第1幕 - 司宰ライコウの儕輩
男の名前は司宰ライコウといった。
彼は朝の支度を終え、窓から外の様子を一瞥し、ドアノブを捻った。しかしドアを開けることはなく、何かに気付いたようにまた部屋の中へ戻る。コート掛けに引っ掛けてあったハンチング帽を大事そうに手に取り、鏡の前で身につけ、そして再びドアへと向かった。
満足そうなその足取りが向かうのは、果たしてパン屋だろうか、花屋だろうか。
「ごめんください」
とある扉の前にたどり着き、ライコウは中にいるだろう住人に声をかけた。
ドアを開けて現れたのは、春らしいカーディガンを羽織った、歳の近い若い女性だった。
「はーい。あら、おはようございます、ライコウさん」
彼女は肩に掛かる髪を揺らし、にこやかに挨拶を返した。
「おはようございます。実は、今日は少し遠出を……」
ぐるるる、と腹の虫が鳴く。
ライコウが言おうとした言葉は途切れ、二人で目をぱちぱちとさせてお互いを見た。
「ふふふ、どうぞ上がってください。コーヒーくらいでしたらすぐお出しできますよ」
「すみません……こんな僕でも、お腹は空くんですねぇ」
ライコウは困った顔をしながらも、被っていた帽子を手に取り、勧められるままに扉を潜った。
彼女に続いてライコウが歩くと、廊下の床は二人分の重さでギシギシと音を立てた。居間へ通じる扉も立て付けが悪く、ドアノブを捻って押し開けるときには力を入れていた。
案内された一人掛けの簡素なソファに腰を下ろして待っていると、半透明のパーティションの向こうからお湯を注ぐ聞いていて心地良い音がする。その間にも、ライコウの目は何かを探して何気なく動いていた。
「ユクルなら、今はお隣で遊んでいますよ」
机の上のプリザーブドフラワーやテラリウムが少しだけ隅へ寄せられ、そこへ暗い水面の揺れるカップが置かれた。
「あぁ、そうでしたか」
「大丈夫ですよ。キョウスケさんがちゃんと見てますから」
この部屋の隣に住む、信頼できる友人が見ていると言う。ライコウはそれに満足したように微笑んだ。
「それでしたら少し安心しました。あの子はずっと変わらないと思っていたのに、最近は目を離すとすぐいなくなるものですから」
「そうですね。六年という時間は短いようで長い」
しみじみと言いながら、彼女は部屋の隅に置かれた化粧台からバレッタを取り出した。装飾の付いた丸いスタンドミラーを見ながら慎重に位置を決め、左耳の上あたりでぱちんと留める。
「おや、新しい髪留めですか?」
「ええ。遠出をすると仰っていたので、せっかくですから」
今度は姿見に歩み寄り、覆っていた布を上部に掛けて自身を映した。正面を見て、背後を見て、そしてくるりとまた正面に向き直る。
「似合いますか?」
「似合っていますよ」
「それは良かった」
彼女が姿見の布を戻している間に、ライコウは残りのコーヒーを飲み干した。左腕を軽く振り上げて袖を腕時計から離す。もう何年も大事に使い続けているその時計は、丁度長針と秒針が頂上で重なっているところだった。
「さて、キョウスケさんに声をかけて、早速出かけましょうか」
「どうでしょう……ユクルのことを見ている人間も必要でしょうし……」
ライコウの提案に彼女は難色を示す。そして改めてライコウに視線を合わせ、確認するように尋ねた。
「ライコウさん、お付が私だけでは心配ですか?」
「とんでもない。あなたがいるというだけで、僕たちにとっては大変心強いものです」
彼女の顔に過った僅かな不安の色は、そのままどこかへと溶けていった。
ライコウは静かにソファから立ち上がり、横に置いていたハンチング帽を拾い上げ、それから思い付いたように言った。
「考えてみれば、キョウスケさんはあまり表に出たがらない人でしたね」
「そうですよ。つい先月も、少し無理を聞いてもらったところです。今日はユクルと過ごしてもらえれば、それでいいじゃありませんか」
「しかしそうなると、あとはどなたを呼びましょうか?」
広くはない居間に大人二人で立ち尽くして、数秒の間それぞれが心当たりを探った。
「そうだ。シオンさんを誘うのはいかがですか?」
ぱっと顔を挙げた彼女が、また別の、信頼の置ける隣人の名前を出した。
「いいですね、そうしましょう」
ライコウが穏やかに肯定すると、「ではさっそく」と残して彼女は居間からいなくなった。
コーヒーカップを流しに置いて水を入れると、ライコウも追って玄関を出る。すると、準備はできているというように彼女が立っていた。少し強くなりだした風に、髪やカーディガン、膝下丈のスカートの裾が揺れていた。
「シオンさんには話を通しておきました。すぐにでも来ると思います」
「ありがとうございます。それからコーヒーも、ごちそうさまでした」
「いえいえ」
何でもないことのように、彼女は首を横に振る。
「またごちそうするためにも、無事に……いえ、より良い知らせを携えて、この遠出を終えましょう」
彼女の言葉は、この遠出が日常の一角ではないことを表していた。
それを受けて、ライコウの顔から穏やかさがするりと抜け落ちる。
「可能性があるというのなら、そこへ行かなくてはなりません」
「ええ、それはもちろん。私も同じ気持ちです」
コツンコツンと靴が鳴る。
「急ぎましょう」
早まる鼓動を表すように、その音は間隔を狭めていった。
「希望の種が、心災防衛に隠されてしまう前に」
「待ってください、ライコウさん」
小走りに追いついた彼女が、戒めるように呼びかけた。
「怖がらせないように、ゆっくり優しくお話をしないとだめですよ」
それはまるで、子供の面倒を見るときの心掛けだった。ライコウは声を出して笑う。
「そうですね。もしも逃げられてしまったら、その時はシオンさんに捕まえてもらいましょう」
足の向く先を睨みつけていたのが嘘のように、ライコウは背中で手を組み、ゆったりと歩みを進めた。
「僕たちイガルタなら、それからでもお話はできますから」
司宰ライコウ。彼は儕輩を束ねる黒幕にして、六年前に生まれた最初の『イガルタ』だった。