第1幕 - 災禍の予震
夏休みを目前に控えた七月、週半ばの平日午前のこと。
眠い、と感じる程度には穏やかな空気の流れる教室で、壱岐宮ルナはノートを前に頬杖をついていた。一時間が長い。何度時計を見上げても、長針が進んだように感じられなかった。
授業が終わるまであと十分。時計の針は残り六十度がなかなか進まない。
そんな折、あらゆる災害がそうであるように、それは唐突にやってきた。
掲示物が揺れ、筆記用具が転がり落ち、窓や机がガタガタと音を立て軋む。何人かの生徒は椅子を押しのけて机の下に潜り、教卓の前に立っていた教員はその場に座り込んでしまった。
これは地震だ。そう形容して、おそらく間違いではない。けれどこの揺れは、どこか奇妙だった。
予震は無かった。校内放送も、携帯電話の速報も鳴らなかった。
そしてこの揺れの奇妙さはなにより、縦揺れとも横揺れともつかない、まるで建物のみが『振動』をしているような感覚にある。規則的で一定の振動は、日常の枠組みから逸脱した現象であると直感に訴えかけるには十分な違和感を孕んでいた。
揺れが収まると、それを見計らったようにやっと校内放送がグラウンドへの避難をアナウンスする。ルナが自身の左腕にある腕時計を見ると、本来の授業終了まであと七分。実に三分もの間、この建物は揺れ続けていたことになる。
教員達の指示が廊下を飛び交い、生徒は屋外へと誘導される。その途中、ルナの肩を叩く手があった。
歩みを止めずに振り返っていくらか視線を下げると、その空間だけ切り離されたように意思を持った瞳と視線がかち合う。周りを歩く不安げな顔とは違う、普通の高校生としては異質な、親友の最近知った面が露骨に表れていた。
「ホノちゃん?」
ルナの肩を叩いたのは西陽ホノカだった。人差し指を唇に当てて、真剣な目でルナを見ている。
「おはしも、ですよ」
そんなおまじないを唱えて、すっとルナの手を取ると、ホノカは折り畳んだ小さなメモを握り込ませた。ルナが返事をするよりも早く、ホノカは人の流れに合わせて進み視界から消えていった。
ルナは他の生徒の目に触れないように手の陰に隠しながらメモを開く。そこには『親が大変らしいので早退しますと先生に告げて裏門へ』と、簡潔な走り書きがされていた。
それを読んでルナは確信する。これが災害であることは確かだが、災害は災害でも自然災害ではない。ルナもまだ知ってから三ヶ月が経つばかりの事象。
これは人の心が絡んだ特別な災害だ。
グラウンドに出てすぐ、メモに従って行動し、素早く校舎の北側にある門へ向かった。アクセスが悪く、日陰であるために湿っぽい。ここが裏門と言われる所以だった。
裏門には先客が二人。眼鏡を掛けた一人は冷たそうな石の柱に体重を預けており、長身のもう一人はそわそわと落ち着きなくその場で行ったり来たりを繰り返していた。湊辺カムイと匠イリアだ。
ルナの立てた足音を聞きつけてか、イリアがぱっと顔を上げてこちらに駆け寄った。
「まだ二人だけ?」
「うん。西陽さんはまだ」
ルナが尋ねると、イリアは簡潔にホノカの不在を答えた。
「ルナさんも西陽さんから?」
「そう。ここに来るようにメモを渡されて」
「やっぱりこの地震はそういうものなんだよね」
「だと思う。カムイは何か聞いた?」
黙って足を組んでいるカムイにルナは質問を投げかけた。
「まだ何も聞いてないな。けど情報課に真っ先に話が行くような出来事ってことはそういうことだろ。なぁホノカ?」
カムイが目を遣った先、ルナの背後からホノカが現れた。ここまで走って来たのか肩で息をしている。 ホノカ自身は避難の標語を守らなかったらしい。
「ええ。今から今回の任務についてお話しします」
一度大きく深呼吸をして息を整えると、ホノカは口を開いた。額に滲んでいる汗からも学校中を走り回ってきた事が窺える。既に片耳にはインカムを装着しており、準備は万端に見えた。
「まず今回の現象とその被害についてです。三人も違和感を感じたかとは思いますが、これは自然発生した地震ではなく第六感によって起きた現象です。街では今のところ約二十棟の建物の崩壊が確認されています」
それを聞いたルナは目を見張った。
確かにこの地震は避難を行う判断をするには十分に校舎を揺らした。けれど建物を壊すほど大きな揺れだったとは思えない。
ここがたまたま被害の中心地から離れており、揺れが小さかったのだろうか。
「被害の中心地は? 地震じゃねぇにしても震源はあるだろ。それに推定被害者数は? 捜索活動はもう始まっているんだな?」
ルナと同じ疑問を抱いたらしいカムイは次々と質問をぶつけた。それに対しホノカは首を横に振る。
「震源地は存在しません。この揺れは建物のみ……民間住宅以外のビルや学校施設などでのみ観測されました。地震計では地面の揺れを一切計測していません。また報告を受けた範囲は風見ヶ丘の中心部のみです」
「……普通の現象じゃないってことは分かった。それで? 被害者は?」
「いません、ゼロです。崩れた建物はどれも居住者やテナントのない廃ビルのみ……それだけでなく道路や隣接する建物に瓦礫を崩れさせることなく、全てビルの敷地内に収まっています。既にⅠ類の防衛員が消防と共に出場していますが、怪我人の報告もありません」
「心災じゃない。イガルタだな?」
「はい」
ホノカとカムイの冷静なやりとりが交わされる。それら端的な情報の開示にルナはどうにかついていけた。
既に心災防衛に所属して三ヶ月。いつまでも新米気分ではいられない。けれどルナの感覚では、この現象をイガルタのものとして断定できなかった。
「二人ともちょっと待って……イガルタが関係してるならモエ先生に言われたみたいに私達が今呼ばれるっていうのは分かるんだけど、なんでこれだけでイガルタって分かるの?」
ルナの質問を受けてカムイとホノカ、二人の顔が同時に向いた。
「被害の出し方が理性的過ぎるだろ。故意に騒動を起こす奴ならそんな配慮はしない。もしも心災なら暴走中で見境なし。で、人に怪我をさせないってことにこだわる傾向はイガルタ特有だ」
「それだけではありません。判明しているイガルタの構成員にはこの現象を可能にする保有者がいることが分かっています。また街では異常な揺れ以外に不思議な『鏡』による迷子の報告も受けています。こちらも同じく保有者が判明しています」
ルナはカムイとホノカの説明を聞いて頷いた。『鏡』の話はルナも既に聞いている。
この現象を起こしている第六感、保有者、共々に正体が分かっているのであれば即断即決も可能だろう。速やかにホノカから通達が来たことも腑に落ちる。揺れに対し感じた不安も霧散した。
「『振動』は須金キョウスケ、『鏡』は柵ジュリ。どっちも心災防衛の元特務隊だ。そんな人達が攻撃を仕掛けてきたってことはイガルタも勝算を見込んだ上で仕掛けてるな」
「おや、カムイ君もちゃんと保有者のプロフィールを覚えるようになったようで」
「馬鹿言え。判明しているイガルタ構成員は全員覚えてる」
「保護対象者は?」
「今からテストでもするか?」
煽るように言ったホノカにカムイも自信たっぷりに煽り返した。それに対しホノカは安心したように息を吐く。
「いえ、満点の自信があるならそれでいいです。イガルタ相手に熱くなり過ぎてるかと思いましたが、平静そうですしね」
話しながらもホノカはちらりと時計を確認し、インカムに片手を遣った。追加の指示を受けながらまだ話すべきことがあるかどうかを見定めているらしい。
「……今のところ街でイガルタ構成員は観測されていません。現在、人的被害の防止と心災防衛の活動において目撃者を出さないためにⅠ類防衛員と消防が避難誘導に当たっています。ですからⅡ類防衛員の任務はいつ、どこにイガルタが現れても対応に出られるように拠点にて待機することです」
「た、待機?」
イリアが驚きの声を上げた。
「Ⅰ類の人達を洗脳させないために、僕たちは訓練してきたんじゃないの?」
「もしも救助活動中に首謀者が出てきたら、みんな持ってかれちゃう……」
イリアに続くように、ルナも己のうちにある不安を言葉に乗せて吐き出した。人を守るべき防衛員までイガルタとなっては更に被害が拡大する恐れがある。今もきっと街は混乱の最中にあるだろうというのに。
「二人とも落ち着いてください。今街はパニックに陥りそうになっているのをどうにか保っている状況です。依然としてイガルタの目的が不明なままで、闇雲に動いては取れる手段も限られてしまいます」
「でも僕は……ショウブおじさんみたいに望まずにイガルタに洗脳されてしまう人を少しでも減らしたいんだ」
街の人々だけでなく、心災防衛の職員に対しての心配もあっての発言だった。イリアの持つ仲間意識が、何か行動に出ないと落ち着かせてくれないのだろう。
「ならばこそです。そのための作戦をホノカ達よりもずっと多くのことを考慮した上でモエ先生やコウサさんが考えてくれています。今は従いましょう」
ホノカはきっぱりとイリアの意見を否定した。けれどそれを聞いて俯いたイリアに対し、ホノカはすぐ覗き込むように顔を上げた。
「……ですが何もせずにはいられないイリア君の気持ちも分かります。そうですね……高校での指示はホノカに任されていますし、実は通信設備の運搬がまだ残ってまして。イリア君には協力を頼みたいのです」
「……! うん、僕でよければ!」
「ありがとうございます。広域での任務では通信による情報が肝です。抜かりなく終えましょう」
やる気に満ち溢れた声で返事をしたイリアに、ホノカは微笑んで感謝を返した。
「それでは心災防衛も防衛員の出場が落ち着いた頃でしょうし、ルナちゃんとカムイ君は拠点に向かってください。モエ先生かコウサさんが詳しい指示を出してくれるはずです」
「オーケー。それじゃあまた後でな」
「被害者がまだ出ていないというだけで大規模災害になる可能性は十分にあります。他の防衛員も既に到着しているようなので急ぐ必要はないと思いますが、二人とも気を付けて」
その後一言二言交わすとルナとカムイは裏門を出る。そして心災防衛の拠点へと真っ直ぐに向かった。
風見ヶ丘高校から拠点までは徒歩で十分もかからない。本来ならばそろそろ二限目の授業が始まる時刻だというのに、既に下校ルートを辿っていることが非日常的な感覚を覚えさせる。また、下り坂であることも相まって、自然と二人は早足になった。
ルナとカムイが久慈薬神社の敷地に入ると、陽が樹冠に遮られて少しだけ体感温度が下がる。もともと人気がないことに異常事態の任務も合わさって、冷たく静かな空気が余計に緊張させた。
木々に囲まれた静かな道を抜けると、前方からコツコツというゆったりとした靴音がルナの耳に届いた。
久慈薬神社にやってくる人物は普段ほとんどいない。所属してからの三ヶ月の間に数え切れないほどルナは拠点を出入りしていたが、片手で足りる程しか職員以外の人間とは出会っていない。他に神社の敷地内にやってくる者といえば、お参りに来るお年寄りか子供くらいのものであった。
しかし緑を抜けた先、ルナとカムイの歩く参道の先に見えたのはお年寄りでも子供でもない。先を歩く青年の後ろ姿だった。
地味な配色の多い境内でその背格好は非常に目立つ。黒地にオレンジのラインが入った上着を着て、色素の薄い長髪を後ろで結っている。身長があまり高くないこともあって一見すると女性にも見えたが、その後ろ姿は男性のものだった。
その人物が視界に入ってから、カムイの歩調は途端に早まった。大股歩きから小走りに変わり、気付けば飛ぶように石畳を走ってその背中を追い掛けていた。何も言わずに駆け出したカムイに、ルナは理由を尋ねる暇もなく置いていかれる。
その足音に気付いたのか、先を歩いていた男性はゆっくりと振り返った。
「ケンジさん……?」
カムイの声は興奮と緊張が入り混じったように、僅かに上擦りながら震えていた。