アメンボ
「もう、逃げられませんからね~」
ふわふわと捉えどころがない彼女だが、最初に出会った時と違う部分があった。多眼がぎょろりと、俺達を見つめる奥底に殺意の感情が明確に込められている。まるで、蛇に睨まれた蛙のように彫像となった俺達は彼女の事を見てる事しかできなかった。
「物凄く……痛かったんですからね~。もう、怒りましたよ。ぷんぷん」
物凄くを強調し、あざとくらしく可愛いく、自分の怒りを表現した彼女。普通の人間の頃ならいざ知らず、悪鬼のような姿となった今となっては不気味さはあれど、可愛さなんて存在しない。
それに俺達は最早、死刑台に乗った死刑囚。彼女がボタンを押せばいつでも執行できるのだ。そんな状態では、例え絶世の美女が相手でも変な気が起きるはずもない。
「ふふふ。もう少し待ってくださいね~」
彼女は笑う。
「少しだけ、確実に殺せるようにパワーアップします。今度は逃がしませんよ」
おもむろに、彼女の周囲に集まり出したゾンビを、背中から昆虫のように細くて長い八本の腕で喉元を掴み持ち上げた。次々にゾンビは彼女に捕獲され、八本の手の中にはゾンビが収められている。もがくゾンビ。だけも、彼女の腕はピクリとも動かない。
「――合成」
彼女は小さく呟いた。バキボキと少し太い木の枝が折れる音。ゴリゴリとゴマをするような音。ぐちゃぐちゃと肉をこねる音。
八本の腕は肉塊を一つにまとめるようにこねくり回す。そうして、一つとなった巨大な肉団子が完全する。
「いただきます~。――吸収」
出された料理を食べ始めるかのように、人間の方の手で合唱をするように手を合わせてお辞儀した。
「おいおい。あれはなんだよ……」
晃は戸惑いの声を上げる。そう言う俺は声すら出ず、ただ見ている事しか出来なかった。
彼女の頭から縦に筋が入ると、花の蕾から花が咲くかの如く裂けた。肋骨が変容し、鋭い歯のように分裂する。ぬるりと赤い液体が唾液のように垂れ、赤紫色の舌ニョロリとネクタイのように伸びてきた。
完全な化け物となり果てた彼女は、長く分厚い舌で肉塊をなぞるように這わせると、その一部をか舐めとる。
「キィィィイイイッッ!」
黒板を引っ掻くような甲高い音が、彼女から発せられる。それは、歓喜を感じさせる色が多分に含まれ、女性が美味しさのあまり興奮している様を彷彿とさせた。
俺と晃は唖然とその光景を眺めているしかない。今のうちに逃げるなり、なんなりすればいいのにそれすら出来ないほど、彼女から発せられる狂気の色に飲み込まれた。指一つ動かせず、彼女がゾンビ肉を咀嚼する光景を見ていた。
「モット――ホシイ」
肉塊が彼女の胃袋に押し込められると、片言の日本語でおかわりを要求する。よたよたと赤子のように動き出した彼女は、アンバランスな容姿に態勢を崩し倒れそうになった。それを背中の八本の腕で支えると、昆虫、特にバッタやアメンボを彷彿とさせる姿となる。
「ヒ……アヒヒヒヒッ!」
彼女の目がカメレオンのようにギョロギョロと回り出し、おぞましく、けたたましい笑い声を上げた。それは最早、人としての原形を留めていない。体も心もゾンビより醜悪な化け物となってしまったようである。
「ア……アァ、ゥァアアア」
数体のゾンビが彼女に近づいてくる。ただ、ゾンビは彼女を攻撃する事もなく、目の前で呆然と佇むだけ。ある一定の距離は近づこうとも、攻撃しようともしなかった。
「ヒヒヒヒヒッ! キュウ……シュウ」
変態前の彼女の可愛らしい声色は、薄汚く、ざらざらとした声色。その声で、カタコトの日本語で話す。吸収の言葉を合図に、のっそりとしていた動きが、獲物を見つけた擬態した虫のように俊敏に動きだす。
「おい……逃げるぞ」
肩に乗っている晃の声は震えていた。佐川 葵は近くに寄ってきたゾンビを鷲掴みにすると、エビを食べるかの如く口に放り込んで咀嚼した。あっという間に近くに居たゾンビは姿を消す。それでも足りなかったのか、少し離れた位置にいたゾンビを見た彼女は、ねっとりとした唾液を垂らしながらその場から飛んだ。
まるでバッタが飛び跳ねるように、跳躍した彼女はゾンビの真上に着地するとそのまま貪り食う。そして、八本の腕は逃がすまいと他のゾンビを捕らえている。
「おい! 宗田! 早く動けっ!」
鋭い痛みが肩に走った。晃があの尖った足で俺を刺したのだろうと想像はつく。その痛みで我に返った俺はちらりと彼を見ると小さく頷いた。
気づかれないように、そっと右足を後ろに半歩下げた。彼女とは数十メートル離れている。音を立てなければ、ばれないだろうと思ったのだが……
――見ているぞ。
離れた彼女と目があった気がしたのだ。いや、気のせいだったかもしれない。だけど、間違いなく彼女はこちらの行動を把握している。言い知れぬプレッシャーは俺の心臓を鷲掴みにし、動くなと警報を鳴らしていた。
汗が玉となり頬を伝って服を濡らす。何百トンもある車を乗せられような重圧は俺の心を折りにくる。
「あ……晃」
振り絞る声は震えていた。どうにか彼だけでも、逃がしたい。
「お前だけでも……逃げろ」
そう意思を伝えたが、彼はそれを拒否した。
「馬鹿……言うな。あいつは俺も見てる。動けば、二人揃ってお陀仏だろうな……」
晃も俺が感じた感覚に気づいた様子である。彼の声にも多分に恐怖の色が込められていた。
どうする……? パニック一歩手前の心は俺の思考の邪魔をする。だけど、それでも、むりやり頭を回転させた。
今、奴がゾンビに夢中になっているうちが絶好のチャンスなのだろう。てか、なんで俺達にはゾンビが襲ってこないんだ? 今更だが気づいた。
「どう言う事だ?」
近くを通りかかるゾンビも、俺達を気にした様子もなく佐川 葵の元へと近づいていく。もしかしたら、彼女が裏切った時にグールを使役していいた能力なのだろうか? 何十体と彼女をゾンビが取り囲むが襲おうともせず、人気料理店に並ぶ人達のように食われる順番待ちをしていた。
彼女の能力は合成と吸収、後は使役する力か? 後、厄介なものはあの八本の腕。もしかしたら、魔法もいくらか使えるようになっているかもしれない。そして、一番最悪なのは人間と同等の知能があること。戦闘力も俺を上回り、知能も高いとなると普通に戦えば恐らく勝てない。
ならば、勝てる方法は一つ。不意をついた攻撃か絶対的に強力な能力。ならば――
「イメージは――模倣」
二分間だけの最強の力。他人の力を真似て己の力とする。
「対象は――神崎 唯」
俺が知っている最強の人物。彼女の力があれば佐川 葵に遅れを取る事はない。
「能力は――」
彼女は人智を越えた能力を持っている。それを、発動しようとした時だった。
「な……がはっ! ど、どうし……て」
俺の魔法は彼に止められた。