避難
「なるほど。あの女は以前の、仲間だったのか……」
俺は彼に、佐川 葵との事について説明をしていた。
「そう言う事だ。殺しそびれて……その、晃さんがそんな姿になったのも俺のせい――」
「――いや、それは違うだろ。確かに情報を与え、逃がしてしまったけど……だからと言ってなんでこれが宗田のせいになるんだ?」
彼は俺の言葉を遮る前に話し始める。
「それが、宗田じゃなくても初期の段階で人間を殺せたのは一握りだろう? 今ではあんな姿だが、昔は普通の人間だったんだろ?」
「あぁ……そうだ」
「それならなおのこと。俺でも殺す事なんて無理だな。それに、当時は生きる事に必死だった。今も大変だが……それ以上に状況に追いつけず、ゾンビから逃げ惑い、その日一日を生き延びる事がやっとの状況だ」
彼の説教じみた話は終わらない。
「それに……だ。今も人間を殺せるかと言われれば躊躇するだろう。間引きを行う連中はゾンビは殺し慣れてるが、生きた人間と戦った事はない。あいつらも当然躊躇する」
「だけど――」
「――もし、なんて話しても意味がないんだよ。仮に殺せてたら、あんな悪魔みたいな奴は生まれなかっただろう。だけど、その時の宗田の心はどうだ? 今ですらこんな状態。もしかしたら、死んでたかもしれないぞ」
その後に死線を何度か乗り越えたが、精神的に負けなかったからと言う点は大きいと思う。それが、人一人の死を抱えた状況でそれに耐えれただろうか? 分からない……けれど、いろいろと結果は変わってた可能性もある。
「パラレルワールドって知ってるか?」
「ああ、この世界に似た世界の事だろ。それがどうした?」
「もしかしたら、違う世界の俺はこんな姿にならないで済んでるかもしれない。あの時、奴を殺している宗田がいるかもしれない。ならば、出会った時点で無数のIFが生まれると言うわけだ」
彼は話を続ける。
「要するに、助かった俺も存在するってこと。それだけで十分だし……そもそも、あの女にやられはしたが、宗田の事を恨んでない。きっと妹にこの事を話しても同じように恨んだりしないさ」
剛が言っていた通り、彼は心底善人である。ただ、例え話が突拍子もないけれど少しだけ心が軽くなったように感じる。でも、戻せるならどんな方法を使ってでも彼を戻してあげたいと思う。
「まっ、気にするな。ショックじゃないと言えば嘘になるが、これが終わったら……俺はひっそりと生きていくさ。妹にもよろしく言っといてくれ」
「自分で……」
「んっ? なんだ?」
「そんくらい自分で言え」
最後の最後で逃げ出そうとした彼に、俺はそう言い放つ。
「雫さん、凄い心配してたからな。互いに酷な事かもしれない……だけど、今の世界ではかけがえのない存在だろ?」
「……そうだな。はぁー、説教してたのに最後は逆に説教されちまった。締まんないなー」
やはり、ゾンビの体を使って肉体を生成してみるか? だけど、首と頭の結合はどうする? ポーションでもぶっかけるかだな。
てか、彼女は彼を特別視してた。確か……意識があるとかどうのって。晃さんと出会った時は、こんなにはっきりと話す事も出来なかったし……彼は最初から意識があったのだろうか?
「晃さんは、俺と会った時の事を覚えてるのか?」
「あーー、それなんだが……断片的にしか覚えてないんだ。はっきりと覚えてるのは、さっきまでの事を除くと夜の見回りをしていたこと……かな」
「そこの事を詳しく教えてくれないか?」
恐らく彼女が彼に何かをしたのだろうと思う。それを知っていれば防ぐ手立ても見つかるはずだ。
「いいぞ。ちょうど寝ようとしてた時だったんだが、誰かに呼ばれているような感覚……いや、そんな生易しくないかな。うーん、なんて言ったらいいのかな?」
彼は言葉が見つからず、少し黙って考える。足の先でカリカリとテーブルを削り、言葉を探しているようだった。
「少し難しいんだけど、強制されているような感覚。行かないダメ、行かない死ぬ、行かないと皆死ぬ。だから、来い来い来いっ迫られてるような変な感覚に陥ったんだ」
「それは、誰にだ?」
「今考えるとあの女なんだが、当時は分からなかった。その言葉に抗おうとしてたんだけど、体が言うことを聞かなくなって……学校から出た所で記憶がなくなって今に至ると言うわけだ」
これは暗示か何かの類だろうと思った。恐らくトリガーはあの蜘蛛人間か? 佐川 葵は裏切った時に俺に向けて”どうして言うことを聞かないのか”と、問いかけて来たことがあった。その言葉から察するに人を操る能力を持っていると言っても過言ではないだろう。
「ちなみに、それは突然だった? それとも前兆のようなものとかはあった?」
「んー、どうだろうな? 今考えれば少しあったかも。その……呼ばれてる感覚が徐々に強くなってきた気がするんだ」
なるほど。つまりは、トリガーがあの蜘蛛人間とすれば……次の候補は俺と唯と言うことになるのか。だけど、彼女の言葉を鵜呑みにするなら、俺にはその暗示は効かない。であれば、唯が標的になる可能性が高いと言うことになる。
あの魔物を見たのは二日前。であれば、暗示が発動するのにどれくらい時間が残っている?
「記憶がなくなったのは、蜘蛛を見てどれくらいか覚えてるか?」
「恐らく一週間くらいだとは思う。すまん……それに関してはなんとなくだ。確証はないな」
「いや、それで十分だよ。ありがとう」
と言うことは猶予は長く見積もって後五日くらいか。
「てか、気づいたらその姿って事は彼女のアジトが何処かも分からない?」
「あぁ……。意識が戻ったのはさっき。奴の顔をめった刺しにしていた時だったしな。最初はこんな体で焦ってどうにかなりそうだったが、串刺しにされた宗田を見て冷静になったわ」
あん時は指一つ動かせなかったからな。情けない格好だったが、晃さんの正気を保つのに役立ってなによりだよ。ただ、アジトが分からないのは残念だ。分かれば最悪は、装備を整えて乗り込んで一気に殲滅する事も出来たかもしれないのに。
「ところで、あいつは大丈夫なのか?」
「今の所は……おっ、動き出した。って、うえー、気持ち悪! 少し目を瞑らせてもらうよ」
自分の視界と、彼女の視界が同調している。二重に見える状態は乗り物酔いに似た感覚がするのだ。何かを飲み込む時のように喉を鳴らし、這い出て来ようとする胃液を押し込めると、意識を集中する。
「それで……どうよ?」
「これは間違いなく、俺達を探してるね」
まだ、こちらの姿は見つかってないようだ。縦横無尽に飛び回ったり、時折屋根に飛び乗って周囲を見渡したりせわしなく動いている。
今のうちに少しでも回復して打開策を考えないとだ。
「なんだこれ?」
突然彼女が動きを辞めた。諦めたのかと思ったが、そうではないようである。
この発信機から伝わってくる情報は視覚情報のみ。音も臭いも感じないのだ。だから、彼女が何を行っているのか察するのは、視覚情報のみである。何かしらの能力を使用しているとは思ったのだが……
「どうした?」
「蜘蛛人間が……集まってきた。しかも、一体や二体どころの話じゃない――数百体はいる」
大通りの十字路に立っている彼女を取り囲むように、蜘蛛人間が集まりだした。まるで、宗教の教主のように、集まった蜘蛛人間は彼女に向かって手を伸ばしていた。
「胸糞悪い……」
俺は彼女の行いに戦慄しおぞけ、体が震えた。それは、恐怖と言うよりも憎悪に近い。奥歯をギィッと噛み締め、殺意が脳天を突き破りそうになっる。自身の心が歪んでいくのが分かり、冷静さを取り戻そうとするが、濁流のように押し寄せる憎悪の波がそうさせてくれなかった。
――侵食率五十パーセント。
――危険水域に達しています。安定剤を注入します。
――注入開始。
――侵食率の変化の確認中。
――……ERROR
――侵食率六十パーセント。
――安定剤を再注入。
――侵食率の確認……五十パーセントまで低下。
――続けて安定剤を供給し続けます。
――ERROR……ERROR……ER……………………