呪縛
「ライト、飯だ。両手塞がってるから開けてくれ」
扉越しに聞こえた姉の声。ライトは素直にそれに応じて扉を開ける。その先に居たのはトレーを持ったエニグマの姿。トレーには二人分の朝食がのっていたが、並び方が不自然だった。ここにくる前にファントムの部屋に訪れて朝食を渡したのだろう。ご飯の時くらい部屋から出てくれば良いのに。
「まだ眠いのか」
トレーを机に置くと、エニグマはライトの頬に触れて視線を送る。
「もう少し寝るか」
「姉さんと一緒が良い」
「ほいほい」
優しく微笑みながら、エニグマはライトの手を引いてベッドまで誘導する。目の前に愛する姉が居る、それだけでライトは充分満足だった。
「ぎゅーしたい」
「いつもしてるだろうに」
エニグマはベッドに潜り込んで、仰向けになってライトを受け入れる。姉の決まったリズムを刻む心音と、温かさにライトは微睡みそうになった。
「……ご飯たべなきゃ」
「ダメだ。お前は可愛すぎる罪で私に抱かれているんだから」
朝食を食べようと起きあがろうとした時、エニグマが強く引き止めた。その行動に思わずどきり、と胸が弾む。自分の知っている姉の、知らない行動に振り回される。
「もう少ししたら、一緒に食おう」
少し低い姉の優しい声がする。その声を聞いて心の底から安らぎを感じる。ずっと、こうしていたいと思ってしまう。
「姉さん」
「うん」
優しく撫でられるように返事をされる。やっぱり、好きなんだ。そう思いながら、ライトはゆっくり姉の腕の中で意識を手放した。
―――――――――――――――――
「お前、また来たのかよ。お前にやる魚は無いってぇの」
その声で目が覚める。エニグマが窓に向かって何か喋っていた。その先に居たのはあの時の子猫。餌を強請りに来たらしい。
「私の朝飯ちょっとやるからそれ食ってとっとと帰れ」
「にゃあ」
エニグマはパンをひとちぎりして子猫に渡す。子猫はそれを咥えてどこかへ走り去っていった。
「………ん、なんだライト。起きてたのか」
「うん、よく寝た。先に食べてても良かったのに」
「一緒に食うと言っただろ。最初の一口はとられたがな。畜生め」
エニグマはトレーにのった朝食を手に取って、ライトの口元に移す。
「今日の飯は上手くできたんだぜ」
「……パンにチーズ挟んだだけじゃん」
「でもこのチーズのとろけ具合……あ、チーズ冷めちった……」
「ていうか姉さん、猫くさい」
「そんな嫌か」
「嫌じゃないけど」
「ライトにしかしないから安心しろ」
「何、私相手なら多少雑に扱ってもいいって思ってるの?」
珍しく軽口を叩いて笑う。姉と一緒に居るのは大好きだ。それは、姉も一緒なのだろうか。その想いは、同じなのだろうか。
「お前の前なら、ありのままで居られるってだけさ」
「……え?」
「何も言ってない、美味いか?」
口元に移されたままのパンをライトはもぐもぐと咀嚼し、飲み込む。しばらく唸って放った言葉は
「やっぱり、猫くさいな」
「はは、そうなのか」
「……なんでそんなに嬉しそうなの」
「なんでだろうな」
首を傾げるライトを前に、エニグマは惚けた返事をした。
―――――――――――――――――
「どうしたのライト姉さん」
「あー………」
ぼけーっとしているライトの横から投げられたファントムの声。安否を確認しているように見えるが、その声色には全く相手を心配するようなものは含まれていない。事実、ファントムは心配していない。重要なことではないのは本当だが、あの時聞き取れなかった姉の言葉が妙に気になって仕方がない。
「……負けた気がする」
「エニグマ姉さんに?」
「うん」
「朝からリア充オーラ出さないでくれないかな」
「でも、大好きなんだよ。大好きなのが、止められないんだよ」
「あーはいはい、そうだったね」
ファントムは呆れた感じに返事をする。ライトはファントムの表情を見た、どことなく困っているようだった。
「……何か言いたいことがあるんじゃない?」
「いや、ないよ」
「本当に?」
「そう……だね………いや、大したことじゃないとは思うけどさ……ただエニグマ姉さんさっき出かけていったなって」
その言葉を聞いたライトは、なぜかはわからないが、焦燥感に駆られた。
「姉さんが何処に行ったかわかる?」
「え? えっとね……」
――――――――――――――――――
「エニグマー、私の奢りで良いから何かおやつでも食べようぜー」
窓から聞こえたのは、黄泉 叡智の声。エニグマは窓を開けてそこから外に出る。
「玄関通れば良いのに」
「面倒」
「いやすぐ隣じゃん」
「で、何を食うって?」
「そうだなぁ………あ、しらたまでも食べよう」
「お、良いな」
初めて見た姉の姿は、虚無という言葉そのものだった。本当に、本当に、この世界全てに興味がない者のそれだった。だから、私達を造ったのは、たんなる気まぐれに過ぎないのだろう。それでも、感謝しているんだ。造ってくれたおかげで、こんなに楽しいことがこの世界にあるんだって、そのきっかけを作ったのは姉さんなんだよ。
だから、姉さんに恩返ししたくて、貴方に笑ってほしくて、貴方と一緒に外の世界を見たくて、貴方を外に連れ出した。最初は何も反応してくれなかったけど、徐々に興味を示してくれて、いつのまにか笑うようになってくれて、それがどれほど嬉しかったか。あの時一緒に食べたしらたまも、美味しそうに口に入れてたよね。
いつのまにか私は貴方に酔っていたんだ。
だから、その笑顔は私だけのものだと思っていたんだ。
(……そうか、もう私だけに見せてくれるわけじゃなくなったんだね)
――――――――――――――――――
「おかえりなさい」
「うぉ、いつにも増して速いな」
エニグマが帰ってきた瞬間、ライトはエニグマの手首を掴む。
「姉さん、早く、部屋に来て」
「あ? 蜚蠊は?」
「ファントムになんとかしてもらったから」
「うぁぁ、わかったからそんなに引っ張るなよぉ」
部屋に着いた後、ベッドに座るように促す。エニグマはそれに素直に従うと、ライトはエニグマに馬乗りになるように上に乗った。姉を見下ろすような体勢をとっても、姉は首を傾げるだけだった。
「…………」
熱のこもったライトの視線がエニグマを貫く。しばらくエニグマは考えて、ああそうか、と答えにたどりつく。
「鈍感ですまない」
エニグマはライトの口に優しくキスをする。それだけでも充分だったが、まだ足りないと言った風にライトはエニグマの口の中に舌を入れ込んだ。突然のことだったのでエニグマはぅ、と声を漏らす。がっつくようにキスをするので、歯が当たって少し痛い。妹の舌は溶けて消えてしまいそうな柔らかさだった。それに加えてほんのりと甘い、その甘さが舌に深く染み込んでいく。舌の先で転がすようにそれを味わう。舌でなぞって、絡ませて、より深く、深くへと。
「……は」
すっかり息はあがっていた。ライトが口を離すとお互いの舌の先に涎の橋がかかっている。
「姉さん」
「ああ」
「私ね、姉さんとそういうことしたいの」
「…………」
まだ十年も生きていないが、ライトが放ったその言葉を理解できないほど、エニグマは幼くなかった。だが、それは、あまりにも
「………唐突だな」
「唐突? そうかな、私は姉さんにずっとアプローチしてたつもりだけど」
「そうか、鈍感ですまない」
ライトの耳に湿った舌の感触が伝わり、くすぐったさとはまた別の感覚が身体を走った。
「姉さん、やっぱり私は姉さんが欲しい」
「……ライト、それが何を意味するのかわかってるのか?」
「それはこっちのセリフだよ」
「そんなことがわからないほど、私は幼くはない。できないことはない、だが」
「じゃあ何も問題ないでしょう? 私はもう待てないんだよ」
「ああ、何も問題はない。私が良くて、お前が良いのなら……しかし、そんな簡単に決めつけて良いのか? 選択の余地くらい残しておいた方が良いだろう」
選択の余地、その言葉をライトが理解した途端、目の前が真っ赤になる。
「私が、今更姉さん以外の人を選ぶとでも!?」
ライトの珍しい怒号に、たまらずエニグマは怯んでしまった。悲しみと怒りで顔が赤くなっている。まるで自分を縛りつけるような、いや、今思えばそんなのは今に始まった話ではないのだが、言葉にするならば、負の感情を煮詰めて煮詰めて、煮詰めまくったような、思わず反吐が出そうな黒い感情を感じた。
やけに彼女は『必死』だった。
「すまない、今のは失言だった。お前がそうしたいなら、私は何も言わない。……だが、私達は結婚したわけじゃない。それに人間の結婚は、もう一生離れないと保証できるものではない」
「………じゃあいいよ、勝手にするから」
「………ライト!!」
突然、エニグマがライトの行動を力づくで止めた。さっきまで何も抵抗してこなかったのに。
「………ライト、この傷は」
エニグマはライトの手首に刻まれていた傷を見てそう言った。この傷は、見覚えがない。そもそも、妹の身体に傷がつくようなことは、エニグマ自体が避けていた。
「………包丁で怪我しちゃっただけだよ」
「だが、これは、あまりにも」
「何度も失敗しちゃっただけだよ。それだけだから」
「……………あぁ、くそ。頼むからそんな顔をしないでくれ」
「……………」
「ライト、今日は……いや、最近様子が変だ。いつものお前はこんなことしないじゃないか」
「……………」
ようやく、ライトは口を開く。
「………姉さんが悪いんじゃん」
「………え?」
次の瞬間、ライトはエニグマの首を絞めた。エニグマがえずく。その力は普段の妹からは考えられないほど強くて、視界が歪んで、妹の表情がよく見えなくなる。
「姉さん、どうやったら姉さんは私だけのものになってくれるの?」
「?」
わけがわからない、といった表情しかエニグマはできない。
「ならもうさ………私だけのものって印つければ……誰も姉さんに近づかないよね?」
「ライ……いったいなにをいって―――」
バキッ
次の瞬間、ガラスがひび割れる音がした。エニグマの左目に小さなナイフが刺さっていたのだ。血は流れなかったが、鋭い痛みがじわじわと這い上がってきて、たまらず顔を顰める。痛みが視神経を伝わって、脳にまで響いてくる。
「…………!?」
「………?」
「な、なんで、なんで避けなかったの」
どうやら、想定外だったようだ。確かに、エニグマならこんな攻撃は容易く避けられるはずだ。こんな、一直線で子供染みた攻撃なんてものは。
「……さぁ、なぜか、避けてはいけない気がして」
「………あ、ぅあ」
「ライト?」
「ごめんなさい……ちがうの、そういうんじゃなくて、なんで、あぇ、ねえさんをくるしめたいわけじゃなかったのに……」
「………」
「ねえさんやだよ……おいていかないでよ……いたくしてもいいから、なにしてもいいから、そばにいさせてよ……」
知らない恐怖に支配されたような顔で、泣きながらライトはそう言った。
「っ………」
そんな妹を見て、エニグマは心臓が握りつぶされたような感覚に陥った。慌てて妹から距離をとる。震える妹を懸命に宥めながら、布団を被せて
「今は、落ち着いた方がいい」
「ねえさん……あ、うあ」
「大丈夫だから。だから……今はおやすみ?」
妹の過呼吸がだんだんリズムを取り戻していく。泣き疲れたのか、安堵したのかはわからないが、ライトはそのまま眠りについた。
ライトのあの表情が反芻される。エニグマは胸の中心を握りしめて必死に苦痛に耐える。もはや左目の痛みなんてどうでもよかった。いっそのこと、胸を引き裂いて心臓をもぎ取ってしまいたいほどに、嘔吐してしまいたいほどに、胸が苦しかった。