つかの間の休息
「う……ぐっ……」
落ち着くまで神崎さんを抱きしめていた。何度もしゃくりあげ、声を漏らして泣いている彼女の背中をそっと撫でる。蒸す部屋の中で密着しているせいで、むせかえりそうな、濃厚な香が鼻の奥にひりつく。決して良い匂いとは言えない、けれど人間の本能部分を刺激する毒のように心を犯していく。
「……もう……大丈夫です。すいませんでした」
どれくらいそうしていただろうか? 時間は分からない、けれど結構な時間だったと思う。密着していた部分が汗をかき、彼女が離れようとした事で起きた風が、ひときわ濃厚な香りを運んでくる。そっと服を掴んだ手を離し彼女が離れた時、少しだ名残惜しく感じられた。
きっと、媚薬のような香りが俺の神経をおかしくかき回した事が原因だろう、とそう自分に言い聞かせ、その気持ちを心の奥底に押しやった。
「あの……宗田さん」
泣いたせいで腫れてしまった彼女のまぶた。鼻の先は赤く染まり、まだ鼻をすすっている。かすれた声で俺の名前を呼ばれ「なに?」と返事を返した。
「私も……外に連れて行ってください」
顔を伏せた彼女が自分も外に行きたいと伝えてくる。落ち着きがなく手をそわそわと動かし、時折こちらを伺うように視線を向けてくる。
「……分かったよ」
結局のところ俺が折れた。後ろめたさが勝ったのだ。
「あの、ありがとうございますっ!」
許可を貰えた神崎さんは顔を上げると、嬉しそうに顔を綻ばせる。ただ、俺としては本当に良かったのだろうかと言う迷いもあるが、結局は遅かれ早かれこうなっていただろうと自分に言い聞かせ、納得する事にした。
「宗田さん、おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
時刻は暁の頃。薄青く空が染まり始めたくらいだ。完全に起床するにはまだ早いだろうと、もう一度眠る事にした。
テーブルを挟んで反対側にいる彼女からは、規則正しい呼吸音が聞こえてくる。ちゃんと寝れたようで安心すると、俺も目を閉じた。
――――。
寝れない。レベルアップの影響なのだろうか、精神的な疲労はあるが、体が眠る事を拒否している。仕方なしと薄く目を開ける。頭上にある窓のカーテンの隙間から夜明けの時の独特な青黒い色の明かりが見える。
こうしてぼーっとしているのも暇すぎる。薄暗い部屋の中を目だけで散歩するが、見慣れた天井ではすぐに飽きてしまった。魔力操作の練習でもしようかと、もう一度目を瞑って意識を集中する事にした。
――熱い。意識を集中すると数分くらいで胸辺りが熱を持つ異物が現れた。体に突如現れた異物に体が拒絶反応を示すように不快感を感じると、思わず体をよじってしまいそうになった。例えるなら痒くなった部分をかかないように堪えているあのもどかしさ。ただ、それをしてしまうとすぐに消えてしまうため、衝動的に動かないように我慢する。
ゆっくり、亀が動くよりも更に遅く慎重に移動させる。最初は右の腕、次は右の足、と反時計回りに体の中を移動させた。
――これで三週目。もう一度行くかと思った矢先に、
「ふあー……まだ寝てますか?」
横から布が擦れるような音がした。意識が逸れると、魔力は体の中に溶けるように四散する。目を覚ました神崎さんが俺に声をかけてきたのだ。いつの間にかかなりの時間が立っていたのだろう。カーテンの隙間から見えた外は、日が上がりきり明るくなっていた。
「起きてるよ。おはよう」
結局一睡も出来なかったが仕方ないだろう。神崎さんに挨拶を返すと、じっとしていた事で凝り固まった体をほぐすよう背伸びをする。
「あ、起きてた。おはようございます」
少し腫れた瞼が重そうだったが、落ち着きを取り戻した彼女は笑顔で朝の挨拶をしてきた。
「寝れましたか?」
「寝れたよ。神崎さんもちゃんと寝れた?」
彼女に無駄な心配をかけまいと嘘をついた。それに、一睡もしていないが睡眠欲と言ったものは一切感じず、体は調子がいいのだ。
神崎さんは「寝れましたよ」と返事が返ってくると、それに対して「良かった」と返した。
「うーー、絶対目が腫れてる……
あんまりこっちを見ないでくださいね」
目が腫れているのを気にする彼女は、俺に見えないようにと横に顔を反らしてしまう。重たくなってしまったのは俺が原因なのだが……何かしてあげれないかと考えを巡らせた。
冷やすには……冷たい氷か水が必要だよな。ならば少し試してみよう。
——イメージは溶けた雪。
——それは涙のように氷の間を流れ。
——冷たく冷やされる。
——冷水。
魔法を行使すべくイメージを固めた。手に持つペットボトルへと、水を注ぐとその表面が白く濁る。成功した……。イメージ通りの冷たく冷えた水がペットボトルの中を満たす。
「じゃあ、これで冷やして」
「わっ、冷たい! これ、どうしたんですか?」
「水の魔法を使ったんだよ」
「そんな事も出来るんですね! 凄いですね」
貰ったペットボトルを瞼に当てて、少し上を向きながら話す神崎さんの姿は何んともシュールである。
「イメージ通りになって良かったよ。ただ、思うように行き過ぎて怖いんだけどね……」
あまりに上手く行き過ぎるのに少しだけ不安な気持ちとなる。何か裏があるんじゃないかと勘ぐってしまうが、今のところは何も起きていない。あるとすれば昨日のレベルアップの影響で体がズタボロになったくらいだろう。
あれは痛かった……。どれくらい連続で上がったんだろうか? 十くらいは上がったと思うんだが。
「魔法……便利ですねー。と言うことはもしかしてお風呂も?」
「出来るよ。昨日いろいろあってレベルも凄い上がったからさ」
「いろいろと言う部分は気になりますが……お風呂に入れるなら嬉しいですね。でも、現実世界でレベルアップするなんて、なんかゲームみたい。そんなに変わるんですか?」
「そうだなー。力が上がった事と魔力の量が増えた事はすぐに実感できたかな」
「凄い! 私もレベルアップしてみたいです!」とはしゃぐ彼女であったが、レベルを上げるのは単純な事じゃないんだよな、と初めてゾンビを殺した時の事を思い出した。
生腐った肉が発する甘く、鼻の奥にまとわりつくような吐き気をもよおす臭い。骨を砕き、肉を潰す感触に、血の臭い。今もその感触は俺の手に、心にしっかりと残っている。ゲームでは絶対に感じられない、五感を刺激する感覚に彼女が耐えれるのだろうかと思った。だけど、いつかは通らなくては行けない、
「まあ、確かに神崎さんもある程度レベルを上げておいた方がいいかな……。俺としてもそっちの方が安心だし」
「ふふーん。宗田さんなんてすぐに追い抜かしますからね!」
何故か勝ち誇った彼女に苦笑する。その自信が本当に続くかは実際な体験してみないと分からないだろう。
「じゃあ、今日の夜にでも外に行ってみようか」
「えっ!? いいんですか?」
良いも悪いも、遅かれ早かれ経験する事になる。不安になる材料も出来る限り無くしておきたいと言うのも本音なのだが……「もちろん」と彼女に返し、もう一つだけ条件を付け加える事にした。
「これからは敬語はなしで」
「え? それはなんでですか?」
「咄嗟の時に敬語だと、指示を出すのに時間がかかるだろ?」
「なるほど……それなら宗田さんも私の事は”唯”って呼んでくださいね? 神崎さんだと長いですからね」
え? それは想定してなかったな。いいんだけど、改めて名前で呼ぶのは恥ずかしい。分かったと返事を返したが、彼女の瞳には疑いと言う言葉が浮かんでいる。
「怪しいですねー……ちょっと下の名前で呼んでもらえます?」
「別に今じゃなくていいだろ?」
だが、拒否する! なんか改めてそう言われると呼びたくない。
「いいですから、早くお願いします」
しつこい彼女に結局は折れた。
「……分かったよ——唯」
「はい、呼びました?」
恥ずかしそうにしている俺に対して、ニマニマと悪戯な笑みを浮かべる……覚えてろよ。
「なあ、もういいだろ?」
「仕方ないですねー。それにしても改めて下の名前で呼ばれるのはいいですね」
満足そうな神崎……じゃなくて唯。
「じゃあ、私も敬語辞めたいけど……最初は敬語交じりになるのは許してね?」
まぁ、それはしょうがない。