幻聴?
「全然……物足りない」
悲しそうにお腹をさすりながら、食べ終えた缶詰めを物欲しそうな目で見ている。
大の大人がたかだか缶詰め一つは腹の虫を抑えるには足りなすぎたようだ。
きれいにみかんの汁まで飲み終えた空の缶を指でつんつんとつついて、唸る彼女に苦笑いをこぼしながらそっとゴミの袋へと片付ける。
「あっ……」
「まあまあ」と言いながら彼女を宥めたが、そのまま顔だけをテーブルに突っ伏してしまった。
ゴミを片付けて部屋に戻ってもその状態のまま。頭の天辺を指でグリグリと押してやるとやっと顔を上げた。
「辞めてくださいよー」
恨めしそうにこっちを見た彼女の顔をよく見ると、少し頬がやつれてるように見える。
あまりまともに食べ物を食べてなかったのだから、早くお腹いっぱい食べさせてあげたいものだ。
「そんな顔しないの……仕方ないなー。早いけど行こうか?」
「行く!」
元気があってよろしい。
やつれ顔以外は本当に大丈夫みたいだな。強いて言えばお腹の虫がたまに暴れるのだろう。
たまにお腹を押さえる姿を見て、そんな事を思いながら準備を開始した。
何を持って行ったらいいんだろうか?
「あー、包丁か。すぐに折れそうだけど一応持っていこう」
手に持つ鉄製の包丁。刃の側面部分には銘柄が書いてある――「孫八」
名前が格好いいからと3000円くらいで購入したそれは、若干だが刃こぼれはあるものの今も現役で使用している。
ここに住んでからずっと使用している相棒ではあるが、ゾンビ相手には些か心許ない。
頑丈だが、人間の頭蓋を突破するのには何度も刃先を突き立てないと無理だろうな。
……まぁ、持ってくだけ持っていこうか。適当なタオルに包めばいいよな。
他には水とポーションも持って行こう。
500mlが5本。
内2本はポーションだ。
体力回復をイメージしたのではなく、今度は傷の回復と魔力の回復をイメージして魔法で出した。
「こんなもんかな?」
持ちすぎても動きに支障をきたしそうだし、遠くまで行くつもりもないからいいかな。
さてと、唯の方は準備できたかな?
「あ、終わりましたよー」
視線が合うと、俺の考えを読み取った彼女は何も言わなくても準備が出来た事を告げてきた。
横には薄いピンク色のリュックが置いてあり、中身が詰まってない事でしおれて唯に寄りかかっていた。
「唯は何を持ってく感じ?」
「タオルとか包帯ですかね? むしろ、何を持っていったらいいか分からないんで、荷物は出来る限り少なくしました」
それなら、水を少し持ってもらうか。
「じゃぁ、これもお願い」
普通の水の入った2つのペットボトルを渡して彼女は素直に受け取った。
リュックのチャックを開いてそれをしまう。
それでもかなりのスペースが開いているのか、まだ萎んだその形は治らない。
「あの……宗田さん……ちょっとだけいいですか?」
胸の内側にあるピンクのリュックをぎゅっと抱き締めて、不安な何かを堪えるように深刻な表情をしていた。
「……どうしたの?」
そっと彼女の近くに腰を下ろして、真っ直ぐに彼女を見る。
「私…………その……あの……」
しどろもどろとするその姿に、少しだけ不安を覚えてしまいそうになる。
下唇を噛んで何やら考え込む彼女は、時間をおいて言葉を発した。
「………………声が……誰か分からない声が聞こえるんです」
少し俯きかげんでチラチラと俺の様子を伺う姿から、ふざけて言ってる訳じゃない事は分かった。
あまりにも唐突にそう言われて俺もどう反応していいのか分からない。
これが、ただの幻聴であれば彼女の精神状態はかなり危ういんじゃないかと思う。
やっぱり今日は一人で行くべきだろうか?
「えっ! そう言う事じゃないんで、連れてかないとか辞めてよっ!」
その事が表情に出ていたのか、慌てた様子で身を乗り出した。
「本当に違うんです……」
体勢を戻すと、体育座りのような格好をして自分の太ももに両手を回して抱え込む。
そこに顔をうずめてしまった彼女。
「信じてもらえるか分かりませんが、最初はあの白い奴が襲ってくる時に聞こえたんです。
———危ない、逃げて、そう何度も訴えてきました」
ポツリポツリと静かに話し始める。
「でも、あの屋上に逃げ道はない。
だから、それは無理だよと答えたらその声が———『その男を囮にしろ』と確かにそう言ったんです」
だからあのマンションの屋上での一件の時、何か叫んでたのか?
話を遮らないように俺は静かにその話に耳を傾けた。
「もちろん私はそれを拒否しました。
そして、その後も時々声が聞こえるんですよね……私、頭おかしくなっちゃったんですかね?」
世界がこんな風にならなかったら、「おかしい」か「おかしくないか」と言えば前者だ。
今にも泣き出しそうな彼女にそんな事は言えない。ただ、魔法やレベルアップと言った現象が現実になった今、それを精神的に病んでいると決めるのは尚早じゃなかと思う。
「ちなみに、俺が居ない間はなんて言ってたんだ?」
「あの人は生きているよ。大丈夫、大丈夫って励ましてくれていました。
あの時、囮にしろって言ったのになんか無責任ですよね」
でも、俺はこうして無事だった。
それに遠くの状況を把握しているとなると……唯と俺との時間のズレに関係しているんじゃないかと思う。
「それにさっきお風呂に入っている時も、良かったねって言ってくれて……
ありがとうって答えたら、『どういたしまして』って返事が返ってきたんです」
彼女は話を続ける。
「私、どうしたんでしょう? 正直怖くて、せっかく宗田さんが無事帰って来て嬉しいのに」
「……そうか。あー、その声は特に唯に害はないんだろ?」
「はい……むしろ、逃げている間もゾンビの居場所を教えてくれる等、助けてくれました」
声の正体は分からない。
でも、それが幻聴だとしても唯を助けた事は事実だ。それを考えると彼女の味方である事は間違いないと思う。
「なら、今はそれでいいんじゃないか?」
そっと頭を撫でると、目だけ出ていた顔を完全に膝の中へとうずめてしまう。
「えっ? でも、幻聴かもしれませんよ? おかしくなったんですよ?」
「俺は違うと思うぞ。
だって、幻聴がゾンビの居場所を当てられるのか? それに、もし一か月の間精神状態が不安定だったとしてあの白い化け物との戦いの時に声が聞こえるのもおかしいだろう? まぁ、元から頭がおかしい線もあるが……」
「おかしいとか失礼だよ!」
ガバッと顔を上げで抗議する彼女の目尻には、少し涙が溜まっていた。もう少しで決壊する寸前を踏みとどまり、今はフグのようにぷくぷくと膨らんでいた。
指でつつくと、ぷしゅーっと空気が抜けて元に戻る彼女の姿に笑みがこぼれる。
「正直その声が何だかは分からないけど、唯を守ってくれている事は確か。
なら、もっと話してみてもいいかもよ?」
「話ですか……分かりました。
また、声が聞こえたらそうしてみます」
もしかしたら、この世界で生きるための手助けをしてくれるかもしれないしな。
「あぁ、こんな世界になったんだ。
そう言うのがあっても不思議じゃないだろうからな。きっと悪い事じゃないさ」
「はい!」と元気に返事をしながら、落ちそうになっていた目元の雨を手で拭う。
「さて、唯。そろそろ行こうか」
「はい。行きましょう。ご飯を求めて」
手を差し伸ばすと、それを取って起き上がった。