第3幕 - 勧誘説明
ライコウがバスの乗車口まで来ると、張り付いた氷をざらざらと零しながら扉が開いた。けれどそれは善意ではなく、明らかにライコウを中へと誘い込もうとしている罠だった。
バスの中に足を踏み入れれば、喫煙所にいたときのように何らかの攻撃を受けることになる。
「シオンさん、無事ですか?」
車内の乗車口から入ってすぐの所でシオンは倒れていた。魘されるように目を閉じている。バスの中に入ったことで返り討ちに遭ったのだ。
ライコウは前方の降車口の前まで移動し、氷とガラス越しに隠れて車内を窺った。ショウブが運転室に手を伸ばし、扉の開閉スイッチを操作しているのが見える。
様子のおかしいことと言えば、運転手が眠っているらしいことだった。それは運転手に限らない。後部座席に座る乗客達も俯いている者や窓に凭れ掛かっている者がおり、意識を失っていた。
このバス内に入れば、意識を失わされてしまうだろうことが分かった。ならばライコウもみすみすその誘いに応じるわけにはいかない。
「……これは、あなたがやったんですか?」
乗車口前まで戻ると、ライコウには打開の手立てが見つかっていた。中に入り扉が閉められることが能力の発動条件だとすれば、扉が閉まりさえしなければ良い。
バスの中に入らずに運転席に向かってライコウは尋ねる。話しながら扉を開いたままにできる隙を探した。
「だったらなんだ」
短い返事が返ってくる。
意識を失う現象がショウブの能力によるものだとすれば、ライコウはショウブに接触することはできない。
けれどショウブも激しい運動ができる年齢ではない。この場から自分の足で逃げ切ることは難しく、ライコウをバスの中に誘い込む他に勝ち筋はない。
場が膠着してしまっては、できることは話すことだけだった。けれど対話は、彼が望むことでもある。
こほんと咳払いをして、ライコウは口を開く。
「『出来事をなかったことにする能力』の応用でこんなことができるんですか?」
ライコウは今起きている現象について尋ねた。その話がこの場の打開に繋がるかはともかく、ライコウはショウブに『話の通じる人間』だと思ってもらう必要があるのだ。
「は、んなもんねえよ。こんなん記憶を奪い取るだけのチンケな呪いだ。サイカと同じ勘違いしやがって、お前らが思ってるような能力じゃねえんださっさと帰れ」
当てが外れたことに、ライコウは残念そうな表情を見せる。そしてしばし俯いて思案すると、ライコウは顔を上げた。
「いえ、その能力であれば、ユクルのために使える余地が十分にある」
「は?」
とぼけたような声がショウブから漏れた。
その隙をライコウは見逃さない。
「今ですシオンさん! 扉を凍らせて!」
それはショウブの手が開閉スイッチを操作するよりもずっと早かった。
一瞬で乗車口の枠が氷で覆われた。今更扉を閉めようとしたところでびくともしないほど、氷は隙間なく扉を固めている。
シオンの意識は、おそらくショウブが想定していたよりもずっと早く戻っていた。
ライコウが降車口から乗車口に戻ってきたときには既に、シオンは眠りから覚めていた。起きてから状況が分からず、目だけをきょろきょろと動かして状況を窺っていたシオンに待機を命じていたのだ。
悟られないよう、機を待っていた。
唯一の出入り口にはライコウとシオン、周囲は氷。扉は開いたまま固定されショウブの第六感が発動する条件を満たすことはない袋の鼠。
ショウブは詰みだった。
「……? ライコウくんおはよう。ここどこ?」
「シオンさんありがとうございます。詳しいことは後で話すので、あのスーツの人を捕まえてくれませんか」
「おっけー」
言われるがままに扉を凍らせたシオンは目を擦りながらふらふらと立ち上がると、自分の頬をぽんと叩いて覚醒させる。
素早く運転席に向かうと、その場で立ち尽くしていたショウブの腰に抱きついた。ショウブの背が高いこともあって、小柄なシオンでは肩や首まで腕が届かないが、それで十分な拘束だった。
シオンはショウブを後ろから押して乗車口まで連れて来ると、ライコウの前に立たせる。
「……くそ、結局イガルタってのは拉致集団なのか? おい手を離せ」
ショウブは拘束から逃れようと踠いたが、シオンの腕から抜け出すことは不可能だった。ショウブの筋力程度ではシオンから逃れることはできない。
「あまり暴れないでください。シオンさんのフィジカルに対抗できる人はそうそういないですよ」
それを聞いても尚ショウブは抵抗したが、シオンが石像のようにびくともせず、逃走の余地がないことを受け入れると舌打ちをして抵抗を止めた。
そして悪魔でも見るような目付きで正面のライコウと後ろのシオンを順番に睨み付ける。
「畜生が。早起き過ぎんだろ。こいつ一体何時に寝てんだ」
ショウブは負け惜しみのように呟く。
「ごめんね? 火事の最中に寝てなんていられなくてね、でもずっと目が覚めないよりはきっと幸せじゃない?」
「は、違いねえ」
意味を理解しないまま自嘲するようにショウブは笑った。
ぎゅっとシオンは腰を掴む腕に力を加える。すると、パキパキパキ、と音を立てて周りを氷が覆った。
抵抗の意思も凍らせるシオンの冷たさがショウブを包む。けれど度が過ぎた脅迫だった。
「シオンさん、やり過ぎです」
「体までは凍らせてないよ?」
「怖がらせ過ぎなんです」
「はーい。じゃあこれでやめる」
シオンは腕の拘束を緩めた。輪にしたシオンの腕の中でのみ、ショウブは自由に動けるようになる。
けれど何ができるわけでもない。ショウブはここから走って逃げ去ることも、閉鎖空間の条件を満たして第六感を発動することもできない。
「これでゆっくり話せますね」
ライコウが微笑んで言うと、ショウブは嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「ショウブさん、僕たちはあなたと戦いに来たんじゃありません。先程は驚かせてすみませんでした」
ライコウはハンチング帽を取ると頭を下げた。
拘束された相手に拘束した者が謝る様子は、何とも滑稽に写ったことだろう。
「心災防衛からイガルタについてどう聞いているのかは、大体察しがつきます。けれどきっと、あなたが聞いた話には間違いも多く含まれている。僕たちは基本的に平和主義なんです」
「……は、こんなことしといて何が平和主義だ」
依然としてショウブの警戒は解けていない。バス一台を氷で包み、自身も氷漬けにさせられそうになっている現状を鑑みれば当然だった。
怖がらせないようにと忠告され、シオンにも同じように言ったというのに、ライコウはますます怖がられてしまうばかりだった。
「手荒な真似をしたことは謝ります。けれど平和主義なのは、本当です。僕たちは人をわざと傷付けたりはしません」
「嘘を吐け。サイカの奴らから聞いたぞ。どっかの基地だかを襲撃したらしいじゃねえか」
イガルタに対し心災防衛がいかに警戒しているのかが、その言葉だけでライコウ達に伝わった。
心災防衛に協力的ではない下級構成員や保護対象者にまで拠点の襲撃について伝えているということで、イガルタ対策の意識を組織全体で高めようとしていることが窺える。
「襲撃だなんてとんでもないです! 心災防衛も人聞きが悪い……僕たちはただ囚われている仲間を、助けに行っただけです」
「……助けに?」
ショウブは困惑の表情を見せた。
「ええ、結局助けられずじまいでしたが、彼の力はイガルタに不可欠です。近いうちに再び、助けに向かうつもりです」
それは再び拠点を襲撃する宣言と同じだった。けれど仲間となった者達を大切にしていることを、ライコウは伝える考えもあった。
「仲間の救出には失敗しましたが、副産物的にあなたの存在について知ることができました。あなたの協力を得るため、僕たちは今日ここに来ています」
「……お前らに協力する義理なんざねえよ。大体、目的不明の気色ワリイ集団の仲間になりたがるヤツがどこにいる?」
ショウブとライコウの間で会話が成立し始めていた。逃げられないこともあり、ショウブはライコウの言葉に耳を傾けざるをえない。嫌そうな顔をされながらも、ライコウはショウブに話をすることができる。
「目的は、一つです。ユクルの救うために、ユクルの幸せのためだけに、僕たちはいます」
「……誰だよそれ。話が見えねえ」
ショウブの困惑が大きくなった。
ライコウの話は、ショウブにとっては窮地を脱する糸口を求める先になっている。けれどライコウの話し方は要領を得ず、それがショウブに一層イガルタやユクルについて知ろうという意思を持たせる効果を持っていた。
「ユクルは、僕の甥です。何の罪もない子でした。父と、母と、叔父と、ただそれだけの家族と幸せに暮らしていました。なのにそれを突然に奪われた──当たり前にあるべき平等な日常を壊され、世界から見放されています。今では僕のたった一人の家族です」
「それが、俺に、どう関係するんだよ」
ショウブは絞り出すように問うた。
ユクルという存在を教え、その身の上を漠然と聞かせても現状をショウブに想像させることは難しい。ただ不幸な目にあったということだけしか伝えられない。
この話口だけではショウブの協力は得られない。ライコウは話す内容の試行錯誤を続けた。
「僕はユクルを救いたい。六年前からずっとその方法を探している──あなたの第六感が、ユクルを助ける手段になるかもしれないんです。お願いします」
下手に出て、今度はイガルタに協力する意思を引き出すためにライコウは再度頭を下げた。
ユクルのためにならいくらでも頭を下げる覚悟が、ライコウにはあった。
「……んなこと言われてもよ。お前らが怪しいことは確かだ。現に俺はお前らに攻撃されている」
ショウブは腰回りの氷を片手で触れる。協力を求める相手に対しての礼儀がなっていないことは、ライコウ達も承知の上だ。だから今改めて、頭を下げて頼み込む他ないのだった。
けれどこの方向性では、ショウブの感情は引き出せていない。
「僕たちではなく、ユクルについて考えてほしいんです」
ショウブはライコウやシオンに対して敵対心を抱いてしまっている。
ライコウがショウブに求めているのはそんな感情ではない。ユクルに対する強い思いだった。
「当たり前に、平等にあるべき幸せを自分だけ享受できなかったり、それで必死に足掻いて助けを求めたのに、誰も彼も知らん振りをする……周囲全てが敵になったような過去が、あなたにもあるんじゃないでしょうか?」
「……お前ら、何を知ってるんだ……?」
ショウブは竦んだ。それが、ライコウに話の方向性の正しさを認識させる。
ショウブには不幸な生い立ちがある。たとえショウブがユクルについて何一つ想像が付かなくても、自身の経験してきた不幸と重ねさせることはできる。
ライコウのする話は、ただの当てずっぽうの戯言に過ぎないはずだった。バーナム効果やコールドリーディング、技術を駆使した小手先の詐欺と変わらない。本来ショウブにとって取るに足らないもののはずだった。
けれどライコウはもう、ショウブの心を逃がさない。
「あなたにも、ありますよね。現状をどうにかしたいのにその手立てがない、どん詰まりの経験が」
ショウブの瞳孔が開くのを見てライコウは確信する。
今ショウブの中では過去の記憶が掬い上げられ、報われなかった感情達が我先にと溢れようとしている。ショウブの心を不安定にすることはできた。
もう一押し、もう一押しがまだ足りない。
「ユクルが、そうなんです」
ライコウの言葉は過去のショウブと、まだ見ぬユクルを同一化させていく。
救われないままショウブの中に取り残されているだろう過去の自分を、ユクルに重ねさせていく。
「幼い頃に助けられなかったあなたを、今こそ助けようとは思いませんか?」
じわじわと、着実にライコウは言葉を染み込ませていった。言葉を介してライコウは自分の意志を、ショウブの精神に混ぜ込んでいく。
緊張の中にあった心を無防備にし、弱く脆く変質させていく。
「……物心付いたからそうだった」
譫言のようにショウブの口が開いた。
「妹ばかり可愛がれて、家族にもいないものとして扱われ、石を投げられ、石ころのように蹴られ、嫌われ疎まれ蔑まれ貶められ──」
今までずっと溜め込まれてきたのだろう、ショウブの中の負の感情が吐き出されていく。
ライコウはショウブの心を、再び小さく決壊させた。
「──今でもきっと、周りからそういう目を向けられている。出来損ないの俺には、何にもできねえよ」
「できます」
俯いて、何もない空気を見ながらぽつぽつと感情を吐き出していたショウブにライコウは言葉をかけた。
これが最後の一押しだった。弱くなった心は、縋る先を見つければ寄り掛かってしまう。
「できます。ユクルを一緒に、助けてください」
さあ、とライコウはバスの中にいるショウブに手を差し出す。
それはショウブの心を引っ張り上げる、力の籠った手だった。
要らない人間だと、何もできないと、否定されて育った者は肯定されることに弱い。ユクルのためという目的を、認識させるにはそれだけで十分だった。
「俺にできることがあるなら……協力、してやるよ」
そしてショウブに、自らの意思でバスを降りさせた。ライコウはショウブの手を取り、固い握手を交わす。
それが全てを完了させる合図。ライコウの中にある、ユクルを最優先に生きる意志がショウブの精神に絡みついて定着した。
新たな思考回路を、ショウブの精神構造に組み込んだ。
「──『儕輩の心理役者』完了……ありがとうございます、ショウブさん。ユクルの味方になってくれて」
御築ショウブは、イガルタとなった。
自身の精神構造を他者に組み込み定着させる──それが司宰ライコウの第六感。
ライコウは甥を救うために、最も信頼できる自分自身と同じ存在を求めた。
他人でありながら自分自身、それがライコウの呼ぶ儕輩。ユクルを思う気持ちがあり、それを可能にする力があるならば来る者を拒まず去る者を引き摺り込む。
地道な苦労の積み重ねが、今まで六年続いている。ライコウにはまだユクルを救える決定打はない。けれどイガルタがまた一歩ユクルの幸いに近付いたことにライコウは喜び、ショウブの手を両手で強く握った。