第4幕 - 迷子の手蔓
それはあらゆる道路が揺らされた直後のこと。古世守イトナが目を覚ましたのは石切場だった。
顔を上げて目に入るのは白い大きな崖。花崗岩を切り出した跡地だが、長い間使われていないのか、表面には苔や地衣類が繁茂していた。そこから視線を横に動かせば大きな看板が目に入る。『石の工芸団地』と書かれた大きな文字は読めるが、それ以上小さな文字はぼやけてイトナの目は捉えられなかった。
ゆっくり起き上がると、イトナは自分が凭れていたものが壁ではなく磨き上げられた石であることに気付いた。まだ何も掘られていない石碑は真っ黒でありながら雲母が日光を反射して輝いていた。焦点を奥へと動かせば、イトナの顔をはっきりと写す鏡となった。
「ここ……どこだろう」
不安げにイトナは呟く。普段から思ったことは口に出してはいたが、今それに意見してくれる者は周りにいない。
イトナにとってこの石切場は全く見覚えのない初めて来た場所であった。記憶をいくら辿ったところで、イトナにここが何処なのかなど分かるはずがない。
ほんの数分前にはイトナは公園にいた。それもこの場から三キロメートル以上離れた場所に位置する大型の公園である。
気を失うのは今回が初めてではない。先月に第六感を発現させてから、イトナは意識が途切れることが多くなっていた。きっかけは単純で、他人の意識に入り込むときのように頭部に強い衝撃を受けると簡単になってしまう。とはいえその程度の後遺症。一分と経たずに失神からは回復する。けれど、目を覚まして知らない景色が広がっているのは初めてのことだった。
「お母さんたちは……?」
口に出したところで現れることもない。声は岩肌に吸い込まれて消え、静けさがその場を包んだ。
目のリハビリと体力作りを兼ねて、母親と共に公園に散歩に来たことまでは記憶を辿ることができる。公園の並木道を通り、花の展覧会を見て、ついさっきまで池でコイやカメを眺めていたはずだ。
考えたところで答えは出ない。ただ知らない場所にいるという事実だけが目の前に広がっている。
「……何かしないと、はじまらないよね」
イトナに連絡を取る手段はなかった。両親も、従姉のルナも、友達のキズナもこの場にはいない。
もやもやと膨らむ不安を押さえつけて、ぼやけた視界の中でイトナは足を進めた。その先に何があるのか分からなくとも、できることはそれだけだった。
ルナはイトナのことで頭が一杯になっていた。
心災防衛も拠点襲撃に加えて道路が破壊されたことで次々と上がる報告に対応を追われていた。
ホノカとイリアによって風見ヶ丘高校からの機器が運ばれた甲斐もあり、拠点の外とはいえある程度の設備を揃えることが叶った。そうは言っても有り合わせの設備であり、十分な活動が阻害されている感覚は否めない。
何より目紛しく変化していく状況の中で、イガルタから従妹を要求されたという事実が、ルナの心をぐらつかせる。
「イトナちゃんの親御さんと連絡がとれたよ」
部屋に入ってくるなり、石津モエはそう切り出した。
相変わらずルナに下された指示は『待機』のままだった。イガルタである御築ショウブと対峙した後、心を落ち着けるようにとカムイとは別にされたのである。
一人心細く待つことになると思われたが、ホノカはルナの隣に寄り添っていた。ただそこに居てくれるというだけで、ルナの心は安心を感じる。
「ただ、親御さんの目の前でイトナちゃんは池の中へと消えてしまったらしい。勿論溺れたわけじゃないだろう。これはイトナちゃんに限ったことではなく街中で起きてる現象と同じ──鏡だけでなく水面や反射率の高い物体のほとんどが空間を繋げるワープホールと化している」
「柵ジュリの『鏡面界域連絡』ですね」
ホノカは現象の確認をした。今街では地震に引き続くこの怪現象によって人々が混乱している。真実を説明するわけにもいかず、かといってこじつけられる合理的な説明もない。消防や防衛員では対応しきれていないのが現状だった。
「ああ。しかも繋げられた行き先はバラバラ。混乱を作るためだけに、煩雑にあらゆる位置に繋がるよう組み替えられている。まるで巨大な迷路だよ。身内の不始末……なんて可愛いものでもないな」
やれやれ、というようにモエは肩を竦ませた。
建物や道路を破壊したのも、街を迷路に仕立て上げたのもどちらも元は心災防衛の防衛員だ。
「身内って……前から思ってたんですけど、モエ先生はイガルタに優し過ぎます。一体どっちの味方なんですか」
ルナは机に視線を落としたまま尋ねた。
「心災防衛は第六感によって起きた不幸の被害者の味方だよ」
そのはぐらかすような言い方に、ルナの気持ちはざわついた。
「……モエ先生は、イトナを引き渡すつもりなんですか」
「イトナちゃんと連絡は取れなくてね。どうやら運の悪いことに携帯電話は持っていないようだ。まあ、先月まで目が見えてなかった子が持ってるって方が稀だよね。安否確認はまだできていない」
「……そんなことは聞いてないです。イトナが無事かどうかも気になりますけど! 心災防衛はイガルタの要求に従うつもりなのか私は訊いてるんです!」
無意識のうちにルナは立ち上がっていた。両手を机に突いて、自分でも考えられないくらい語気が苛立ちを帯びている。
背中をぽんぽんとホノカに叩かれて、はっとルナは我に返った。
「ルナちゃん落ち着いて。大丈夫であります。ここは人を守るのが使命の組織です。守るべき人を危険に晒すことなど決してありません。ですよね?」
その言葉は、ホノカがルナの味方であることを教えてくれる。次にモエの口からどんな言葉が出てきたとしても、ホノカのことは信じることができる。
「無論だよ。こんな攻撃的な組織に保護対象者をみすみす渡すような判断を下したりはしないさ」
そうはっきりとモエの口から、最高責任者の口から聞くことができてルナは少しだけ安心できた。
「重要なのはイトナちゃんの安全さ。安否確認、居場所の特定はイガルタからの要求をもって最優先事項となった。行方不明であることが知られればイガルタに拉致される可能性もあるからね、どうあっても『古世守イトナは心災防衛の手の内』というスタンスを取らなければならない。既に防衛員達には捜索指示は出してある……道路があんな状態で、難航しているけれどね」
ルナはショウブと対峙した時のことを思い返した。道路のアスファルトが波打って割れ、瓦礫と化したのだ。それは仮拠点である寮の前だけに限らず、最初の揺れが観測された範囲においてアスファルトで作られた道路全てで同じ現象が起きている、と聞いている。
つまり風見ヶ丘の街全体が、車では移動不能な陸の孤島となったのだ。
「Ⅱ類の人員を出し惜しみできないね。車が出せないんじゃ捜索手段は人の足と情報収集に限られる。どうにか三時間以内にイトナちゃんを見つけたいところだ」
「しかし引き渡しまでに三時間もの猶予を与えるだなんて……元心災防衛関係者がこちらで意見が割れ、話し合いになることを考慮したのでしょうか」
ホノカは具体的過ぎる数字に対して何かしら疑念を感じているようだった。
「いや、そんな配慮は考えてないだろうね。三時間というのは猶予じゃない。おそらくキョウスケが次に『共鳴る震駭』を使えるようになるまでのインターバルだ、とこちらに想定させているんだろう。どこまでも自分達の都合でしかない」
モエはそう分析を話した。
想定させている、というのは遠回しな脅迫ということだろうか。
「キョウスケの第六感は効果が強い分だけ負担が大きい。その情報を心災防衛が知っているのを見越した上で『要求に従わなかった場合には即座に報復ができるぞ』と暗に言ってるんだ。プレッシャーさ。『賢明な皆様なら市民の安全と少女一人の価値など比べるまでもないだろう?』って煽ってるんだ」
その物言いにルナはついモエを睨んでしまった。今モエを恨むことは全くお門違いであることは分かっている。けれど心臓の内で引き詰まるような緊張が、どうにもルナの平静さを欠かせた。
「勿論比べるまでもない。市民もイトナちゃんもどちらも私達は守る。どんな手立てをもってしてもね」
「しかしイガルタの脅しがハッタリでなければ街に更なる被害が出ることは避けられません」
ルナの思考が先に進めないのに対して、ホノカはモエと建設的な議論ができる程に冷静だった。モエの方もルナにイトナの現状を伝えるだけではなく、ホノカと話すことで現状を整理しようという意図があったのかもしれない。
「正直ハッタリだと思うんだがね。六年前の実力を鑑みればキョウスケに第三波の攻撃をする余裕はないと思うよ。たった三時間のチャージでほいほい大規模心災並の攻撃がされたら堪ったもんじゃない」
「六年の内に第六感の効果が強力に成長している可能性はどうでしょう?」
「ゼロだと言い切れる。奴らは成長しない。それにイガルタは人的被害を積極的には出さないという歴然とした傾向がある。今回だって廃ビルと道路を破壊しただけに留まっているのがその証左だ。次もそうだという保証はないが、可能性は低いと私は見ている」
人的被害を出さない、という言葉にルナは疑問を感じる。他人を洗脳するというのはその人から生活を奪う歴とした被害ではないのだろうか。肉体的な怪我を負わせていないだけで、イガルタにされた人々やその家族への被害は計り知れない。
現状イトナを要求していることだって、これから傷付けようとしている意思表示にしか思えない。イトナを決して傷付けさせたくない。それがルナの想いだった。
「まだ一方的な要求をされたに過ぎない。イガルタと心災防衛に必要なのは話し合いだ。事情が分かれば、歩み寄りの余地もあるかもしれない。イトナちゃんを保護した上で本人の意見も聞きながら妥協案を探るのが理想かな」
「けどもしもイトナが見つからなかったら……」
「交渉のテーブルにすら付けないね。おじゃん、のみならずイガルタは血眼で街中ひっくり返して探し回るだろう。そうなったら心災防衛の援護を受けられないままイトナちゃんが向こうの手に渡ってしまう」
血の気が引くのをルナは感じた。
脳裏に浮かぶのはイリアの顔だ。御築村にイガルタが現れ、叔父が洗脳されてしまった報告を受けた時のイリアの顔は現実を受け止め切れていなかった。人一倍家族を大切にしているイリアがどれ程傷付いたのか、当事者ではないルナには想像がつかなかった。
もしイトナが、あのショウブのようにイガルタとなってしまったら。自分はそれに、耐えられるのだろうか。
「大丈夫です」
小さな暖かさがルナの手を包んだ。ホノカはルナの手を握って、強い意思の籠った目を向ける。
「まだ、奥の手があります」
一時の安心を与える口先だけの言葉ではない。人を守る側の人間の、決意を感じる言葉だった。