4.『思い出すは小さな思い出』
五月二日、晴れのち曇り。
ラピスがジンおにいちゃんと呼称を変えるほど仲が深まった頃だ。
ジンの予測通り、私たちに三人に待機命令が出た。
これは異常な事態であるといっておく。事実上、戦場にヴァニル国の持てる全戦力を投入すると宣言しているものだからだ。
まあジンからしてみれば、そんなことには気負いもせず、飛空艇から乗り換えた車の乗り心地の方が問題だったらしい。途中で「酔ったから降りる」と言い出す始末である。送迎車の揺れの酷さは私も共に体感したので、早めに降りられて嬉しさがないと言えば嘘になるが。
「今日という今日は、作戦を大成功させて市場の魚という魚を買い占めてやりましょうね」
と、煩悩溢れた明るさでローレンが笑顔を向けてくる。それに作戦決行日は今日でない。
しかし、こればかりは彼女の取り柄かも知れない。場所は所々に物騒なものが見え隠れして長く過ごしたいとは思えない空気の悪い浮遊要塞都市ウルフログレス。酔いの酷い車に乗せられ、尚且つ、あと数日もしないうちに交戦状態に突入するというのに、まだ周りに明るく気を配れるのだ。これが才能ではなくてなんというのか。
しかし、会話内容はもう少し配慮した方がいいかもしれない。
反対にイヴは緊迫した状況を強く受け止めているらしく、
「ローレン、交戦前に物資の買い占めの発言は厳禁よ。市民に無用な不安を抱かせないの」
と険しい口調で返す。
けれどローレンは意にも介さずに、
「へいへい。イヴはあんまり真面目だと白髪生えますよ。まあ目立たないでしょうけど」
と、右から左に流した。
「お前らの薄給じゃ買えやしねぇって目で見られるのがオチだよ。魚なんて高級食材なんだ。細かいこと気にすることはないぞ」
いつもの以上にやる気のない声で、後ろを歩いているジンが口にする。何かを思いついたように、「あ、魚と言えば……」と言いかけて、「やっぱ、なんでもない。そういうこともあるだろうさ」と勝手に一人納得していた。
「なに? 気になるんだけど?」
眉をしかめ、詰問するイヴに、
「うーん、あー……」、何とも気の抜けた言葉選びの後、辺りを見回すと、
「これだけ侵略に苦しんでるのに、火器の置き方は内紛対策向いていると思ってな」
魚とは全く関係ない話をジンは振り直す。そして巨大な一門を指し、
「あれなんて、どう見ても対戦艦砲だろ。先日のアクヒューマアの群れならまだしも、バラバラに飛行する小型のマウズに使うことなんて、まずないだろうしな」と評した。
「それのどこに魚が関係あるのよ?」
「あんなもんの管理に土地と人員割くくらいなら生簀でも作って魚を養殖した方がいいよな。な、アイリス」
訝しんでいるイヴに人の名前を出して話を逸らすのは、やめてもらいたい。話が話だけに否定しづらいではないか。
「ヴァニル軍人のくせにヴァニルの歴史知らないんっすか?」
「知らん、教えろ」
ジンの疑惑の目なぞ気にせんとも言わんが如く即答に、流石のローレンも呆れた顔をみせた。ローレンはやれやれと言わんばかりの表情で、
「もう五百年前になりますが……」と話し始める。
興味のある話でもないので私は街並みを観察する。
鉄と灰色の町から立ち上る黒い煙で薄汚れ、どんよりとした灰色の空。お世辞にもいつもの空とは思えないほどに退廃的だ。
「えっと、最初に出来たのは、獣人強国、人間支配脱却を目指したヴァニルなんですけど。なんでしたっけ、人間至上主義を掲げて建国されたのが亜人の国スヴァルトなんですよ」
「亜人がなんで人間至上主義なんて掲げてるんだ?」
「さあ、どうしてっすか?」とローレンはイヴに確認する。
「アスガル機構への建前よ」
「あ、そうそう、この世界は三つの勢力に分割されてるんすよね。アスガル、ヴァニル、スヴァルトって感じで、いがみ合ってるんすよね」
「別にいがみ合ってはいないわよ。ただ人間と亜人と獣人で国を別ったの。それだけよ」
それだけ、とは妙な話だが、種族同士が共存関係から協力関係に変化したのだろう。姿形が違えば思考のズレなど同種のものより大きいはずだ。人間を見たら分かりやすい。親戚一同、同じ家、同じ地方に住むことはない。つまり、その程度の話が大きくなっただけなのだろう。
「で、それがあの砲門と、どんな関係があるんだ」
「それはですね。自らの武力を示すためですよ」
「お前に訊いた俺が馬鹿だった」
「遂に認めたっすね」
「馬鹿にされてるの、あなただからね」
鼻で笑ったジン。決め顔のローレン。イヴは頭を抱える。
と、そんな役に立たない話の切れ目に、やっと軍の参謀本部が置かれた建物の前に着くと、「形ばかりだな」とジンに称された黒塗りの巨大な扉の横に備え付けられた小口から中に入る。
中庭を抜け、最初に目にするエントランスホールは、赤褐色と金字で統一された色感に威厳を見るのか、あるいは嫌悪感を憶えるかで分かれるだろう。少なくともジンは「馬鹿らしい」と吐き捨てた。
「アイリス、まだ酔ってるのか?」
ジンはこの街のみるものに飽き飽きした様子で私に訊ねてくる。思い返せば、車に乗ってから一言も発していない気がする。私が曖昧に頷き返すと、何も言わずに軽く頭を撫でてきた。
「あ、アーサー師団長」
そわそわとしていた黒白のワーウルフを見つけたイヴが声を上げる。
こちらの声に気付き、いそいそと近づいてくると、
「お嬢、遅いから心配してやしたよ」とアーサーは安堵で息を吐く。
「実は二人程、……車で酔ってしまいまして」
「そうだそうだ。もっといい車と運転手を所望するぞ」
と、私の後ろに隠れるようにしてジンが声を上げる。腹話術をやるなら、隠れきれていないうえに声を少しぐらい似せる努力をしてもらいたい。
「ジンはちょっと黙ってて」
「やーい、怒られてやんの」
ローレンが唐突に子供じみた言葉狩りを始める。こんな対応をされたらアーサーが困ったような笑みを浮かべるのも当たり前である。
「いえ、問題ないです。技術職の方は変わった人物が多いと存じておりやすので」
「技術職……」
「だから初めに言っただろ。特等魔術技術官だって」
二人から向けられる何とも言えない白い目に対して、
「肩書は偉いんだぞ」とジンは威厳なく付け加える。
「まだ武官の方が納得できるっすけどね」
「アスガルからの出向された方はうちのもんとは一味違うようで」
と、アーサーは頷きつつ、
「ウルズの件ではお世話になったと聞いております。第六師団長のアーサーと申します。以後、お見知りおきを」
手を差し出してくる。無論、私ではなく、後ろに隠れているジンに対してだ。
二人の驚きで見開いた目を気に留めることもなく、「どうも」と、私の後ろから出てきて、手を握った。
「では、作戦会議室にお連れしますさかいに……」
「待った。それよりコパルの所に行く」
「コパルのとこっすか! あたしも行くっすよ」
とジンの言葉に水を得た魚のようにローレンが割って入る。
「それは困ります。他の師団長が待機しておりやすので、私の一存では……」
「よし、じゃあ」とジンはアーサーの肩に手を置く。
「頑張ってくれ」と握りこぶしをみせ、踵を返す。そのまま歩いていた軍人を捕まえ、道を案内させる。
啞然とするイヴとアーサーを置いて、私とローレンはジンの後を追いかける。
「良かったんっすか?」
「作戦案なんてのは、決定的な何かがないと利潤で堂々巡りするもんだからな」
「この行動は決定的になりえないんですかね?」
「だからこその、頑張れ、だろ?」
ジンはローレンに答えた。つまりコパルに会いに行くというのは、リスクを冒しても決定的な何かというものを手に入れる可能性があるということだろう。
「まあ、あたしはコパルに会えれば、なんでもいいですけどね」
ローレンはブレない。
赤と金の通路を抜け、灰色の廊下を抜けると、眩しいばかりの緑の空間に出る。ガラス張りの天井、壁。その中に草木を植えて、我らが妖精の傘を小さい空間に押し込めたイメージだ。
「まるで虫かごっすね」
と、ローレンは感想を述べた。なるほど、適切な表現かも知れない。
「ローレンも初めてか?」
「あたし個人としては、ヴァニル、スヴァルトの研究施設はごめんっすからね。なんとも陰気な気がして普段は近づきたくないです」
「まあ、分からんでもないな」とジンは独り言のように相槌を打つ。
道なりに進むと、古民家に備え付けられているような小さな池のほとりにたどり着いた。
傍で草弄りをしている黒い髪の少女の姿が目に入る。少女は草を一つ摘み、こちらに駆け寄ってきた。
「やっぱり、ジン様」と、少女はクローバーをこちらに向け、
「四つ葉のクローバーが丁度見つかったところですわ。こちらをお手にどうぞ。ウチからの真実の愛でございます」とジンに渡そうとする。
「いや、いい」
と、反応に困る台詞をジンはすげなく断る。ローレンの嫌悪感丸出しのガン飛ばしを目の端で捉えたから断ったのかもしれない。
「こちらのお嬢さんは興味深々。もしかしてミドラちゃん?」
振り向きざまにチラチラと動きながら、スッと近づいてきたクローバーを、反射的にパクリと口の中に入れてしまう。噛めば噛むだけ口の中に酸味と苦みが広がり、吐き出さないように飲み込むと、身体が反応して嘔吐きが始まる。
「アイリス、お前。そんなものは飲み込まんでいいからな」
慌てたジンの声で思い出す。吐き気ずっと我慢していたことを。
小休憩。
「では、今はミドラちゃんではなく、アイリスちゃんと」
「そうなんすよ。あたしとしてはどっちも可愛いからグッドです」
ローレンが私の代わりに答える。いや、お前の趣味は答えなくていい。
私が吐いた後に研究施設内に取り付けられた少女の部屋に案内された。小屋ともとれる六畳ほどの木造の小さな部屋で休憩させてもらっている。部屋に置いてある装飾品や本はドライフラワーやお茶に関するものばかりだ。
彼女はコパル。魔術兵器ウルズの適正者である。お淑やかそうな立ち振る舞いとは裏腹に恋愛ジャンキーな性格をしている。いや、性格というより発言だが。
黒く長い癖ない髪を後ろで束ねて、エプロン姿のコパルがお茶を運んでくる。
「いやぁ、しかし、いい匂いっすね。コパルと一緒で」
「レンちゃんは昔と変わらず、甘えん坊さんなんですから、よしよし」
コパルは抱き着いてきたローレンの頭を撫でる。ローレンの鼻の穴が膨らんでいるのはみっともないと思う。口には出さないけど。
部屋の扉がノックされる。
「ジン様ですね。今、お開けしま…、あら?」
返事も待たずに扉が開いて、外にウルズを取りに出ていたジンが顔を出す。
「大胆なジン様もステキですわ」
「窓の外から見えたから問題ないだろ。レースぐらい掛けとけ」
「そうですわね。他の殿方に覗き見されるのも良くないですし」
「いや、そこは怒るところでしょ…」
とローレンが呆れている。先ほどからころころと表情が良く変わる。
「好きな人に強引に押し倒される経験も悪くないかも知れませんわよ。いつもレンちゃんがやっているように」とコパルは微笑みかけた。
手持無沙汰の私はカップを手に取る。まだ口に含むには熱そうなので、ほのかに鼻をくすぐるラベンダーの香りを楽しんだ後、また置き直した。
「で、ジン、それは?」
「ウルズだ」
私が問うと、ジンは脇に抱えていた鏡、いや、風水で使う羅盤に見えなくない銀色のそれを机の上に置く。
「あたし、初めてみたっすよ。これの何処が兵器なんですかね?」
「こいつはレーダーや観測機に近いからな。情報が生死を分ける戦争では必須、それも最重要だ。まあ、武器としては自力で開放出来ないなら戦闘には不向きだがな」
「あとは傷の治療や、毒も取り除けますわね」とコパルが付け加える。
「まあ、今は前者の能力が必要なんだ。コパル、予兆を見てくれ」
「はい、ジン様の期待に応えられるよう頑張らせていただきます」
コパルはウルズを受け取ると、手をかざして魔力を込め始める。
「ところでジン。コパルとはいつ知り合ったの?」
「それは四か月ほど前に、アスガルの方でお会いしましたの」
と、私の問いにコパルが答えた。
「集中しろ」
「はい、とても集中していますよ」
コパルはジンからの注意にこやかに返す。
「それでですわ。その時に、私に美しいお嬢さん、僕と婚約してくださいって、プロポーズされてしまいましたの」
「してない」
「いえ、確かに、あれはヴァニルの兵士さんに暗いとか、苔が生えてそうとか、うじうじしているとか、難癖をつけられている最中でしたわ。背筋を伸ばせ、顔をあげなさい。その方が可愛らしいだろ、とウチの手をおとりになられて……、まるで物語に出てくる王子様のようでしたわ」
今のコパルからは想像もつかない話だ。そして集中しているようには見えない。
「それは、プロポーズではないんじゃないっすかね」
苦言を呈したローレンの声も耳に入っていないらしく、
「それでですね。男性にそんなことをされるのは初めてで、舞い上がってしまいまして」
とコパルは顔を赤く染め、手を頬に充てる。
「なんでもいいが、早く終わらせてくれ」
ジンの言うとおりである。勘違い満載のノロケ話を聞きに来たわけじゃないのだ。
「もう、せっかちさんなんですから」
と、コパルはやっとやる気を出したのか、はたまた空気を読んだのか、ウルズへの魔力供給を増やした。ウルズの表面に、真ん中に穴の開いた蜘蛛の巣のような網目状に広がった魔力が虹のように色を変え始める。網目のいくつかに虹の光が宿り、中心の穴は銀色の光に満ち、徐々に映像を映し出す。
空を埋め尽くす程のヤーズの群れ、それを払う赤、金、緑の三色の光。そして画面は黒く暗転する。ウルズの魔力の流れを見る限り、まだ再生途中だ。
「コパル、もうちょっと頑張れないか」
「ウチの力では、毎回ここで止まってしまうみたいで」
ジンは一呼吸思案し、立ち上がると、
「そのまま手をかざしてくれないか」とコパルの後ろに立つ。
「こういうのは二人きりの時にしていただけると……、少し恥ずかしいですわ」
「恥じらいを持つのは結構だが、冗談は後にしてくれないか」
しゅんと沈んだコパルの手の甲にジンは包むように手を重ねる。
「まあ」とコパルが喜んだのも束の間だ。黒い画面から静電気のような魔力が走り、私の前に置いてあるカップを衝撃で叩き割った。
全身の毛が逆立つ思いで、私は椅子を倒しながら跳ねるように慌てて距離を取る。
「……失敗っすか?」
「いや……」
机を掴みながら危うく倒れそうになっているローレンに、ジンは冷静に返答する。
「じゃあ、一体なんだったんっすか?」
「寄生種か……」と驚愕が渦巻く中、ジンはただ一人頷いた。
次の日のことだ。
昨日の一件が会議の方針を決定付けるものになったらしく、会議室を出た後もジンは資料室にこもりっぱなしで今朝から姿を見ていない。
イヴは指示を預かって来た。いつも通りの訓練内容だ。私は飽きて、コパルの部屋に抜け出してきた。それに鉄やコンクリートの冷たさは好きにはなれない。
「……うーん。やっぱりレースでもお部屋の中が暗く感じますわね。アイリスちゃんはどう思いますか?」
と悩まし気な声を上げ、コパルが手を止めると私に確認してくる。
「……天窓を付ければいい」
「なるほど、それはいい考えですわね。今度、お願いしてみますわ」
レースを付け終わると、コパルは新しくお湯を温め始める。
「コパルは今の生活が好き?」
私の質問にコパルは一考する。
「もっといい生活を望まないと言えば、嘘になるのでしょうけど、今の生活が嫌いかと言われたら違うと思いますわ。それに……」
と言いかけたところで、コパルは何かを思い出したように私に向けて微笑みを向ける。
「いえ」とコパルは訂正し、
「ところでアイリスちゃんはまた、どうしてそんな質問を?」と確認してきた。
「今日はいい天気」
「はい、そうですわね。……ではなくて、どうしてまたそんな質問を」
「今日はいい天気」
「ええ、日差しがポカポカして気持ちいいですわね。……そうではなくて、ですね」
「今日はいい天気と確認した。それだけ」
「そうなのですね。深い意味はないと」
コパルの頭の上からハテナマークが消える。会話がないというのも良くないと思ったが、やっぱり苦手だ。会話を断念して机の上に伸びる。
暇を持て余して耳を澄ましても、あまり音が聞こえてこない。今の季節なら部屋の中でも風で擦りあう葉の音や、遠くの鳥の声、羽ばたきが聞こえてきていい筈の静けさだ。だが、耳にするのがお湯を沸かす音とだけというのは、もう夏は目の前なのに、まるで冬のようだ。
そんな中、土を踏みしめて此方に近づいてくる音を拾う。
コパルは窓の外を確認すると微笑むと、示し合わせたようにお茶を入れ始める。
「ごめんください、どなたかいらっしゃいますか?」
と、イヴの声が扉の向こうから聞こえてくる。足早だったが怒ってはいなさそうだ。
「今、開けますわね」とコパルは出迎える。
「コパル、久しぶりね」
「イヴちゃんこそ。元気そうで、なによりですわ」
いそいそと用事を済ませる気配のイヴに、コパルは両腕を広げてみせる。
「いや、そういうのは……」
「もう、イヴちゃんも年頃ですわね」
困り顔のイヴをコパルはそのまま抱きしめる。
「あのねぇ……」
「ボディーランゲージは愛情表現の基本ですわ。特に愛情を伝えるときには」
「はいはい」と、空返事を返しつつも、イヴはしっかりと抱きしめ返す。
安らかな表情を見せていたコパルは何かに気付いて、「あら」と調子外れな声を上げ、イヴのうなじの辺りをクンクンと嗅ぐ。
「なに、なんか変?」
「いえ、なんでしょう」
困惑の表情を見せるイヴの顔を、しばらく眺めてから、
「なるほど、分かりましたわ」とコパルは胸の前で手を合わす。
「恋、してますね」
コパルの恋愛脳。いやイヴを傍目から見たら確かにそうである。けれど犬や猫じゃあるまいし、匂いで判別するのは恋愛脳がなせる業だろう。
「してない、してないから、そういうのはね、良くないから」
顔を真っ赤にしながらも、イヴは身振り手振りまで入れて必死に否定する。
「イヴちゃん、とても可愛らしくなっていますわ。きっと素敵な殿方と巡り合ったに違いありませんわ」
子供が生まれると母乳が出るようになるとか、そういった類の変化があるのだろうか。気になってイヴを観察するが……。なるほど、良く分からない。
「可愛くなんてなってないし、可愛いとか言ってくれないし、それにあの人忙しそうだからそういうのに興味ないのかなって」
「でも、好きなのですよね?」
「……嫌いじゃないけど、そういうのじゃないから」
「なるほど発情ですわね」
「違うから!」
耳まで真っ赤にしたイヴに、コパルは「冗談ですわ」と笑みを見せ、
「では、どういったものなのですか?」と訊ねる。
真っ直ぐな言葉に気圧されている事につけ込んで、コパルはどんどん詰め寄っていく。抱き合っていた時よりも鼻先が近いぐらいだ。
イヴに視線をそらされて、コパルは一考し、
「もしかして、イヴちゃんは変わるのが怖いのですか?」と問うた。
「……そんなことはないわよ」と弱気な声が返ってくる。
「うーん、そうですわね。ウチは、思うのですけど」と、コパルは変わったこと言いますけど、と前置きし、「ウチらって、ドライフラワーみたいだと思いませんか?」と、飾ってあった一輪の黄色のチューリップの花を手に取る。
「ドライフラワーって、ずっと同じ色合いでそこにあるでしょう。戦乙女も、ずっと綺麗な状態を保ちますわよね。人って、成長して老いていきます。けど、ドライフラワーって、成長して一番きれいな時に切り取られてしまうのです。老いて亡くなることのないウチらと同じですわ」
コパルは花を置き直すと、今度はピンク色のチューリップの花を手に取る。
「此処のお庭って白や黄色、緑のチューリップばかりなの。品種改良して色を増やすなんて、専門知識のないウチには無理ですから、精々株の数を減らさないように面倒みることぐらいしか出来ません。でも……」とチューリップの花を見せ、「こうやって、ドライフラワーでも染色すれば、好きな色に変えることが出来ますわ」と微笑み、「恋の色に染まれば、きっと綺麗な色になりますわ。そうですよ、こんなウチにも前を向いたら可愛くなるって、ジン様は仰ってくれましたし……」と、惚気話に飛んで行ってしまった。
「ジン、……様?」
「はい、ジン様でございます」
昨日、イヴはコパルに会っていないし、ジンの話をローレンはしないし、知らないも無理ないだろう。
「ジン様って、なに? ジン様って、あいつなんかしたの?」
と笑みと苦笑いと困惑が混ざりあった表情をイヴはみせる。
「もう、それは熱烈にアプローチを……」
コパルが頬を赤く染めるのを見て、イヴが顔を暗くして膝をつく。ありえない、ありえない、ありえない、と呪詛ともおぼしき小声が聞こえてくる。
「ジンは別にアプローチも、告白もしてない」
「あら、そうでしたわ。ウチとしたことが先走ってしまいましたわ」
と、コパルは頬を押さえてウフフと笑う。
「ちょっと待って、今の会話に何処に勘違いする要素があったか、分からないんだけど」
イヴは立ち上がると、微笑みを崩さないコパルの肩を揺した。
「背筋を伸ばせ、顔をあげなさい。その方が可愛らしいだろ、とジン様はおっしゃられました。これが愛の告白でなくてなんでありましょうか」
「可愛いと言われたのは羨ましいけど、それは告白じゃないわよ」
あわわ、頭が揺れますわ。と混乱したイヴに激しく前後に揺すられ、コパルが目を回す。
「イヴ。そのぐらいにしとかないと、コパルが吐く」
と私は呼びかける。イヴは我に返って手を離す。コパルはふらふらとした足取りのまま椅子に何とか腰かけた。
「コパル、ごめん」とイヴが謝る。
「いえいえ、イヴちゃんがジン様を思う気持ちが伝わって来て、ウチは嬉しいですわ」
目を回しながらもコパルは楽しそうに返す。
「そんなんじゃないってば」
「まあまあ、お座りになってくださいまし。今、お茶を入れますから」
「じゃなくて、アイリスを探しに来たの」と、イヴは私の顔を見て、「逃げたら、駄目だからね」と、口を酸っぱくした。
「まあ、イヴ。家主に従って、座るのが礼儀」と私はできうる限り真面目な顔していった。
「あなたが此処に逃げ込まなければ来てません」
私の頭に両手の拳骨をぐりぐりと押し当てるイヴに、
「本当にそう思いますか?」と、コパルはお茶を出しながら微笑みかけた。
「もしかして、私が此処に来ることを予知してたの?」
「きっと、今日来てくれるだろうとは薄々思っていましたわ。なにより明日、出立ですわよね」
コパルはイヴの問いに答える。
「なにそれ、聞いてないんだけど」
とイヴは驚く。私も初耳であった。
作戦が決まり次第順次出立なのだ。昨日の時点で不安要素は全て出揃ったとは聞いていたが、昨日の今日で出立日時まで決まるとは、ジンにしては珍しく仕事が早い。いや、ジンの仕事の早さは置いても耳が早すぎる。
「コパル、もしかしなくてもウルズなしで予知できる?」
「いえ、アイリスちゃん。これは信頼の問題ですよ」
「信頼?」とイヴは聞き返す。
「ウチがみたもので考えつくことをジン様が実行できないとは思いませんわ。それに軍が先に展開できるのなら、それに越したことはありませんし。それがウルズの、ウチの役目でもありますわ」
とコパルはいった。昨日、わざわざジン本人がウルズで確認をしに来たのだ。彼女が解決方法を見つけた。そして、それをジンもわかっていると言えば反論の余地はないだろう。
「それよりウチは、普段ジン様がどう御過ごしているのか、気になっておりましたの。イヴちゃんなら教えてくれますわよね」とコパルが詰め寄る。
「どうって、どうもしないわよ。昼寝ばかりで家事や仕事なんて、ろくにしてないんだから。代わりに私がやらなくちゃいけないんだからね、ほんと面倒よ」
イヴの言葉を否定はしない。私たちの分かる範囲では仕事しているように見えないのは事実である。むしろ、遊んでいる気の方が強い。
「まあ、そう言う一面を持つジン様も素敵ですね」
イヴは冷や水を掛けられたように冷静になり、
「……あなた、魔術で洗脳されてんじゃないの?」
子供っぽいところが素敵はないと言わんばかりに呆れた顔をみせる。
「いえ、ウチも普段は庭いじりやドライフラワー作りしかしておりませんから、お揃いで嬉しい限りですわ」
とコパルはいった。別にお揃いというわけではないと思う。
「それにそういったジン様がイヴちゃんもお好きなんでしょ?」
「違うわよ、別に好きじゃないし。そ、それに私がジンのこと好きだとしたら、コパルは嫌じゃないの?」
「嫌とはどういうことでしょう」
頬を赤くするイヴに、コパルは笑みを崩さず、
「ああ、なるほどですわ。イヴちゃんはジン様を独り占めしたいのですわね」と納得した。
「だから、違うって。なんでそうなるのよ」
「何故と言われましたら。自分が好きなった人が、物が、他人にも好きだと言ってもらえた方が、それが確かに素敵なものだと思えて嬉しいですわ」
コパルの言葉は納得できる。確かに好意的な方が、否定されるよりも嬉しいものだとは思う。けれど、こと一般的な恋愛感情に当てはまるかと言われれば、別だと思っている人の方も割合で見られる程度にはいるはずだ。当然、イヴは後者である。
困った顔を見せるイヴに助け舟を出すことにする。
「イヴ。話が変わるけど、戦乙女ってなに?」
「え? いま、その話? えっとコパルもいいかな」とイヴはコパルに確認する。
「ウチは構いませんわ」とコパルは微笑んでいる。
「戦乙女は私たちの種族。人間にそっくりだそうよ。私は人間なんて見たことがないけどね。人間と違うところは三つ。魔力で空を飛べるところと、生殖で生まれてこないところ。そして、人間の記憶を持って生まれるところ」
とイヴはいった。興味が逸れる話なのだろう。座学を始めるなら、とコパルはお茶を温めなおしてイヴを椅子に座らせた。
「なら私たちは前世では人間だったってこと?」と私はイヴに確認する。
「私も、あまり詳しくないから説明しにくいんだけど。戦乙女の核に一つの魂が宿って、その魂を補うために色々な無意識が集まり、肉体を構成するそうよ。だから私たちは核が破壊されるか、機能不全にならない限りは人の再生速度より早く回復するし、コパルが言っていたように成長が止まって老いることはないわ。その分、成長をやめた魂は腐ってしまうから寿命も短いけど」
イヴの言葉には色々確認したいことがある。特に一つ。
「私は以前のアイリスではないのか?」
「それはどうなのかな。戦乙女の身体は器だから漂っていた魂が宿っても不思議ではないからね。特に空になっていたアイリスの身体にはね。私は生まれた時にイヴって名前を貰ったけど、自分でイヴとして前世を生きた記憶はないわ。だから、私とアイリスは違うのかも知れないじゃない」
「でもウチは少し魂が変質していたとしても、前世でジン様と恋人だったという運命を諦めませんわ。その方がロマンチックですから」
イヴの言葉に急に目を輝かせたコパルが語る。
「そうだ。ジンがしばらくしたら来いって言ってたの忘れてたわ」
と、イヴは苦手な話題から逃げるように話題を変えた。
「ジンが呼んでたのか、なら仕方ない」
私はそういうと使っていた食器を片付け始める。
机の上の食器を片付けていると、コパルに肩を叩かれる。
コパルはシッと指で口元に指を当て、
「実はアイリスちゃんにお願いありますわ」とイヴを気にしながら話しかけてくる。
「聞いてから考える」
「イヴちゃんのこと、よろしくお願いします。あの子は例えどうすることも出来ないことでも、きっと無理しちゃいますから」
コパルは頭を軽く下げた。
「それはジンに頼んだ方がいい」
と、私はコパルの目をじっとみいる。
「いえ」とコパルは首を振り、
「ジン様にお願いするときはウチがあの人を諦めるときですわ」と儚げな笑みを浮かべた。
「私が机の上の掃除してる間に、二人ともなに内緒話してるのよ」
とイヴが訝むように眉を寄せて首を突っ込んでくる。
「ジン様に他の虫が付かないように、見張りをお願いしていたのですわ」
コパルは先ほどまでの儚さを隠すと、明るく返した。
「了解した。ジンのとこによってジンを燻す」
私はイヴ後ろに回り込む。肩をから掴むとゴーゴーと後ろから軽く押す。
「いや、そっちの虫じゃないでしょ。ああ、もうアイリス、押さないでコパルにさよならしてないでしょ」
ツッコミも小言も無視して、私はイヴを部屋の外に押し出した。
部屋の中からお辞儀されたのに、手を振り返して、私たちはコパルの部屋を後にした。
その日の夜だ。
二段ベッドが二つ置かれた狭苦しい四人部屋に三人一部屋で、すし詰めに貸し与えられた部屋の窓からは、水面に映ったように揺らぐ青白く輝く満月の光が差し込んでいる。
昼は私たちがコパルの部屋に長居し過ぎた為もあって、せっかくだから時間を有効利用しようという名目でローレンはジンに長々と指導されていたようだ。一番に布団に飛び込むや否や寝入ってしまった。
戻って来た私たちも指導を受けることになった。イヴには魔力を槍の形にしろと言い、私には身体がどれぐらい動くかの確認は怠るななどと、もはや魔術と関係のない指示を出してきた。こんな一体なにが変わるのかが分からない一人一人別メニューの訓練。イヴは合格を貰えず、最後まで粘っていたために宿舎にきたのは月が高く昇ってからだ。
ベッドで横になっていると、イヴは静かに部屋に入ってくる。
私の気配に気づいたのか、「ごめん、起こした?」と小声で確認してきた。
「寝れてなかっただけ」
「私も戦場に行く前の日には、あんまり眠れないのよね」
とイヴ自身と一緒くたにされた。私は単純に自分の匂いがしない布団が嫌いなだけである。まあ、口に出す必要はない。
イヴは私が寝ているベッドのふちに腰かけると、
「今日は月が綺麗ね」と物思いに耽るように呟く。
「私にそう言った趣味はないから」
「……いや、どういった意味よ」とイヴが眉をしかめる。
「あなたを愛していますって意味、……だそう。私のいた国では」と私は返した。
「いや、ないから。文字通りの意味だから」
焦るイヴの姿に、自然と笑みがこぼれた。
「ローレンが起きる」
「ごめん」と彼女は自分の口を押えた。
「私も、この月は綺麗だと思う。まるで海面でたゆたう月みたい」
「かいめん?」とイヴは疑問符を浮かべる。そうか、イヴは海を知らないのか。
「海に写った月は、波でずっと、ゆらゆらしているから。まるで、そこに海があるような月の光みたいで懐かしい」
「そうか、アイリスはうちに来てから、もう三か月になるものね。私も海、見てみたいな」
イヴの、うちに来てからという言い回しは違和感を覚えた。だが、それが一番丸い言い方だろう。
「海は素敵な所。おさかな、いっぱい。帰り方が分かれば、きっとイヴも連れてってあげられ……」
あっ、と思い出したように私の口から声に出る。
「探してなかった。帰る方法……」
その一言でイヴも察したのか、彼女は額を手で覆う。
「落ち着いてから、ジンと一緒に探したら?」
「そうする。その時はイヴも一緒に手伝ってほしい」
イヴは眉間に皺を寄せ、まるで困ったとでも言わんばかりの表情を覗かせたが、すぐに笑みに変え、「そう、出来ればね……」と含みのある言葉を返してくる。
「出来れば?」
その質問にイヴから笑みが消えた。数瞬すると身体を少し震わせ、
「寄生種。私たちが六百年掛けても一体も倒せていない巨人だからね」
と、彼女は憂いを噛み殺した。以前、寄生種の一体に大敗を喫したのを今の私は知らない。けれど、私は彼女が押し殺そうとしている感情を見逃さなかった。
大丈夫、と私が口に出来れば、どれだけ彼女は楽になれるのだろうか。けれど、それを口に出来るのは私ではない。それを口に出来るとすれば、それは私の知る限りでは彼しかいないだろう。
身体を起こして、イヴの手の上に手を重ね、
「一人で抱え込まないで」
遠くに行ってしまいそうな彼女に、小さく、だが、はっきりと言葉を掛けた。
イヴは少し驚いた表情を見せたが、
「私は一人でも大丈夫だから」と影のある声で優しく返してくる。
その影を……、いや影と言うのには些か抽象的な雰囲気を私は見たことがある。きっと、もう随分と昔のことだが、まるで昨日のことのように思い出せる。
「イヴ」と私は彼女の名を呼び、「昔話をしましょう」と切り出した。
彼女がこくりと頷くのをみて、私は始める。
「むかしむかし、あるところ…、此処ではない遠い場所に私はいました。言葉が使えないながらも不自由なく暮らしていました。
ある時、私に弟が出来ました。とても出来のいい弟だったので、彼の両親は彼に沢山の期待をしていました。また彼も、その期待に応えられるくらい必死に努力していました。
彼はとても夢見がちで、期待に応える傍ら、ずっと自分のやりたいことを考えていました。そして、夢から醒めた彼は自分の本当にやりたいことに気付いてしまいました。
彼はとても悩みました。親の期待通りに学問を修めていては彼の望みは叶わないと、彼は気づいてしまったのです。ですが、同時に彼の望む道には親からの助力を得られない。それどころか、あろうことか彼の両親はそれを邪魔しだしました。
彼は悩みました。悩み抜いた末に道を見失いました。
もっといい方法があったかも知れない、遠回りでも叶える術があったことでしょう。
でも、一番必要だったのは良き理解者、もしくは隣を歩いてくれる人だったのでしょう。
だって、彼の進む道はいばらの道、あるいは不毛な砂漠、そういった心が擦り切れそうな道だったのですから。だけど、私は……」
そこで私は話を一度切ってしまう。
駄目だ……、なんでもない事のように話そうとしても目頭が熱くなる。
「私は……」と必死に続ける。
「私は彼と話せなかった。小さい手では彼の背中を押すことすら出来なかった。あの日から、ずっと見ていたのに……。最後まで見届けてあげることすら出来なかった。だから、イヴ……」
重ねていたイヴの手を強く握る。
そうか。今なら分かる。ここにいる理由が。そして、私のやるべきことが。
「あなたは一人で抱え込まないで。私もジンも、なんならローレンも、ラピスや小さい子達だって、あなたにまだ何処にも行ってほしくないから」
イヴは微笑むと空いた手で、私の頭を優しく撫でる。
「私ね、思うの」と黙って聴いていた彼女はゆっくりと口を開く。
「アイリスが涙を流すぐらい思っていたのなら、きっと彼にも伝わっているし、それだけ思われているなら、その人は期待に応えてくれているから。だって、両親の期待には応えようとしていたのでしょう? それを私が証明してあげるわ。だからね、アイリス、約束しましょう。必ず妖精の傘に帰って、ただいまを言うって」
イヴは小指を立てる。ゆびきりという奴だ。
小指を結んで、約束事をして小指を離す。
それだけで私の目頭の熱さが段々と引いて、普段の落ち着いた思考が戻ってくるのを感じる。
「ありがとね」というイヴの優しい言葉に、私はただ頷いた。