第6幕 - 健康と多幸
『「もう大丈夫。すぐにでも走り出せる」』
インカムにイリアから声が届いた。カムイへと突撃をする準備が整ったらしい。ホノカはそれに応えるためマイクをオンにした。
「熱はまだですよね。そちらはどれくらいかかりますか?」
『「すぐ集められるよ。向こうのアスファルトが熱をたくさん持ってるみたいだから」』
「分かりました。それではこれより『病を治す魔法の鳥』への対処として、湊辺カムイ防衛副士長の救助を開始します。イリアくん、お願いします」
ホノカがそう宣言するとイリアはこくりと頷いた。
『「始めるよ。『熱暴躁』……ルナさんと西陽さんを除外……周囲に制限はしない……道路の方から特に……」』
イリアは目を閉じて長い深呼吸をすると呟き始めた。
第六感が発現して初期の頃は『使う』イメージを具体的にするために口に出した方が使いやすい。一月前のルナもそうよく言われていたため、イリアがそうしているのを見ると後輩になったことが現実的に感じられて、気が緩みそうになった。
ルナも突っ立ったままではいられない。援護のためにイリアの後ろに回る。地面は水を吸って少しだけぬかるんでいたが、いつでも動けるよう足を前後に開いて構えた。ポケットの中に常備している種のうち使いやすいキヅタの種を袋から出していくつか握り込み、いざとなれば直ぐに投げられるようにする。
『「よし。多分、これで十分じゃないかな」』
イリアが手にする竹刀の先端付近では、めらめらと音が聞こえそうな程に空気が揺らめいていた。暑そうに、イリアの額に汗の雫が浮いている。
本来イリアの第六感は自分自身に熱を纏う能力で、その際に火傷をしたりはしない。
けれど今イリアは竹刀すらも自身の手足の延長と見做し、熱を纏わせている。これはルナが植物を自身の手足と同等に扱うのとは根本的に違う感覚であり、第六感とは別の剣道の鍛錬による賜物と言えた。感情を火種にする能力だからこそ、竹刀に心を込め、剣先に自身の感情を乗せることができるのだろう。
「イリア君、お願いします」
『「うん、行ってきます!」』
イリアはカムイに向かって走った。ほんの十メートル。数秒もかからず、イリアはカムイに近付ける。
竹刀を構えてイリアは走ったが、カムイの水はすぐには動かない。突然の攻撃があっても十分に対応できる。
あとは片手でキズナを叩き落とすだけ──ルナもそう思った。けれど、異変は一瞬だった。
「えっ?」
ばつん、と竹の撓る音が響く。
竹刀の背に張られた弦が切れ、束ねる中結は落ち、竹刀を形作る四本の竹がバラバラになった。
イリアは急ブレーキをかけるが、集中は途切れて熱は霧散した。今攻撃されれば、防ぐ手立てはない。
「『全緑疾草』!」
ルナはイリアを守るためにキヅタの種を投げつけた。カムイは何故だか水で攻撃してこない。イリアに何が起きたのかは分からなくとも、拘束をしてしまえばそれで済む。
イトナを傷付けたくはなかったが、準備をしておいて良かったとルナは胸を撫で下ろした。
イリアはルナが種を投げた隙を使い後ろに飛び退くようにして一歩分退避をする。近距離だが牽制するように壊れた竹刀の剣先をイリアは向けたが、その竹刀には異常が続いていた。
竹刀は先端からどんどんと黒く焦げた炭のようになっていった。それを見てルナは、イリアが熱の操作を誤り焼け焦がしてしまったのだと思った。けれどそれが違うことを、イリアの困惑する表情が示している。
「これは僕じゃない! 湊辺くんに何かをされている!」
何かをされている。それが真実であることはルナも遅ればせながら気付いた。
投げつけた種が一つとして発芽していないのだ。
この場は工事現場であり、地面は栄養分のほとんどない花崗岩の風化してできた真砂土。だから成長が遅いだけならまだ理解できる。けれど発芽に必要な栄養分を溜め込んでいるはずの種から芽生えすら現れないことはありえない。
イリアはどんどん手元に向かって炭化していく竹刀をその場に放り捨てて更に距離を取った。カムイの足元に転がった竹刀はじわじわと炭になり続けている。
カムイと対峙するルナとイリアは、またしても膠着状態となった。
『「ルナちゃんイリア君、聞こえますか」』
インカムからホノカの声が届く。けれど後ろを向く余裕はない。イリアの置かれていた状況をルナも理解した。
「聞こえてるよホノちゃん。よく見えなかったんだけど、今何が起きたの?」
『「ルナちゃんの種が生えなかったのも、イリア君の竹刀が壊れたのも、どちらもカムイ君の『氾濫分子』によるものだと思われます。カムイ君の足元、竹刀をよく見てください」』
言われたようにルナは目を凝らして地面に転がる竹刀を見た。炭化していく竹刀も異常だが、微かに像がぼやけて見える。そこではイリアが熱を纏わせたときのように、奥の景色が揺らめいていた。
『「空気が歪んで見えるのは密度に差があるためです。けれどそれは熱ではなく、おそらく水蒸気によるものです」』
「あっ」
その説明を受けて、ルナは声を上げた。何が起きているのか、考え至った。
「もしかして、分解?」
『「はい、おそらく。種と竹刀、どちらも水素と酸素を奪い取られて脱水分解をされたのでしょう」』
「でも湊辺くんは分解が苦手で……他人の所有物に作用させるのは難しいって前言ってたよ!」
ホノカの説明にイリアは反論したが、目の前で起きている出来事は疑いようもない現実だ。
『「今カムイ君は本来のカムイ君ではなく、イトナちゃんの意識が入り込んでいます。普段と違う認識によって第六感を行使しているためかもしれません」』
ホノカの冷静な説明はそれだけでも十分に納得のいくものだった。そこに更にホノカは推測を加えた。
『「当初調査していた『病を治す魔法の鳥』は人の病気を治す効果を持っていました。この病気は心因性のものばかりです。つまり脳の状態をより良いものに変えることで、病気を治していたと言えます」』
「カムイの第六感をより強くしてるってこと、だよね」
『「はい。心に起因する能力である第六感は脳機能のコンディションに強く影響を受けます。精神構造に作用することでより強力で効果的に扱える、能力を使うのに最適な感覚へと精神を作り変えていてもおかしくありません」』
三人で話し合う間にも、竹刀の分解は進んでいたが柄あたりを残してそれ以上は炭にならなかった。お陰で分解の作用する範囲がカムイから数メートルもなく、ごく近距離ということがよく分かる。
けれど視覚的に見えやすい水に対し分解は及ぼされるまで目に見えない。加えて水の打撃などと違い、食らう規模によっては致命的となる。
分解能力は攻撃であると共に周りに近付けさせない防御をも担っていた。
そう状況を分析するうちに、ルナはあることに気付いた。
今の自分は、思考が冴え過ぎている。
普段の任務では終始オペレーターに指示を仰ぎ、共に出場したⅠ類の先輩から呆れられることさえあるというのに。
縺れていた思考の糸が解かれ正されたように、思うままに想像ができた。
そしてその理由にも、難なく思い至る。
「ホノちゃん、私さ、お見舞いに行ったときにイトナに『魔法』をかけてもらったんだ」
『「へ?」』
唐突にルナが話しはじめたためか、ホノカからは気が抜けたような声が返ってきた。
「頭をこつんってぶつけて、『苦手だったことができるようになる魔法』だって。つまりさ、私もカムイみたいにイトナの第六感をもう使われてるの。乗り移られたわけじゃないけど、今すごく頭が冴えてる」
「ちょっとルナさん、何言ってるの!?」
ルナの言葉を聞いていたイリアが声を上げた。ポケットを弄るルナにおかしな雰囲気を感じたのだろう。
「大丈夫、今操られてるとかそういうのじゃない。あー、えっとつまりさ、今の私は普段できないことがすんなりできそうな気がするってことなんだけど。私ならさ、イトナを止めれると思う」
『「それは……本当ですか? いえ、ルナちゃん、相手はイトナちゃんです。無理はしないでください」』
「ううん、大丈夫。無茶はしないし、カムイもイトナも、私が止める──やれるよ」
ルナの中で覚悟は決まった。やるべきことを想像すれば、頭の中で鮮明に思い描けた。
やれる。『できる』感覚が確かにある。
『「……勝算はあるのですか」』
「分かんないけど、きっと上手くいくと思う。植物の成長なら、水にも分解にも対抗できる」
親友の過保護な心配を嬉しく思うが、今は心配よりも信頼が欲しい。
できるところを、見てほしい。
『「イリア君に打つ手がない以上、更に増援を呼ぶかルナちゃんにやってもらう他ありません……分かりました」』
「ありがと、ホノちゃん」
『「イリア君もルナちゃんが危険そうなら助けてあげてください」』
「分かった。でもルナさん、何をするつもりなの?」
「イリアくんと同じ、特攻よ」
そしてルナはポケットの中でキヅタとは別の種が入った袋を開ける。取り出したのはほんの一ミリメートル程度の小さな種子。
それをルナは利き手とは逆、左手の中指と薬指の間に数粒置いた。
「『全緑疾草』」
左腕を前に伸ばして、種が頭の影に入らないようにする。発芽した種は日を浴びて双葉を出し、細い気根を地面へと垂れさせた。地面に達した根は湿った真砂土から水分を吸い取り、次第に太く成長しながらルナの腕に巻きついていく。
この植物はガジュマルといった。『絡まる』を語源とするように、その枝をルナの腕に絡めつかせると鎧のように厚く太く育つ。肩まで伸びた枝葉は顔も半分ほど覆い、視界を狭めたが顔の防御にも役立てられそうだった。
「これならちょっとやそっとじゃ壊されないよ。分解されるよりも早く成長する植物の腕なら、分解の範囲より外から捕まえられる」
ルナは地面に伸びた気根を引き抜くと、その重さにバランスを崩しかけながら言う。
『「ルナちゃん、本当に大丈夫なのですか?」』
「大丈夫だよ、私の植物の感覚を信じて。まだ奥の手だってあるんだから」
それに、どのみちさっきの作戦では上手くいかないだろうとルナは思った。
イリアとホノカはキズナを叩き落とせば良いと言った。けれど、それだけではきっと駄目だろう。
確かにイトナの意識を媒介しているのはキズナだ。けれど今カムイの頭に留まるキズナはただの鳥で、イトナに寄り添っているだけなのだ。
加えて最初は水で戦っていたのに、なぜ突然分解という別の強力な攻撃手段を採ったのか。それはキズナを攻撃するというイリアの意思を感じ取ったからこそ、より強力な防御に切り替えたのだろう。
キズナを攻撃するのは悪手だ。ますますイトナを怒らせ、更なる何かを引き出させてしまうかもしれない。
カムイ本体の捕縛と気絶こそが、最良の方法だとルナは考えた。
十分に鎧が育ち、準備が整えば後はカムイを捕まえるだけだった。重い左腕に振り回されないよう胸の前に腕を掲げ、ルナはカムイに向かって走った。水を使ってくる様子はなく、分解の射程は短い。
腕を伸ばして、枝を伸ばして、動けないように捕まえて気絶をさせるだけ。
あと一歩で分解の射程に入る。そんなタイミングで、カムイの方も動いた。
今までずっと棒立ちで、その場で迎撃しかしてこなかったはずなのに──いや、この行動こそが、迎撃と言えた。
カムイが先に一歩踏み込み、その両腕がルナの左腕に伸びる。ガジュマルの鎧に包まれた上からがっしりと掴み込んでいた。
ルナの想定では分解の射程の外にガジュマルを再度根付かせ、その場から枝を伸ばして拘束をするつもりだったというのに──ルナの全身は、完全にカムイの射程の中に入っていた。枝葉に視界は覆われて見えにくいが、カムイの顔は相変わらず不機嫌そうに顰められていた。それを近くで見ると一瞬、足が竦みそうになる。
ちり、と腕や脚へ痛みが急激に走った。植物達に連動した知覚も、樹皮に穴を開けられている感覚をルナに伝えた。
分解攻撃だ。体から水素と酸素を奪われ、要らないものを残し、炭にされてしまう。
ルナの決断は早かった。
「『全緑疾草』! 私と一つになって!」
今まで以上に、気合いを入れて叫んだ。
それは奥の手。初めての訓練の際にしてしまった、寒気の走る妄想の産物。植物が自分の手足の延長となるだけでなく、それそのものに同化していくイメージ。
思考の冴えた今のルナは、植物と自分自身が一体化する感覚が確かに想像できた。
キュロットのポケットの中に仕舞われている予備のガジュマルの種達にも発芽を促した。取り出している暇はない。アスファルトをも砕く成長力に任せて、袋や布を抜き破るよう気根を伸ばさせた。
もちろんそれは自分の身を守る鎧とさせるためだが、そのままでは細い気根が地面に到達する前に分解されてしまう。だから、ルナは自分の皮膚と気根を融合させた。
どくん、と植物と肉体の脈動が一つになるのをルナは感じた。
ガジュマルは元より癒着する性質が強い。それに栄養の少ない真砂土では、鎧となるまですぐには成長できない。
けれど維管束とルナの細胞組織が合着すると、必要な栄養素がルナから植物へと流れ込み、瞬く間にルナの全身を覆う鎧へと成長した。そして厚く丸みのある葉は光合成を最大速度にまで促進させ、作り出した栄養分を全身へと運ぶ。エネルギーを作り出しながら大きく太る幹は気根を伸ばし、地面に突き刺し支柱で支えた。
枝葉に覆われた視界は全て緑。前は見えない。けれどルナは、植物を通して触れているものを知覚できた。
カムイの腕はガジュマルを掴んだままだった。そして今度はルナが捕まえる番。枝を伸ばし、鎧が完全に分解される前に気絶させるだけだった。
枝をカムイの腕へと巻きつかせると、びくついた感覚が伝わる。
全身を樹皮で覆われたルナの見た目は、きっと木の怪物のようだろう。カムイを通して外を見ている、イトナを怖がらせてしまったかもしれない。
「ごめんね怖がらせて。後でちゃんと話すから。イトナはみんなを助けたかっただけだもんね」
口の中がからからに乾いて、上手く言葉が出ない。それでも言い訳のように呟いてから、枝を首の周りまで伸ばす。ほんの数秒締め上げれば気絶をさせられる。それにガジュマルは『絞め殺しの木』で有名だ。簡単に意識を失わさせることができるだろう。
絡む枝を絞らせると、ぐっと確かな手応えがあって、ルナの方へと体重がかけられるのを感じた。同時にガジュマルの樹皮が分解される感覚も止まる。
うまくいった。
この場を切り抜けられたことに安心して、力が抜ける。途端に冴え渡っていた思考に頭痛のノイズが混ざり始めて眩暈がした。
そして緑だった視界がだんだんと暗くなって、次第に意識は遠退いていった。