第8幕 - 疑惑の大水
イリアは自分の担当しているエリアから、カムイのいるエリアに向かって足を進めていた。
カムイと通信が繋がる気配はなく、そこまで広くはないというのに、なかなか先へと進めない。歩道は無事だが所々瓦礫と化したアスファルトが乗り上げて行く手を阻んでいる。道路は当然のように酷い有様で、この状況では自動車も自転車も使えそうにはない。
体力を温存するために、普段のトレーニングと同じペースでイリアは走った。竹刀を背負ってではあるが妨げになったりはしていない。むしろ自然と速度が上がりそうになるのを押さえ込んで、カムイと通信が繋がることを願ってひたすらに足を動かした。
走りながらに、思考は状況把握よりも別の方へと向いた。
ついさっき、同級生であり心災防衛の同僚でもあるホノカが敵地で危険な状況にあると分かったというのに、ずっと別のことが頭を占める。先月から消息を絶ち、イガルタに化したと憶測されていたショウブがイリアにとっては気掛かりだった。
数時間前にはカムイとルナの前に現れたという叔父の姿を、イリアは一目見てすらいない。一度もまともに話をできずに、敵対している現状に不満がある。
自分勝手な考えだという自覚はあった。心災防衛の防衛員という立場を考えれば、何よりも市民の安全を優先するべきだ。けれど見知らぬ街の人々や同級生達よりも、血の繋がりのある家族のことを考えるのは果たしておかしいだろうか。
ショウブがイガルタになったことを聞いたときの母の顔が忘れられない。どうしてこうなってしまったのか、ショウブに対しては憤りと、同じくらいの心配がある。カムイからイガルタ化した人々は救うべき被害者だと聞いて、気持ちは心配に傾いた。
『イリアくん聞こえるかな? そっちはカムイくんと繋がったかな?』
思考が余所事にもっていかれ、堂々巡りに陥りそうになった頃にコウサから通信が入った。周りを見ないまま駆けていたせいで、危うくその場で転びかける。
「えっと、まだぜんぜんです。もう湊辺君の担当地域が目と鼻の先まで来てるんですけど……」
『そっか……じゃあそろそろかな……周りに異常が見られたらすぐに教えてほしい』
「異常、ですか」
イリアは立ち止まらないまま目を凝らした。瓦礫の凹凸の先をよく見ると、きらきらと道路が輝いている。陽炎のように不確かなものではなく、日光を反射する何かが確実に存在している。
「……何かが道を覆っているのが見えます。あれは……水?」
近付く程に道の状態が鮮明に見えてきた。それは水で間違いない。不可思議な点を挙げるとすれば、それは水溜りのように窪みに溜まっているのではなく、地面から数センチの厚さをもった水であることだった。
見えている範囲の端では二センチ程の厚さだが、奥へ行くほどその厚さは増しているように見える。厚い箇所では大人の膝丈の半分くらいにはなりそうに思えた。
「コウサさん水が……これって……」
『……やっぱり洪水の報告は本当だったみたいだね』
「湊辺君が戦闘中なんですか? だったら早く合流しないと」
水を前にしてイリアは立ち止まり、この先で行われているであろう戦闘に想像を巡らせようとした。
『うん、そうなんだ。イリアくんにはカムイくんとの合流を優先してほしい。ただ状況が分からないから遠くから様子を伺って、危険がないかどうか確かめてからにしてほしいんだ』
「イガルタとの戦闘が予想されるのならルナさんも一緒に行った方がいいんじゃないですか? 湊辺君の水とも相性がありますし」
『いや、それなんだけど、ひとまずイリアくんだけで向かってほしいんだ』
要領を得ない指示だった。合流を優先しておきながら遠くから様子を伺うという半端さに、第六感の相性を考えれば自分よりも向いているであろうルナを同行させない采配。どうにもイリアは疑問を感じた。
駆け出していた足を止めて尋ねようとした時だった。
『イリア君、そっちはどう?』
「なぜ僕だけで向かうんですか?」
『え?』
「あっ」
割り込みを掛けたルナとの通信に、拠点への返答が乗ってしまった。なんらかの考えの元でコウサがイリアのみに指示を出していたのだとしたら望ましい状況ではない。すぐにでも誤魔化さなければ、勘付かれてしまう。
「ルナさん」
『それ、コウサさんへの返事?』
言い回しに聡いルナ相手に、小手先の足掻きをする時間すらも作ることはできなかった。
三人の通信が互いにオープンになっている状態のインカムは、小さな音でコウサの嘆きを伝えていた。カムイと連絡が取れなくなった問題を受けて、子機の権限を強くしていたままだったのが裏目に出たと言える。
『コウサさん、カムイに何かあったんですか? この指示の理由は明かしてもらえるんでしょうか』
ルナは状況を全て把握しているわけではない。けれどイリアの言葉から、自身が疎外されようとしていることを知った。
その指示には納得がいかないが、しかし理由を聞くまでは強く意見しない。そういう姿勢が表れた質問だった。
『言いにくいところだけど……今、心災防衛ではカムイくんがイガルタに与していると疑わざるを得なくなっている。今は落ち着いているけれど、突然何もない場所から洪水が始まったんだ。しかも連絡も取れないときている」
イリアは息を飲んだ。満々とたたえられている眼前の水に頼もしささえ感じていたのに、一瞬でそれらが驚異の対象と見え方が変わった。
けれど、だとしたら尚更ルナを同行させない理由が思いつかない。過去に古世守イトナの第六感の暴走を鎮圧した際にも、カムイの『氾濫分子』に押し勝った実績がある。相性的に有利な第六感を保有する防衛員に対応をさせるのは鉄則のはずだ。
『彼と君の、イガルタに関する直近の共通点は?』
黙り込んだイリアを他所に、コウサはルナに説明を続けていた。
『……要求を伝えに来たショウブと、対面して会話をしたこと……』
『そ。既に二人ともイガルタと接触している。そしてカムイくんは今イガルタ化の嫌疑をかけられている……心災防衛が何を懸念しているのか、分かるよね』
ルナとカムイは要求を聞いた後も共に居る機会は多く、様々な事を示し合せることができたと言える。片方に疑いが掛かっている二人を一緒にすることは、心災防衛にとってリスクである、というのがコウサの主張だ。
ルナがもしもイガルタの味方なら、隠すためには従う他なく、従わなければイガルタと見做される。もしもイガルタの味方でないのなら、変に反発するよりも素直に指示通りにした方が良いだろう。
『分かりました。じゃあカムイの方はイリアくんに任せた』
「もちろん、任せてよ」
言ってから、イリアは渇いた喉に唾を飲み込んだ。喉の粘膜に膜が張ったように突っ張って、声が少し震えていたような気がした。
「湊辺くんと合流したらきっと、みんなが『なぁんだ』って安心するオチを持って帰ってくるから」
自己暗示も含めて奮い立たせようと、そんな軽口を電波に乗せた。
『カムイ、大丈夫なのかな……』
ルナが何かを思い出すように呟いた。自身が向かえないと分かったことで、心配が増幅されたのかもしれない。
今イリアの目の前にある水は静かだ。時折吹く風が水面に細波を立たせる程度で、苛烈な戦いをしているとは思えない。
カムイはきっと大丈夫だ。イガルタにはなっていない。戦闘もまだ始まっていない。そうイリアは自分に言い聞かせた。
「見えてる限り洪水が街を襲ってるって感じじゃないよ。湊辺くんがイガルタになってるならもっと荒々しく水を暴れさせてるんじゃない?」
『そうかもだけど、洪水になるだけの水を出しておいて、それから何も動きがないのはおかしいでしょ』
「それは確かにそうだけど……」
『久し振りに会えたっていうケンジさんがイガルタだって分かって、調子を崩してたりしないかな』
『え、待って? カムイくんはもうケンジくんに会ってるの?』
通信を繋いだままだったコウサが、ルナの心配の言葉に疑問を示した。
『多分そうだと思いますよ。憧れてるって言ってた先輩だし、気後れして上手く張り合えてるのか心配で』
『そうか、そういうことなら……いや、うん? でも、カムイくんは条件も知ってるはずだし、戦闘中にそう易々《やすやす》と言葉を交わすなんてことは……』
『い、いえ? 仲良さそうに話してましたよ。その時はイガルタだって知らなかったから』
二人の会話が噛み合っていない気がし始めていた時、ルナの訂正の言葉がコウサのどこかのシナプスを繋げたようだった。
『あっ! 今対峙しているわけじゃなくて襲撃直後に会っていたのか! そうか! それならカムイくんを疑う必要性は限りなく低くなった!』
「『は、はぁ』」
イリアからも、ルナからも、訳が分からないというような間抜けな声が出た。
『ごめん、さっきまで僕が言ったことは頭から全部忘れて大丈夫。で、改めてイリアくん』
「はい」
『やっぱりカムイくんの援護に向かってほしい。そうするとおそらく、イリアくんとも連絡が付きにくくなるから、ルナさんには中継地点として今のエリアに残ってほしい。救助対応をしながら中継を担うなら、汎用的な第六感のあるルナさんが残るほうが適切だ』
『そういうことでしたら……多少歯痒い思いはしそうですけど』
イリアがカムイの元へ向かい、ルナが残る。前と采配が変わった訳ではないが、不安や疑問はない。納得のできる指示だった。
さしあたっての問題はカムイと合流する手段だが──
「あっ! コウサさん!」
『どうしたんだいイリアくん』
気付いたと同時にイリアは駆け出していた。ずっとその場で滞っていた水に、突然大きな変化が見られた。
「水が急に引き始めました! 広がってた水が分厚くなって動いていきます!」
『戦闘が始まったのかもしれない! 見失わないように追うんだ!』
水の中心には、それを操作している人物がいるはずだ。この洪水がイリアを導く道標になる。
イリアはカムイとの合流を目指し、アスファルトの向こうへと逃げていく水を追って地を蹴った。