第5幕 - 心的決壊災害防衛機構
匠イリアは校門の外で待っていた。
どうやら帰るように言われた指示と、心配の間を取ったらしい。板挟みの苦しい判断だった。
「いいですか、イリアくんが見たのは不審者です。もう一人いた子に取り押さえてもらって引き渡してもらってます。先生にも相談しましたが混乱や生徒の不安を防ぐために口外しないように、とのことです。ですよねルナちゃん?」
「う、うん」
釘を刺してイリアを帰すのを見て、共に校門を潜ってから壱岐宮ルナはひたすら西陽ホノカの斜め後ろを歩いた。
話はしなかった。今朝のこと、それから八年前のことを、どうやって話そうか思案するうちに着いたのは、ルナが予想だにしない場所だった。
「ここ……久慈薬神社だよね?」
神社の社務所に入り、奥の戸を開け、地下へ向かう階段を降りた先。目の前には、近未来的でかつ重そうな、厳重な扉。この奥に、一体何があるのかルナには想像がつかない。
「そうですよ。びっくりしたでしょう? なんてったってここのことは、他の誰にも秘密なのです」
そう言うと、扉の横に着けられたインターホンに近づき、ボタンを押しっぱなしにしながら話し始めた。
「情報課副士長、西陽ホノカ。オペレーター、応答を」
情報課、副士長。はっきり聞くと所属と階級らしきものだと分かる。そこそこの人数を抱えている場所らしいことをそれだけで思わせた。
『はい。どうしましたか』
インターホンが男性の声を返すとともに、頭上からジジッと音が鳴った。視線を上げると、天井の窪みの中から小さなカメラが二人を見ていた。
「同行者の承認をお願いします。名前は壱岐宮ルナ。『暫定消失』でしたが、登録情報の変更手続きをしに来ました」
『確認しました。どうぞ』
着いてくるように言う代わりに、ホノカはルナに微笑んだ。
おとなしく後に続いて長い廊下を抜けると、ホノカは小さな部屋にルナを通した。コの字型に置かれた二人掛けの長机三つと、それに見合った数の椅子、それから控えめな観葉植物と壁の一つにホワイトボードがある。
「あ、今お茶を出しますね」
たった今入ってきたばかりの扉に手をかけて、ホノカが言った。
「えっ、そんなわざわざ」
「きっと飲んだら落ち着きます。ルナちゃんはここで待っていてくださいね」
ルナが何かを返す前に、ホノカは部屋を後にしていた。まずは落ち着いて、それからゆっくり話そうということなのだろう。
ホノカが戻るまで手持無沙汰だなと、話すべきことを整理すべく立ったまま頭の中を探す。
しかし何かを思いつく間もなく扉が開かれ、するりと見覚えのある顔が覗いた。ルナ一人だと気付くと伺うような素振りをやめ、部屋に滑り込む。その様子は猫の様で少しおかしかった。
ホノカの不在を狙ったように現れたのは、ついさっきグラウンドを跳ね回っていた湊辺カムイだった。服は着替えられており、私服には見えないデザインのアウターを着ていた。ここの施設の支給品だろうか。
手にはぺらりと一枚、片面に何かの書かれた紙を持っていた。
彼は扉を慎重に閉めると、ルナを正面に見据えて口を開いた。
「防衛部Ⅱ類副士長、湊辺カムイだ。たぶんあんたと同い年」
ホノカと違う所属、同じ階級。そういえばカムイと呼ばれていたのを聞いていたなと思い出す。
けれど、正直なところそれだけだ。
彼がホノカの目を避けてこの部屋にきた理由はまだ分からない。
「西陽ホノカの担当していた、壱岐宮ルナで合ってるよな?」
是、と返す場面だったのだろう。少なくとも、名前の問いかけに対しては。
しかしそれ以前に、おいそれとは咀嚼できない言葉を聞いた気がした。
「ホノちゃんの、担当?」
カムイはグラウンドで、ルナをホノカの友達と称したはずだ。その、はずである。
けれど──担当。
ホノカは八年前から単なる『担当』、自分は監視の対象で、それはつまり親友どころか友人ですらなかったということなのだろうか。二人で笑って過ごした八年間は、ホノカにとってはただの仕事に過ぎなかったのだろうか。
「違うのか?」
今にも舌打ちをしそうな勢いでカムイは顔を顰めた。手に持っていた紙に視線を落とし、じゃあこれは、と何かを考え始めてしまう。
「ううん、私がルナ。それは、そうなんだけど」
「うん、だよな。そうであってくれないと困る」
とにかく、自分の名前だけは肯定しておく。
満足いく回答が得られたようで、顰め面はさっさと放り出して一番手近にあった椅子に座った。不意に出た友人の名前について、追及する暇は与えられなかった。
「早速だが、呑んでもらいたい提案がある」
提案とは口にしているがその語気は強く、要求と言う方が適切だろうと感じるほどだ。
ほぼ初対面の自分に対して一体何を言い出そうとしているのか、予想はつかない。
カムイは指でトントンと机を叩き、書面を見るように促した。それに従って机に近付き視線を落とすものの、大混乱の脳に言葉は何一つ入ってこない。何やらと短く書かれた文章の後に、丁寧だが大胆な字体で知らない署名がなされていた。
その下には、おそらくは自分が署名すべき空白。
「ここに、『心的決壊災害防衛機構』に所属してもらいたいんだ。防衛員として」
「……は?」
いっそ滑稽なほどの素っ頓狂な声が出た。
「あんた、『第六感』を持ってるだろ、こういう力を」
カムイが掌をルナに見せるように広げると、その軌跡をなぞってきらきらと水の塊が現れた。それは肌を足場に立っているスライムのようだった。
「だったら! 隠さずに、自分のためになるように使うべきだ」
宙に現れた水を前に、寒いものが背中を通った気がした。室内で見るそれはあっという間にこの空間を満たしてしまいそうな気がして、あまり直視していられない。
ルナが少し身を引く様子を見せると、彼は水をするりとどこかに仕舞い込んで、とにかく、と紙に視線を移した。
「こうして許可も得てる。あとは、あんたが名前を書くだけ!」
「ちょっと、ちょっと待って。訳がわからない」
何かを焦っている様子の彼に、ルナはストップをかけた。所属だの許可だのと、何の話をしているのかすらついていけない。
ルナの制止の上から、食らいつくように畳みかける。
「あんたにとっても悪い話じゃないはずなんだ」
自分にとっても、という意味は分からない。
何から言葉にすればいいのかと口をパクパクさせていると、口の代わりに背後の扉が開いた。
「お待たせしたのでありますー」
聞き慣れた声に束の間の安堵をする。
ホノカがお盆を抱えたまま、器用にも肘でドアノブを倒していた。お盆の上ではガラスのコップに入った冷たそうなお茶が二つ、その水面を揺らしていた。
「あれ、カムイ君もいたのですか。そしたらコップが一個足り……」
扉が開く様子を見ていたカムイが、ホノカが言い淀むと同時に「あっ」と零し、机の上の紙にバシンと右手を乗せていた。
記された内容を読ませまいとする行為だが、もう遅い。目に入ってしまったからこそ、ホノカは些細な不足を言い終わる前に言葉を途切れさせたのだ。
なるほど、とルナは独り心の中で納得する。
彼が焦っていたのは、ホノカが帰って来る前に自分を説得しようとしていたからだったのか、と。依然として所属させたがっている理由は不明なままだったが。
ホノカの背後でパタリと扉が閉まり、それを合図にしたかのように彼女は噴火した。
「それ……それは……! ここにあってはならない文書であります! 何勝手なことをしてるんですか!」
お盆が揺れる。つい、ルナはコップのお茶を見てしまう。
応えるようにカムイも席を立ち、隠すのは諦めたのか文書を堂々と持って見せた。
「あってはならないなんて、どうしてお前が決めるんだ。これを使うか使わないかなんて、まだわからないだろ!」
ぐっとお盆を持つ手に力が入る。音に先んじて開いた口からは、ホノカが言葉を慎重に選んだことが伺えた。
「これはルナちゃんのご両親の意向でもあるのです」
「……は? 親が何だっていうんだ」
酷く冷たい声音で言い放ち、カムイはホノカから一歩遠ざかる。まるで、その土俵にはとても立ちたくないとでも言うように。
「親がどうした。他人の勝手に決め付けた選択が正しい保証がどこにある? 自分の人生を最後まで舵取りするのは自分自身だ」
なぜか、ルナの両親が話題に上がっていた。この騒動に親が一枚噛んでいるとは予想外も予想外だ。八年前の話だって、夢の話だと言って信じてくれなかったのだから。
だけどそれはそれ、これはこれ。
そろそろ力を緩めて欲しい、とルナはホノカの手元を見た。今にもお茶が溢れそうにコップが揺れている。
「その紙一枚でルナちゃんの沢山の選択肢が奪われるんです。今まで通りの生活を壊さないでください」
その紙切れはそんなに大層なものだったのか、とルナは驚いた。説明不足が過ぎて、重要さも何も認識できていない。そもそも何の話をしていたのだったかさえ分からなくなる。
「それで守った気分になってるだけだよな? この紙は奪うものなんかじゃない。増えた選択肢のうちの一つを、ただ提示してるだけだ」
「う、うううー……」
何かを返したいが言葉にならない、そんな呻き声を零しながら、ホノカの目はカムイを避けてルナを見ていた。
「ホノカはルナちゃんの味方でありますよ!」
ホノカはカムイの背中に回り込み、すなわちルナとカムイの間に入って隠すように立って、言葉を続けた。
「どうせカムイ君なんて、ルナちゃんのことをさっき知ったばかりなのでしょう!? カムイくんこそ勝手に」
「はい、ホノちゃん、ありがと」
近くに来た今が好機とばかりにルナは手を伸ばして、「え?」と気の抜ける声を上げたホノカの手からお盆を剥ぎ取って机の上に置く。これでお茶の安全は確保され、一安心である。
「そして、はい」
コップを一つずつ、二人に差し出す。「はい」ともう一押しすれば二人とも素直に受け取った。
「とりあえず飲んで」
「えっ、でもこれは」
ホノカから反論。カムイは怪訝そうな顔をしてコップを見るばかりだった。
「まずはお茶を飲んで落ち着くんでしょ?」
そう言って手で煽るようにすると、やっと二人は冷たいお茶を飲み下した。
二人がどこかへ席を外してしまう前に、ルナは自分の鞄から水筒を出して一口飲んだ。三杯目を淹れてくると言って逃げられては話が進まない気がしたからだ。
「よしこれで三人とも落ち着いたよね。そうでしょ?」
確認を取るように聞けば、特に異論は上がらなかった。
「それで私、知らないことが多過ぎて何もわからないんだけど」
どうやらルナの話をしているらしいことは確かなのに、当の本人を置いてけぼりにするのはいかがなものか。詰問するようにカムイの目を僅かに見上げ、ホノカの目を反対に見下ろす。
しばらく見ていると、カムイが元の座っていた椅子に戻り腰を下ろして答えた。大きな溜息を前置きにして。
「説明しようにも、あんたが《《ここ》》と最低限の付き合いしかしないと言うのなら、ほとんどのことは教えられないことになってる」
ホノカの表情が少しだけ曇った。もしかしたら教えられないこと自体も、本来なら秘密だったのかもしれない。
カムイは続ける。
「つまり、あんたがその力を使って人助けをする気があるのか、それともそんな力は持っていませんという顔してこそこそ隠して生きていきたいのか。どっちか決めてもらわなきゃならねぇんだよ」
ホノカは口を挟まない。それでも複雑な思いを抱えたような顔をしていた。
ルナは覚悟を決めて口を開いた。昔に受けた不信の言葉を腹の奥底に押し込めながら。
「……八年前の『枯木の樹海街』のこと、もしかしてと思ったんだけど、二人は……何か知ってる?」
小学二年生の自分が一瞬の洪水の中で見た、あの印象的なサクランボの木。
握っていた一粒を芽吹かせ、成長させ、泥水の中から地上へ自身を押し上げた力。
今朝の池で少年を助けた時、それはルナの中で不確定な幻から真実へと姿を変えた。
そしてつい数十分前には、ルナの中だけの真実から、ホノカ達と共有する現実へと広がった。
この組織は、その力に名前をつけ、確かな形を与える術を持っている気がした。
「知っていますよ」
ホノカは顔を上げ、ルナを真っ直ぐに見据えていた。
「ここは、ルナちゃんの見た事実を確かに記録しています」
事実。記録。
今のルナにとって、なにより力強い肯定の言葉。
「……当たり前みたいに信じてくれるんだね」
瞼が勝手に力んだのを感じた。瞬きと深呼吸でそれをゆっくりと抑え込む。
「私は八年前、この力で助かった。けどその話をしても、誰も信じてくれなかった」
救助を見ていたはずの母でさえ、その記憶を否定したのだ。ルナの中の何かを確かに動かした、あのサクランボの木のことを。
だからホノカやカムイともまた、簡単には共有できないと思っていた。例え目の前でやって見せたとしても。
「悲しいのとは、何か違う……そういう……そういうものなんだって思い込んでた」
ペンを取り、既にされていた署名の下に、自分の名前を書いた。
「私もここで、この力を使いたい」
ルナの知らない何かを知っていて、ホノカはそこからルナを守ろうとしていたのだろう。それはひしひしと感じていた。それでも、
「持ってるんだ、本当に。だから、この力は私が、やるべきことのために使いたい」
ホノカからの反応はなかった。ただルナの手元を見つめていた。
何と言葉をかけるべきか迷っていると、ホノカは口を開いた。
「いっぱいあります」
そう言って、ルナを見るとへにゃりと笑った。
「お話ししたいことは、たくさん。でも、すぐには上手く、言葉にできないです」
笑顔に合わない下がった眉尻はもどかしさの表れだろう。それでも彼女は話すことに決めているようだった。
グラウンドに踏み出す前の自分を思い返せば、ルナにとって最善の結果だ。
ルナの前から静かに紙が抜かれ、カムイの手中に収まった。
「俺はこの紙を提出してくる」
そう宣言して彼は席を立ち、扉を開ける。
「じゃあな、お疲れ」
手の代わりに紙をひらりと振ってカムイは立ち去った。
後にはルナとホノカだけが残された。