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Sixth-sense of Wonder / シックスセンス・オブ・ワンダー  作者: 沃懸濾過 / いかく・ろか
第1章 - 大穴の上半身
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第1幕 - 壱岐宮ルナの記憶

「──ナちゃん、ルナちゃん!」

「えっ、あっ」


 ばしゃり、と水飛沫が跳ねる。


 昨日の夜は大雨だった。雨は大きな水溜りを残しており、その存在に気付かなかった壱岐宮ゆきのみやルナは右足を盛大に濡らすこととなった。


「あぁー……」


 足を水溜りから引き抜くと、靴の中にまで入り込んでいた水がびちゃりと流れる。再度地面を踏みしめれば、ぐじゅ、と濡れた布のまとわりつく不快感が足を包んだ。


「ルナちゃん大丈夫ですか?」


 心配の言葉をルナにかけながら鞄からタオルを取り出そうとする西陽にしびホノカを制止する。ルナは靴を脱ぐと靴下を履いたまま水気を搾り、自分のハンカチで押さえつけて水分を吸い取った。


「大丈夫大丈夫。ホノちゃんは濡れてない?」


 ホノカは大きく首を振って無事であると主張する。それに合わせて下ろした長い髪がふわりふわりと揺れた。


「うん、これで良し」

「よくないですよ! 足を冷やすのは体に良くないです風邪を引いちゃいます! それに濡れたまま歩くと靴擦れしやすくなります!」

「えー、あー、うん。たしかにちょっと気持ち悪いや。替えに帰ろうかなぁ」


 濡れた布に包まれる不快感は確かにあるけれど、暗い水の中に沈むよりはずっといい。

 今自分は小さな子供ではなく立派に高校生で、ここは水の中ではなく通学路で、自分の足はきちんと地面に着いている。起きてからずっと取り憑かれたようにループ再生されていた幼い頃の記憶は、あくまで記憶の中の話だ。


 ルナの歩く街にはもう、洪水と樹海の面影はない。


「ルナちゃん本当に大丈夫ですか? ずっとぼーっとして、何を話しても上の空でしたし」

「ううん、ちゃんと聞いてたよ。ほらえっとグラウンドにモグラが出るとか……」


 心配そうに見上げる顔が申し訳なくて、早口でルナは返事をした。


「モグラじゃなくて『モグラ男』です。『大穴の上半身』なんて怪談じみた噂が流れるくらい不審者の目撃が増えてるんですから気をつけるようにって! それにその話をしたのはずっと前ですよ!」


 けれどそれは逆効果。ホノカの心配を増大させる燃料にしかならなかった。


「何かあったのですか? ホノカはいつでもルナちゃんの味方ですよ。何でも相談してほしいです」

「えーっと、昔のちょっと嫌な夢を見てさ。本当それだけ! ぜんぜん大したことないよ!」


 夢の中の話はあまりしたくない──ルナとホノカの間で『快晴の大洪水』を話題に上げたことはほとんどないのだ。

 ルナはあの日自分が見たものをあまり人に話したくない。ホノカでも、信じてもらえるかは分からない。家族にだって信じてもらえなかったのだから。


「むう、ますます心配です。着替えに帰るのには着いていきます」


 ホノカはルナの手を取って通学路を帰る方向へと引っ張った。


「えっ、だめだよ! ホノちゃん日直に遅れちゃうよ!」


 何のためにいつもより早起きをしてこの道を歩いてきたのか忘れてはいけない。今日はホノカが日直だから、いつもの待ち合わせよりもずっと早く家を出たのだ。お陰で着替えに帰る時間もできてしまったのだけれど。


 二人で一緒に登校するのは小学生の頃からの習慣だ。今年も互いに別のクラスになってしまったが、それでもルナとホノカは仲良く登校をする。


 ルナの家は一人で戻り再度登校する分には遠くはないが、ホノカの仕事に間に合わせるには遠過ぎる。


「日直のためにルナちゃんに風邪を引かせるならそんなもの辞めるのであります!」


 ムキになっていて思わず口を突いたのだろう、久しぶりに聞いたホノカ独特の言葉遣いにルナは気を取られて、引っ張られた方向に体が傾く。


「それじゃあホノちゃん怒られちゃうよ!?」

「きちんと説明すれば分かってくれない先生方ではありません」


 半分だけ振り返ったホノカが至極真面目な顔で言った。大変結構な正論だ。けれど、真面目で成績優秀を通している彼女に仕事をサボったという事実を作りたくない。これはルナの、ホノカの親友としての気持ちだった。


「大丈夫、本当に大丈夫だから。一人で帰れるよ。子供じゃないんだし」

「……わかりました……じゃあ」


 ホノカは不満げだった顔をすっかり変えて、笑顔で答えた。


「先に行ってます」

「うん」


 返事をしてもホノカが歩き出す様子はなく、ルナが先に戻り始める。

 いくらか歩いて振り返ると、変わらず笑顔でこちらを見ていた。宣言通りに早く帰りなさいと、その目が言っていた。


 心配してもらえるのは嬉しいけれど、少し過剰だとルナは思った。


 ルナは進行方向に向き直って足を進めた。やっぱり家まで着いていくと言って、後ろから追いかけられては折角説得したのが水の泡だ。

 正面には他の生徒の姿がちらほらと見え始めている。朝練のない生徒が登校する時間が近づいていた。同じ制服を着て正面からすれ違うのは正直に言って落ち着かない。


 早く帰ろうと、そう思って近道の存在をルナは思い出した。

 風見ヶ丘(かざみがおか)高校へ向かう坂のすぐ横には神社があった。通学路をそのまま帰ればホノカとの待ち合わせ場所の駅を経由することになるが、神社を突っ切って参道を通ればそれなりのショートカットができる。

 ルナは安産祈願の赤い看板と鳥居を通り抜けて、人気ひとけのない神社の敷地へと踏み込んだ。


 この久慈薬くじやく神社には木が多い。森かと思えるほどに緑に満たされてはいるが、それらは人の手入れによって整えられ、地面には石畳が敷かれている。春の陽は樹冠に遮られ、冷えた空気で濡れた足が一層冷たく感じられた。


 カエデやクロガネモチの間を抜けると橋の架かる池が現れる。そこを越えればもう参道だ。

 参道を更にショートカットをしようとルナは石畳を跳んで砂利を鳴らすが──その足音は背後で起きた大きな音によって掻き消された。


 ばしゃん、ばしゃり。


 連想されるものは一つしかない。その音は、重たいものが水面みなもの鏡を割る音だ。


 振り向いたルナの目に飛び込む水飛沫は、それが幻聴ではないことを物語っていた。


 幼い頃の記憶と感覚がまた蘇る。あの日の自分もそうだった。水に、なす術なく呑み込まれた。


 池を覗けば、断続的に飛沫の合間から幼い顔が覗く。助けを呼ぶ声も上げられず、今まさに少年が溺れようとしていた。


 体温が急激に下がるのを感じた。振り払ったばかりの景色が纏わり付いて、今足を着けている地面が突然泥水にとろけて、全てが崩れてしまうような錯覚に陥る。正常な思考が、立っていられるだけの平衡感覚が、池の水に吸われ消えていく。


『死にたくない』

『誰か、助けて』


 幼い自分の声が頭に響いた。


 あの子は私だ。私が溺れて、助けなきゃ、死んでしまう。

 水が怖い。息が苦しい。


 思考が縺れ、体もよろめいて、池を取り囲んで植えられたサクラの木に体を預けなければ立っていられない。幹に着いた手の平がどくどくと脈打って、強く掴んでいなければ今にも池に落ちてしまいそうだった。


 このまま見ているだけで、何もできないのか──


 ──違う。


 奥底に閉じ込めていた記憶が、ルナに手を貸そうとうずく。


 脳裏に浮かび上がる、遠い遠い、八年前の記憶。


 覚えている。あの日に道を塞いで堂々と佇んでいたあれらの木は、ルナを囲んでいた巨木たちはサクランボだ。

 忘れてない。思い出そうとしていなかっただけで、あの日の出来事はちゃんと覚えている。


 思い出すんだ、苦しい記憶のそのあとを。

 信じてほしかったあの景色を。


「思い出せ私……!」


 誰に話しても、子供の戯言だと信じてはもらえなかった。大人はみんな、溺れて記憶が混濁したのだと言った。

 あの日に見たものを真実だと強く思う程、世界から自分がずれていく感覚。それが耐えられなくて、奥底にしまって忘れたあの日の景色。


 大丈夫。できる。


「私が、助けるんだ……!」


 手の平の脈動と、木の生命いのちの脈動が一つになるのを感じた。

 サクラの根元に生える細いひこばえが、ぐんと人の腕ほどに膨らむ。それは意志を持つように池の飛沫を上げる所へと伸び、少年の体へと巻き付いた。


「やった……」


 少年が伸びたサクラの枝を掴んで、水面が静かになり、ルナからも力が抜ける。

 安心して脱力をし切った時だった。


「待てイガルタ!」


 ルナの視界は水に包まれて、そこで意識は途切れた。

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