唯と真奈
「宗田さん!」
斎藤 宗田はアドゥルバへと向かって駆け出した。神崎 唯が彼の名を叫ぶ。
止めようと手を伸ばしたが、空を切り何もない空中を握りしめた。
呆然と彼の背中を見やり、空虚を握った手を胸の前に引き戻すと、下唇を噛んで感情の波に飲み込まれないように必死に耐える。
「追いかけないと……」
きつく結んだ唇をほどく。グールの声がした。
「ご、ご、ご、ごはんっ!」
アドゥルバの背後にいた、眷属の一体が彼女へと襲いかかってきた。
「どいてっ!」
叫ぶ彼女はハンマーの持ち手を強く握り、振りかぶった。杭打ちハンマーの長い持ち手部分、その一番端の部分を持って体を捻る。
限界まで体を振り絞る。目一杯まで振り絞られた弓のようにそれが解き放たれると、それは大砲の玉へと変わった。自分の行く手を阻む障害物が目前に迫ると、それを解き放つ。
怒りを上乗せした破壊の塊はそいつの左肩の部分へと直撃する。
これが普通の人間ならグールを吹き飛ばすくらいは出来ただろうが……生々しくない。彼女の一撃は。
直撃した瞬間、噴水から飛び出た水が地面にぶつかる時のような、水気を帯びた音がした。
上半身を失ったグールはその事に気づいていないかのように、トテトテと数歩あるいて彼女の前で倒れる。
鮮血に染まった彼女の表情は、それでも怒りが収まらず犬歯をむき出しに歯を食いしばっていた。
「まるでゴリラね」
塚本 真奈が毒を吐く。
唯はその場で首を回して真奈を見る。
ノスフェラトゥの如く血走った目で真奈を睨みつけた。鮮血で染まった彼女の姿はまさに吸血鬼。だけど、真奈は恐れることなく鼻で笑う。
「あら? よそ見してていいのかしら」
唯の横に並んだ彼女は、右手にバットを持ち左手で目にかかった髪を払いのけながらそう言った。
ギリギリと湧き上がる怒りを奥底に押し込めると、真奈が向けている視線の先をなぞる。
おびただしい数のグールの群れがこちらに向かって来ていた。あっという間に二人を取り囲む。
多少の知能はあるのか、一定の距離から近づこうとしない。
ただ、ぐるっと取り囲まれた事で宗田の姿が見えなると、心配そうに唯は唇をきっと結んだ。
「……宗田さん」
小さい声で彼の名前を呼ぶ。それを聞いた真奈は、
「あなたはそうやって宗君の名前を呼ぶしか出来ないの?」
二人の相性は火と油の如く、相性は最悪。
「さっきから何なのよっ! ごちゃごちゃとうるさいわねっ!」
火の役割を果たした真奈は、簡単に唯を燃やした。烈火の如く燃え上がる唯は、目だけを動かすと真奈をギロリと睨んだ。ちらりと唯を真奈が横目で見ると肩を竦めて、ため息をついた。
「そんなに宗君が信じれない?」
真奈が呟くようにそう言った。対して唯の怒りは限界に達しようとしていた。
肩を小さく震わせ、目を大きく見開いて、獰猛な獣のように歯をむき出しに、唯の敵意は真奈へと向かった。
「まあ……いいわ。ほら、そろそろ来るわよ」
この状況下で呆れるほど冷静な真奈は、視線を唯から外すと、群から外れて前に出た一体のグールへと移す。
頭に血が昇り、火照りきった唯。けど、彼女とて、ここで喧嘩を続けるほど馬鹿じゃない。
即座にグールへと視線を向き直す。
「い、い、い、ただきーまーすっ!」
すると前に出たそいつが、辺りに涎を撒き散らしなが飛びかかってきた。
反応が遅れた唯に対して真奈が一歩前に出る。
「ごめんなさいね。まだ食べ頃じゃないのよ」
謝罪を述べる。そして、目を瞑り細く息を吐く。
「――透き通る氷は刃となり敵を切り裂く。氷の刃」
紫苑が真奈を魔術師と言っていた。
魔法とは違う概念のもと、神秘を行使する。
目を閉じて意識を集中した真奈は、魔術を行使するために呪文を紡いだ。
すると、武器として愛用していた鉄色のバットへと幾何学模様の魔法陣が出現する。歯車のような模様、真円のように螺旋を描く模様、三日月形の模様、それが青い光を放って生き物のようにその中を泳いでいる。そして、彼女が詠唱を終えるとその動きはピシャリと停止した。
いっそう激しい光が放たれる。それを横目で見ていた唯は眩しそうに目を細く伸ばした。
「ごめんなさいね」
食らいつこうと手を伸ばすグールに、再び謝罪の言葉を述べた。
「ギッ……?」
突然と勢いを殺されたグールが首を傾げる。
自分に起きた事が理解出来てない様子。グールは真奈がだらりと下げた、右手にある凶器が目に映った。
――あれ? その赤い液体は……何?
「ごめんなさい」
三度謝罪した彼女は右手に持ったバットを軽く振るう。コンクリートの地面に水滴が飛び散った。
赤く斑尾模様に染められた地面を見てグールは気づいた。
――斬られた。
いつ斬られたか分からない。ただ、自分はもう助からないと言うことだけは理解出来たようで、恐れおののくように数歩さがると、その体が縦に半分に別れ、こと切れた。
「凄い……」
唯は小さく声を漏らした。自信が揺らぐ。
自分は強い、それこそグールなど相手にならない。最強とは言わなくても、かなり強い筈だと。最近の宗田との生活で比較対象がいない唯にとってはそれが全てだった。自信が傲りへと変わり、唯を傲慢と言う分厚いガラスで覆っていた。
それを真奈がいとも簡単にひびを入れる。
真奈がバットを振るった瞬間がまったく見えなかった。少しだけだが、線が下から上に走ったのが分かったくらい。気づいたらグールを真っ二つにしていた。
唯は今も驚愕に目を見開いて悠然と立っている彼女の姿から目を離せないでいる。
そんな彼女に気づいた真奈はちらりと見ると笑みを浮かべる。
今もバットからグールの血が滴り落ちている。
真奈が発動した魔術は氷属性。それをバットに纏わせるようすると、金属の棒が剣の形へと姿を変えた。
――氷の剣。
持ち手部分がバットのままなのがシュールだったが、切れ味はさっきのグールを見てもらえば分かる。それを、虫を手で払うように軽く下から上に振り抜き、グールを屠った。
「グルアガァァッ!」
一体のグールが突然吼えた。
首をかがげ死んだグールを弔うように、天に向かって吼える。悲しいのか、怒りなのか……それが他のグールにも波及すると一斉に吼えた。
哀悼の意を捧げると共に、無念をはらすと決意するように、泣き叫ぶように、ひとしきり吼えたそいつらはゆっくりと顔を下ろす。
幾百の眼が彼女達を捉えると、一斉に襲いかかった。