焦りと狂気
あー、良く寝た。
夜型の俺にとっては朝は天敵である。
それにしても今は何時なのだろうか? 何度もいうが、時間が分からないと不便なものだ。その概念に支配された人間生活、それから解放されるとむしろ違和感と不便さしかない。
「あー、神崎さん。さっきはごめん———」
さっき、強引に寝てしまった事を謝ろうと魔法の練習をしている彼女を見やる。
ただ、視界に入った光景に目を疑った。
赤い液体が付着した壁。彼女の服もその色に染まっている。
「何をしてい——」
「——治れ」
彼女の行為を問いただそうとした時、治れと一言呟く。魔法を使って自分の手を治していた。
俺の手首を治したように、緑色の光が包むとあっという間にそれが治った。手の甲に残ったのは鮮明な赤。俺が作り出した歪なナイフでそこを刺しては治してを繰り返す彼女の奇行に血の気が引いた。
目を見開き血走らせ、その動作を何度も繰り返す。鬼気迫るその雰囲気に咄嗟に動けなかった。
彼女の中で何があったのだろうか?焦りか? 恐怖か? 絶望か? それが彼女にこんな行動を強要したのか? 止めないと……。
よろよろと立ち上がるが、中々言うことを聞かない自分の体に苛立った。
早く動けよっ! と心の中で叫ぶ。
だけど、心と体が分かれたように動く事を拒否され、まごついていると神崎さんがこっちに気づいて振り返った。
「あ、宗田さん起きたんですね。
見てください。だいぶ魔法に慣れました」
その表情は誇らしげで、自分がしている事の異常性に気づいていない様子だった。むしろ、魔法が使えた事の喜びの方が強いらしく、血で染まった左手の甲を見せてくる。
「ああ……」
傷は確かにない。だけど、出血した痕跡はそのままだ。短く返事を返して、視線を外す。
「凄いでしょ! 見ててくださいね——!」
手に持ったナイフで、もう一度自分を刺そうとする。
「——やめろっ!」
今度は体が言うことを聞いてくれた。
「もう、何度か見たから大丈夫だ」
そう言って彼女の持つナイフを取り上げた。
「なんだー。見てたんですね。
せっかく驚かせようとしたのに残念です。でも、これでどんな怪我をしても大丈夫ですからね」
彼女は優しく微笑んだ。顔を引きつらせて、「そ、そうだな」と返事を返す。
「ただ、さっきみたいな方法で練習するのは辞めてくれよ?」
俺はきっぱりとそう言い放った。ただそれを聞いた彼女は納得できないような表情でこっちを見る。
「えっ? なんでですか?」
これで彼女を刺激するのは危険かもしれない。言葉を選ばないとまずいな。そう思って慎重に会話を進める事にした。
「あー、あれだ……見てみ。壁も床も汚れちゃっただろ?
今は掃除もあんまり出来ないからさ」
「あ、本当だ。すいません……
つい、夢中になってしまいました。今度からは場所を変えますね」
いや、その行為を辞めて欲しかったのだが……。上手く伝わらないのがもどかしい。でも、どうしてこんな行動に? 予想以上に彼女は追い詰められていた? 魔法が使えた嬉しさ? どちらにしても、こう言った行動を二度としないように目を光らせる必要があるだろう。
「宗田さん。いつくらいにここを出るつもりでいます?」
「……一週間くらいかな。もしくはそれより早く出ようかと思っているけど……
ここを起点に周囲の状況を探るのもいいかなって正直思っているよ」
「そうですか……じゃあ、もっとたくさん練習しないと」
昨日とは対照的に明るさを取り戻した彼女だった。だけど、俺が思う方向とは違う方に向かってしまった神崎さんを正す事ができなかった。
それならば、——。
————。
「……寝てるかな?」
神崎さんの顔を覗き見る。女性の寝顔を覗くのは趣味が悪いかもしれない。ただ、静かに眠るその姿は昼間の狂気をまったく感じさせず静かだった。人形のように眠る彼女を起こさないようにとゆっくりと立ち上がる。
「……よし、行くか」
音を立てないように慎重に玄関へと向かう。たまに床がギィッと鳴き声を上げる。心臓の音がそれ以上に高鳴った。ゆっくりと、寝ている神崎さんの方へ振り向いたが、起きたような気配はない。
玄関に置いてあったスコップとバールを手に持つ。
昼間に決意した事——ゾンビを倒すと言うことである。この戦闘処女を脱して早くここから出ないと、神崎さんは自分を傷つけるのを辞めないだろう。だから、一刻も早く外のゾンビとの戦いに慣れようと思ったのだ。
ゆっくりと鍵を開けると外に出た。
「ふぅー。バレずに済んだか……」
一息吐くと、玄関の鍵を締め直す。
「行くか」
物音をできる限り立てないように慎重に行動をする。腰を屈めてスコップを持ち。バールをベルトとズボンの間に挟める。
正直かなり動きにくいが致し方ない。
「暗いな……」
分かっていたことだが、外は月と星の明かりしかない。それが当たらない部分はまさに漆黒と言っても過言ではなかった。車の音も、人の話声もない。まるで、別の世界に放り込まれたような違和感に包まれる。全ての人が消え、自分だけが取り残されたようである。
たった数日で様変わりした外の世界の異常性を再認識すると、ぶるりと怖気が走った。
「はぁ」
わざと息を吐き出す。恐怖に臆しそうな心を落ち着かせる。もしかしたら、あの男のように食われるかもしれない、二度と帰って来ることができないかもしれない、マイナス思考に捕らわれかけ、足が竦みあがる。
だけど、神崎 唯のあの姿を思い出し、負けそうな心をむりやり押し込んだ。
アパートの階段を下りる。
——カツン、カツン。
響く足音。車も人の声も聞こえない空間に音が響く。近くにゾンビが居たらその音で見つかるんじゃないかと思う。
怖い……。スコップを持つ手が震えた。
寒い……。真夏なのに体が凍える。
耐えるだけでやっとなプレッシャーが肩にのしかかる。汗が頬を伝った。
熱帯夜な夜に体を縮こませて震える。真夏の冬に襲われた俺は、凍えるようにして階段を降りきった。
アパートの前の道路に到着した時には、かなりの体力を奪われていた。鉛のように重くなった肩、手に持つスコップが更に重く、それが余計に家に戻れと警告しているように思えた。
こんな事で大丈夫なのだろうか? スタート地点に到着したばかりなのに疲労困憊な自分に不安がつのる。
「そう言えばここって……」
ふと、道路の一部分が気になった。この辺りで、知らない誰かが食われたんだったな。衝撃的な光景は忘れない。鮮明に思い出すと、体が凍ったように動けなくなった。
ここにいては駄目だ。体が竦み逃げ出したくなる。早く行かないと。
足早にその場から離れる。
「なんで、こんな所に車が……?」
車が道路の真ん中に止まっていた。車も一斉に動かなくなったのだろう。ゆっくりと車に近づきその中を確認する。
「何もないか……」
持ち主は逃げてしまったのだろうか?
竦みそうになる心をどうにか奮い立たせ、アパートから道沿いにずっと歩みを進めた。特にゾンビとも出会うこともなく近くの公園付近へと到着した。
「嬉しい反面、このままでは目的が達成できないな。さて、どうするか?」
ゾンビは何に反応しているのだろうか? そう疑問が湧いてくる。怯える心を、思考する事によって上書きして一旦公園の方へと向かった。
「——いた」
公園に到着すると、お目当ての存在と出会うことが出来た。
暗がりではっきりとは見えなかったが、女のゾンビだ。公園の中心でゆらゆらと風に揺れる旗のように突っ立っている。
タイトスカートにシャツ。仕事に行くときにでも襲われたのか。そいつの左腕の肘から先が存在しない。
ばれないように近くにあった車に移動する。身を潜めどうするか考え始めた。
いつの間にか口で呼吸をしていたのか、喉が焼けるように熱い。生きている内は人間だが今はただの屍だ。必要なのは勇気。背後からこのスコップで一撃を食らわせれば終わる。だけど、生死のやりとりなんて生まれてこの方初めてだ。
スコップを握る手が汗ばんで、それをズボンで何回も拭き取る。
なら、逃げるのか? そう思ったが否定する。ここで逃げたらずっとゾンビから逃げ続ける事になるだろう。
じゃあ、やるべきことは一つじゃないか——
————殺す。
覚悟を決めた俺は遠くのゾンビを睨みつける。
さて、後はどうやって近づくかだ。ちょうど俺に対して横を向くような形で立っている。かと言ってそこまで行くには遮蔽物が存在しない。どうにか誘導して背後を向けたいものなのだが……
俺試しにその辺に落ちていた石ころを拾って、投げた。
「ァアアアアッ……」
そのゾンビは低い呻き声をあげるとその石の方へと移動して動きを止めた。ちょうど背中を見せる格好となる。これは絶好の好機と行動に移した――。
——行くぞ。
できる限り音が出ないように腰をかがめ近寄った。
——臭い。
これが死体の匂いなのか。
何日も風呂に入っていないような、そんでもって生ごみを全身に浴びたような、目に染みるような、臭いがする。
近づけば近づくほど強く感じ、吐きそうなのを喉を締めて押さえ込む。
目の前にはゾンビの後ろ姿。スコップを高く振り上げた。
「——あがぁっ!」
気付かれたか……だけど、遅いっ!
力の限り振り上げたスコップを、脳天目掛けて振り下ろした。
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