私が読んだことのある2冊を除いたリストの本たちを並べる。全部で10冊だ。
「読書はここで、この椅子に座りこの机に向かってしてください。ここが、貴方が学び考える場所だと覚えるように」
「わかりました」
それから毎日、私は読書にふけった。元々散歩か読書しかすることのない身だ。文字を追うのも、分厚い本も得意だった。しかも今は素敵な椅子と机がある。前の教育係から渡された本に書いてあった事柄も出てきて、それなりに楽しい学びの時間を過ごした。
「本を、読み終わりました」
朝、着替えを終えてからそう報告したのは、リストを渡されてから5日後のことだった。 世話係は少し目を開き、それからうなずいた。
「では書斎に参りましょう」
二人で書斎に入り、私はいつも通り椅子に座る。世話係が机を挟んで向かいにたち、私が読み終えて机に積んでいた10冊から1冊を取り上げた。
「王女様、今日から読んでもらった本を使って講義をいたします」
彼女が本を4冊選び取る。
「マナー、歴史、流行、政治については、私から教えます。残りは―」
世話係が部屋の外に向かって合図する。扉がゆっくりと開かれ、初老の男性が入ってきた。
建て付けが悪くなっているこの家の扉を、できる限り音を立てないようにそろりと開けたその仕草に既視感を覚える。眉間に寄ったしわ、射貫かれそうな眼、きちんと着こなされたシャツと長いローブ。そして何より、トレードマークの片眼鏡。
「先生・・・!」
教育係、ガルド先生だった。
「王女様。ガルド殿は、幼い貴方にとってよい教師ではなかったと思います」
彼女は先生の前ではっきりとそう言った。先生の反応が怖くて慌てて伺うが、特に取り乱した様子も、激昂した様子もない。
ガルド先生は、確かにいい先生とは言いがたかった。7歳で初めて出会ったとき、読み書きがろくにできなかった私に分厚い本を突きつけて音読するように言った。もちろん時間がかかり、つっかえる。ようやく一文読み終えると、ガルド先生はその箇所を正しい発音で読み、私に50回復唱させた。そうやってじりじりと読み進め、次の日に再び同じ箇所を今度は全部まとめて音読させられる。少しでもつっかえると最初からやり直しになった。
彼の元で学んでいた間に、私は自分の感情を殺すすべを覚えたと思う。泣きたい気持ちも、怒りたい気持ちも、ガルド先生の前では何の意味も成さなかった。泣き出してしまった私を見ても、ガルド先生は眉一つ動かさずに言ったのだ。次を読め、と。
その記憶は、未だに彼を恐ろしい存在に感じさせる。
「なぜ、先生を・・・?」
「今の貴方にとっては、よい教師であるからです」
世話係が説明する。
ガルド先生は様々な分野に精通した知識人であること。元は国立研究所で主任研究員として仕事を任されていたこと。今の私にある読み書き能力も物事を考える力も、彼が教育した成果であること。そして何より、私に一切の暴力を行わなかったこと。
「市政では教育のための暴力が当たり前です。しかし、王女様の体にそのような教育を受けた傷跡はありません。意味のない暴力ではなく、ただ淡々と授業を行うのがガルド先生です。王女様の教育をお任せするのに、足る方だと判断します」
私はガルド先生を見た。
彼の姿は、想像していたよりもずっと人間らしく見える。ほんの数ヶ月会わなかっただけなのに、不思議な懐かしさと親愛を覚えた。
「・・・先生。また、私の教育係になっていただけますか?」
「そのために呼ばれたのだ、当たり前だろう」
内容とは裏腹に、穏やかな声音だった。
記憶が思いおこされる。ガルド先生は泣いている私を慰めはしなかったが、決して貶しもしなかった。ただ待って、泣き止んだのを見て次を促したのだ。
もしかして、と思う。
ガルド先生は、私の教育係になるまで研究職でキャリアを積んできたのだ。ならば、
「先生、もしかして子供に教育したのは私が初めてでしたか?」
「・・・ああ」
小さく、先生がうなずいた。
昨日まで高度な知識を有する優秀な研究員に囲まれて仕事をしていた先生にとって、読んだり書いたりが全くできない小さな私は、どれほど未知の存在に思えたことだろう。子供に言葉を教えたことのなかった先生が感じた戸惑いと、その中で最大限与えてくれた優しさに気づき、私は少し微笑んだ。
そうして、世話係とガルド先生の二人から教育を受ける日々が始まった。
ガルド先生の講義は数年受けただけあってなれた形式で、新しいことを知るのが新鮮で楽しい。一方、世話係の講義、特にマナーに関する教育は容赦なく厳しく、その上何が正解か手探りなのでとても難しい物だった。
分厚い本を3冊頭上で重ね、まっすぐ立つ。少しずつ正しい姿勢を学び、できるようになったと思ったら今度はその状態で歩くように言われる。動けばバランスが崩れて落ちるのは当たり前だろう、と抗議したくなったが、彼女が目の前で易々と手本を披露するせいで何も言えなくなった。歩けるようになったら今度はターン、着席、起立。ようやく慣れたら次は扇を持って扱いを学ぶ。それからどこに何を持つのが正しいか、貴族が集まるお茶会や舞踏会ではどう振る舞うのが正しいか、流行はどのように追い、作るのか。
全てを理性的に計算し、より魅力的に、より強大に映るにはどう振る舞うべきかたたき込まれるのだ。
優雅さは、他の何よりもスポーツに似ているらしい。