アリスと俺
アリスが何に対してお礼を言っているか分からなかった。困惑する俺に対して彼女は苦笑をこぼし、もたれかかった壁から離れると俺の側へと近づいてくる。
「あれー? 覚えてないの?」
首を傾げ、顔を覗き込んでくる。俺は彼女に言われた事を思い出そうと考えるが、思い当たる事がなく、余計に混乱してしまった。
サファイアのような青い瞳に見据えられ、今か今かと思い出すのを待っているアリスだが……、いっこうに思い出す気配のない俺に痺れを切らしたのか、アリスの方から口を開いた。
「えー! 本当に覚えてないの!」
声高らかに抗議するが、生憎と思い出せないのだ。
「剛がグールに襲われた時、助けてくれたの……あれ、斎藤さんでしょ?」
そう言われて俺は目を見開き驚いた。あの時の事か! 心でそう叫ぶ。
あの時から結構な時間が経っていた。アリスの助けを求める声に反応した俺は、ゾンビに囲まれていたアリスを助けた。そして、剛を襲っていたグールを倒し二人を助ける事に成功したのだ。
でも、どうして分かったんだ? 口元を布で隠して顔を見えないようにしていたのだけど……。
「声よ。声がそのまま斎藤さんだもん」
驚きから疑問へと変わった俺の脳内を読み取ったのか、言葉に出さずとも疑問へと答えてくれた。
あっ、と素っ頓狂な声が出てしまう。それに対して、「ふふふ」と、いつもの勝ち気な感じではなく女性らしい笑い方で、笑われてしまった。
「いつから気づいてたんだ?」
「んー、ここに案内した時くらいからかな? 剛は鈍いから気づいてないけどさ」
「そんなに早くから?」
「そうだよ。と言っても、最初はもしかしたらって思った程度だったけどね。確信に変わったのは、初めてゾンビと戦っている所を見てかな」
更に話しを続ける。
「だって、普通に強すぎるんだもん。真奈隊長以外にあんなに簡単にゾンビを倒せる人って見たことなかったし、声もそっくりだったから。その――ありがとう」
胸軽い衝撃と共に人の温かみを感じる。石鹸の匂いのような、花のような匂いが鼻孔の奥へと届き、抱き締められたと言うことをようやく理解できた。
「えっと……アリス?」
ハーフの彼女は身長が俺よりも少し高い。自分の顔の横にアリスの顔がある。がっちりと首元を押さえられ、そちらを向けないが目だけ彼女の方へと動かし、困惑の言葉を述べた。
それに対して彼女は反応することは無かったが、抱き締める力が少しだけ強くなった。
「すーはー、すーはー」
えっ、なんだ?
「これが、斎藤さんの匂いなんだ」
と、不穏な呟きがすぐ横から聞こえ、慌てて彼女を引き離した。
「わっ! せっかく匂いを堪能してたのに、酷い!」
いい雰囲気と思っていたのは俺だけ? 彼女はそんなのお構いなしに、匂いを嗅ぎたいと言う欲望を全面にさらけ出していた。
「嗅ぐなよ! たく、抱きついたと思ったら、せっかくの雰囲気が――」
途中まで言いかけて口を閉ざした。
「雰囲気が何かなー?」
目を細めて、ニヤニヤとしとアリスが悪代官のごとく、俺に詰め寄ってくる。
だから、言いたくなかったんだよ……。俺がそう言う雰囲気を望んでるって思われるからさ。もう、遅かったけどな……。
「なんでもない!」
慌ててそう返したが、アリスのにやにやは止まらなかった。
「ははっ! 斎藤さんはウブだね」
「そうかい、そうかい。ウブで結構。これ以上用事がないなら戻るからな」
「えっ! 待って! 話はだいぶ逸れたけど、まだ悩み聞けてないよっ!」
彼女の態度と表情が千変万化のように、せわしなく変わる。
「もうっ! せっかちだな! やっと、お礼を言えたんだから、少しくらい意地悪していいでしょ」
どこから意地悪するに繋がるか分からないが、アリス理論ではお礼と意地悪はイコールで繋がるらしい……、んっ? もしかして――
「――照れ隠しか」
と、ぼそりと呟いた俺の声はアリスの耳にばっちり届いていたらしい。頬を赤く染めて、視線が右往左往と羞恥の色に染められている。
「違っ――」
形勢逆転。言葉に詰まるアリスに対して、勝ち誇ったような笑みを浮かべると、恨めしそうな目でこちらを見てくる。
「何をそんなに恥ずかしいんだか」
やれやれと言った感じで返すと。
「なんとなく……改めて言うと恥ずかしいの!」
語気を強めそう言うと、横を向いて完全に顔を逸らしてしまう。
「斎藤さんが、その事について言ってくれればこんな事にならないのになっ!」
と、俺に責任を押しつけてくる。
「無理言うなって。そんな恩着せがましいこと、誰が言うんだ?」
「そうだけど……」
隠しているつもりはなかったけど、自分から言うつもりもなかった。今日、アリスに言われるまで頭の中にその事もなかったわけだ。
アリスも俺の言い分に納得はしたけど、気持ちの方はそうはいかないみたいである。
「うー、納得したくないっ!」
「納得しろよな。本当にそろそろ戻るぞ?」
なんだかんだアリスと話していたら、どんよりとした気分が幾分か楽になった気がする。
「本当に大丈夫なの?」
少しだけ、しおらしくそう言った彼女は普段の活発な姿からギャップがあった。俺は、抱き締められた事を思い出す。鼻の奥底に残っていた彼女の香がうずき、少しだけこそばゆく、恥ずかしさがこみ上げてきた。
「ああ、おかげさまで」と言うと、彼女に背を向けて右手を上げる。それを軽く振って別れの挨拶を済ませると、そのまま歩き出した。