抱擁
「左目、どうしたの?」
「怪我した」
「気をつけなよ」
「ああ」
「ひどい顔だね」
「…………」
「あの時はあんなにはしゃいでいたのに」
もちゃもちゃと団子を頬張りながら叡智はエニグマに言った。
「団子食べる?」
「……要らない」
身体が重すぎる。胃が何も受け付けない。何か口にすれば戻すのは想像に難くない。あれからずっとライトのことで頭がいっぱいなんだ。私の知らない、あの絶望の顔。どうにかしたくて、ライトにアプローチしても流されるだけ。
「……なぁ、叡智」
「うん?」
「私は、ライトにまた、何かしてしまったのだろうか。いつのまにか、傷つけてしまったのだろうか」
「なに、また無理やりやったの?」
「そうではない。だが、ライトが最近おかしいんだ……私が何を言ってもこれといった反応してくれないし、何か食べようと誘っても首を振るばかりで」
「貴方が大好きすぎるあの子が? それは大層なことじゃないの。姉離れってやつ? 私は妹離れできないけど」
「そう……なら良いんだが……」
エニグマは握っている猫の髪飾りを見た。仲直りの証に頑張って人里に行って買ってきたものが。これを贈れば、ライトは喜んでくれるだろうか。
「………」
思えば、ライトは私のことが大好きだった。何をするにしても常に私の傍に居た。大抵のことじゃ怒らない、彼女は優しすぎるのだ。
もし、殴ったら何かしら反応してくれたのだろうか。嫌がってくれただろうか。爪を剥がしたら? 痛くて拒絶してくれるだろうか? どこまでやったら妹は泣き喚いてくれるのだろうか。
「どこまでしたら………」
「……マ……エニグマ! その先は!!」
「ぁ」
ぐらりと身体が傾く。エニグマが気がついた時、すでに彼女の身体は空中に浮いていた。そのままエニグマは崖の底へ落ちていく。
「…………」
叡智は焦りこそしているが、エニグマなら大丈夫だという確信があった。
「……ふぅ、まさか崖に落ちるとは」
「おかえり、早かったね」
「地面掘ってきたぜ」
服に着いた砂埃をばっぱっと払って叡智の横に移動する。
「あの子は貴方のことが大好きなんだから、きっと仲直りできるよ」
「あぁ……」
変なことを考えるのはやめよう。エニグマは髪飾りを握って、ライトへ手向ける言葉を整理した。
―――――――――――――――――――
もう、部屋に閉じこもる姉は居ない。
やがて、外へと羽ばたく日も近いのだろう。
それは、素直に喜ぶべきことなのだろう。
なのに
どうしてこんなにも、悲しいんだろう。
愛していた、愛していたんだ。
ずっと、愛していたんだ。
身も心もひとつになろうと、
あの記憶も忘れないように体に刻んだんだ。
返してくれ、私の想いを。
「………ッ!」
……あぁ、こんなの逆恨みじゃないか。
自分は堕ちるところまで堕ちてしまったようだ。
なら、終わってしまう前に終わらせよう。
人並みに笑えるようになった今の貴方には
きっと私はもう必要ないのでしょう。
「はぁ……はぁ……はぁ……!! おぅぇッ!!」
ファントムがエニグマと叡智のところに駆けつけてきた。大きくえずき、かなりの汗をかいて、狼狽えている。
「ファントム、どうしたひどい顔だぞ。靴はどうした?」
「姉さんが……ライト姉さんが……!!」
「ライトが?」
「と、とにかく、早く来て!!」
「ぅぉわっ!?」
ファントムはエニグマの腕を掴んで走っていく。何事だろう、叡智もそのままついていくことにした。
「なんだ、ライトに何があったんだ!?」
「…………実は」
『おーい、ライト姉さーん。暇だから遊ぼうよ〜』
ファントムは珍しく地下室から出て、ライトと遊ぼうとしていたのだ。
『まったくー、また部屋でエニグマ姉さんといちゃいちゃしてるわけー? 私も参加しちゃうよー』
と、からかうように喋りながら階段を上ってライトの部屋へ向かう。その途中
ぴちゃり
『………え?』
水の音がした。見下ろせばそこには赤い水たまりがあった。まじまじと見なくてもわかる、血液だ。
『血……?』
その血はまだ乾いていない。どこからか流れてきている。その血を辿れば辿るほど、その量は多くなっていく。
血は、ライトの部屋の扉の隙間から流れていた。
『まさか……』
嫌な予感がファントムの脳裏を過ぎった。鳥肌が立って、冷や汗が流れる。
『姉さん!! ………ッ!?』
その先は闇だった。背後から差し込む太陽光。それのおかげでわかったことがある。この部屋は血で溢れているということだった。壁も床も天井も、余すことなく全てが赤色に染められている。赤色の中心で、苦しそうに呼吸をするライトの姿があった。ファントムが部屋に一歩踏み出せば、赤い水たまりに足が入ってぴちゃりと音が響く。雫が跳ねて足が汚れる。
『姉さん!! 大丈夫!?』
ファントムがライトに近づいて安否を確認する。弱々しい呼吸をしていて、いかにも死ぬ寸前だった。身体のあらゆる場所に傷ができていて、そこから血が流れている。
『と、とにかくエニグマ姉さん呼ばなきゃ……!!』
「なん……だと!?」
「ライト姉さん、血まみれで、息をするのがやっとで……!!」
「くっ!!」
エニグマはファントムの手を振り払うと、一気に速度を出して家へと戻った。
ダメだ、ライト。
私の傍から居なくならないでくれ。
玄関を流れるようにタックルで破壊して、ライトの部屋の前へ。ファントムが言っていた通り、下が赤色で染まっている。しかも、乾いている。時間がない。
「ライト!! ライト!!! 返事をしろ!!!」
ドンドン、と激しく扉を叩く。ガチャガチャ、と激しくドアノブを回そうとするが、鍵がかかっているみたいだ。
「……は、ライト姉さん鍵かけたの!?」
後から二人も合流する。
「くそッ、ライト!!!」
何度もタックルをして扉の破壊を試みるが、扉の向こうに何かがあるのか中々壊れない。
「エニグマ、外から行くぞ!」
「あぁ!?」
叡智が外に出て、ライトの部屋の窓へ。大きめの石を持って、思い切り窓へぶん投げる!
ガシャーン、と窓は粉々に砕け、ライトの部屋に通じるようになった。そのままエニグマと叡智はライトの部屋に乗り込む。
「……なんて、ことだ」
真っ赤に染まった部屋の中心で、真っ赤に染まったライトが力無く倒れていた。傍にはペティナイフが落ちている。
「…………」
エニグマが膝から崩れ落ちる、びしゃりと膝が血で汚れる。あまりの壮観さに頭がついていけていないみたいだ。瞳がぐらついている。
「大丈夫だ、ギリギリ生きてる! ファントム! 適当な布と救急箱を!」
「うん!」
「ッ、腕と足首の出血が特にひどい! すぐに応急手当を……これしかないか……!」
叡智は自身の服を破ると、とくに出血がひどい場所を結ぶ。
「持ってきたよ!」
「ライト!! 死ぬんじゃない!!」
叡智はまず、綺麗な布を傷口に当てて、圧迫して止血を試みる。白い布はみるみる血を吸い上げて、赤く染まっていく。
「…………ぅ……ぁ…」
「ライト姉さん!!」
ライトから、かすかに声がした。生きている、ライトはまだ生きているんだ。
「……ね……ぇ……さ……」
「エニグマ! お前こっち来い!!」
「…………」
エニグマはただ虚に下を見ていた。怖かったのだ、今のライトの姿を直視できなかった。自分のせいで、こんな、こんなぐしゃぐしゃな姿になったと思うと、吐きそうになった。
「エニグマ!!!」
この状態の妹を前に情けない態度をとるエニグマに怒りを覚えながら、叡智はエニグマの手を引っ張って手を繋がせる。いつもは温かいその手は死人のように冷たかった。温めるようにその手を握ると、ライトの指先が丸まった。凝視してなければ、気付かないほど、その動きは些細なものだった。
「もう少しだ……!」
何枚目かもわからない布が赤く染まった時、ようやく出血が治まってきた。叡智は救急箱から針を取り出して
「麻酔はない、我慢しろ」
そうして叡智はライトの服を脱がした。その先を見てエニグマとファントムは絶句する。胸の中心から腹の下まで一気に切り傷ができていたのだ。
「この傷……」
「……向きからして、胸からではなく腹から。つまり、これは、自分で……」
ごくり、と生唾を飲む。傷口を見ていると胸が苦しくなった。叡智は針に糸を通して、傷口に先端を当てる。
「縫うのか、それで……」
「仕方ないだろ。ライト、大丈夫だ、お前ならやれる。エニグマもファントムも傍に居るからな」
ぶす、と針が皮膚を貫通した瞬間、ライトの身体が浮いた。必死にエニグマとファントムはそれを止める。大丈夫、大丈夫だからと懸命に言葉をかける。ライトの悲痛な叫びが耳に入る度に、エニグマは顔を顰めた。自分まで痛くなってきた。その声が恐怖心を煽っていく。お願いだから死なないでくれ、そう言葉を紡ぎながら強くライトの身体を抱きしめた。
幾度も針を刺して、糸を通していく中、ライトは叫び疲れたのかいつのまにか眠るように気絶していた。痛みで悶えるよりはマシなのだろうが、もしかしたら本当に死んでしまったのではないかと思うと気が気でなかった。
「……傷は、塞がったな。なんとかなった」
「……生きてる、よな」
「あぁ、ちゃんと心臓は動いてる。でも絶対に動かすな、傷口が開くからな」
「姉さん……ライト姉さん……どうして……」
「………リストカット」
「リスト……カット?」
「自傷行為のひとつ。しかもこの傷の量……ライトはだいぶ抱え込んでいたみたいだ。手首を切ると脳内麻薬が生じて辛さが和らぐが、繰り返し行うと効き目が薄くなって、より深い傷を負うようになるんだ。しかも……」
叡智はペティナイフを見て
「ライト、かなり本気だったみたいだ。まず足首を見てくれ、心臓より下にある足首は手首を切るよりも死ぬ確率が高いんだ。実際、それで自殺をする人も居るんだよ。次に、腕。手首の動脈は深いところにあるから、カッターで横に切っただけじゃ出血多量で死ぬことはない。でも、このナイフくらいしっかりとしてて、思い切り縦に深く切れば……それに、出血多量による酸素欠乏で死んでいた可能性も十分にあった」
「…………」
「……あとは、家族の時間だ。任せるよ」
そうして叡智は立ち上がって、ゆっくりその場から去った。エニグマはライトの綺麗な身体に刻まれた傷に優しく触れる。
「さぞかし痛かっただろう……ごめんな……」
「ライト姉さん、身体冷たい……」
エニグマとファントムは顔を見合わせると、冷たいライトの身体に密着して暖めた。ぐすん、ぐすんとファントムは鼻を鳴らしてライトを抱きしめていた。
「…………ここは」
ライトは身体の激痛を感じながら目を覚ます。その場所はどこもかしこも白一色で味気ない。けれど、なんだか温かくて悪い気はしない。
「………あはは、私死んじゃったのかな」
それもそうか、あんなに自分の体を滅多刺しにしたのだから。いくら、普通の人間よりも身体が頑丈だからといって、死なないわけがないだろう。大方、失血で死んだってところか。
「……姉さん。私は、姉さんに迷惑かけるくらいなら、死んだ方が良いよね?」
わかってしまったんだ、これは欲。姉を自分だけのものにしたいという、クソみたいな独占欲。歯止めの効かなくなってしまったこの欲が、結果として貴方を傷つけてしまった。そんな私に、貴方に愛してもらう権利はない。
「……姉さん、大好きだよ……」
「ああ、私もお前が好きだ。ライト」
「…………、!?」
その声を、ライトはよく知っていた。振り返ると、そこに居たのは最愛の姉だった。
「な、なんでここに!?」
「ファントムに頼んで来た。それで、向こうに行けば死ねるのか?」
「……え?」
「お前すげぇな、あっちに行っても死ねるって保証ないのに。私だったら何が起こるかわからない場所になんて行かないね。まぁ死ねるって仮定して……どっちが先に死ねるか競争するか!!」
「ちょちょちょちょ!!」
ライトは走り出すエニグマを制止する。
「どうした? お前死にたいんじゃないのか?」
「な、え………止めないの?」
「説得してほしかったのか?」
「いや、その……そういうんじゃないけど……ね、姉さんが死ぬ必要はないじゃない」
「ならお前も死ぬ必要ないよな?」
「え、だって、私、姉さんのこと………」
「左目のことなら気にしなくて良いから。壊れても直せば良い。でもお前は違うだろ?」
「でも、だけど………ふぁ、ファントムはどうするのさ!? 姉さんまで死んじゃうとしたら!!」
「別にあいつ私のこと好きじゃないだろうし大丈夫じゃね? むしろお前が死んだ方が泣くと思うが。ていうか、それブーメランじゃねぇかよ。お前が死んだらファントムのことどうするんだよ」
「……でも私、死んだ方がいいんじゃ……」
「はー」
エニグマは大きく呼吸して
「お前が生まれてから、全てとにかくおかしくなった。外の世界なんか興味なかったのに、気づけばのめり込んでいた。変な食い物ばっかり勧めて、変な物ばっかり押し付けて、人の人生左右しといて……ふざけんな覚えてろこの野郎!!」
「う………」
「……なんてな。ほら、落ち着こう。姉さんならここに居るから」
そうしてエニグマは不慣れな笑みを浮かべ、ライトの頭を優しく撫でる。
「……私、は」
「うん」
「姉さんが、すき」
「うん」
「好きなんだよ……好きで仕方がないんだよ……好きすぎて、貴方と一緒に過ごした日々を何度思い返しても飽きなくて、それで、貴方が他の人と一緒に居ると胸が苦しくて、私以外と一緒にいてほしくなくて、こんなのだめなのに、私と貴方以外消えてしまえばいいとか、思っちゃいけないのに……!!」
「うん」
エニグマはライトを撫でながら、ただ相槌を繰り返す。
「誰も悪くないのに!! 私がいけないのに!! 勝手に周りに嫉妬して!! 挙げ句の果てには姉さんに八つ当たりして!! 自分が、大嫌いだ……」
気がつけば、大粒の涙がポロポロと溢れている。
「私は、姉さんの『特別』になりたいよ……私以外を好きにならないでよ……そのためなら、なんだって差し出すのに……」
それを聞いたエニグマは
「私は、お前が一番だよ」
「………え」
「……やっぱり、感情を表に出すのは難しいな。それでも伝えるべきだったか、こんなことになるくらいなら。お前の腕の傷を見た時、すごく胸が痛くなったんだ。自分が傷を負ってもどうでもいいのに、お前が傷を負ったらすごく嫌なんだ。自分勝手だよな。この世界は思っている以上に複雑で、生きていくだけで大変だっていうのに。最初は自分を生んだ世界に対する復讐で、私はお前達を造って、けれど争いごとを好まないお前は、愛情なんて教えてもらったことすらないのに、それが何かもわからないのに、お前は私にそれを教えて、結果がこれだ。私よりも愛想のあるお前は、私よりも世界に羽ばたく資格があった。外から帰ってきたお前はいつも私にそのことを親身に話してくれた。それがなければ私は世界に興味を持つことすらなかっただろう。だから、私はお前に感謝しているんだ。お前が居なければ、今の私は居なかったよ」
「………そっか、それが姉さんの答えなんだね」
「死にたくなるほど、姉さんのことが嫌いになったか?」
「姉さんのことを、嫌いになるわけがないじゃない」
「そうか、それが聞けてよかった。………あ、わり。叡智から伝書来たわ。……え何? あの団子屋今度新しいフレーバー出すだって? マジかよ!」
「うわぁ!?」
エニグマはライトの腕を掴んで
「死ぬのはまた今度だ団子食いに行くぞ!!」
「わかったからそんなに引っ張らないでよぉ!!」
「……まさか、ファントムに泣きながら怒られる日が来るとは思わなかった」
「傑作だったな、あの顔」
現実に戻ってきた二人。ファントムは目覚めたライトに気がつくと、ひどい悪態を吐きながら子供のように泣きじゃくった。結果として泣き疲れ、三人共々ベッドの上。
「本当に、困ったお嬢さん」
「あは、ごめん」
「もう寝よう。今日のことは寝て忘れた方がいい」
「そうだね。……おやすみ、姉さん。明日一緒にあのお店行こうね」
「ああ」
そうして二人は共に目を閉じる。厚い闇に閉ざされた空の上、月が冴えた光を放ちながら三人を見守っている。
明日はきっと、良い日になるよ。