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Sixth-sense of Wonder / シックスセンス・オブ・ワンダー  作者: 沃懸濾過 / いかく・ろか
第2章 - 相続会議リセット現象
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第11幕 - 熱暴走

 ショウブの叫びは、彼自身の境遇を嘆くものだった。その結果としてたくみの姓に『裏切り者』とラベルを貼った。これでは、イリアの思考が逃げ道を失うばかりだ。


 声をかけて説得するか、ここから強制的に退去させるか、今すぐ気絶させるか。イリアがこの場に現れた時、事を収める方法は様々に思いついた。しかし思いつくだけに、次の一手に出られず攻めあぐねていたのだ。


 その出遅れた隙に、新たな脅威が現れていたと、今になって気付く。


 カムイは後ろ手に空気中から水分子を集め、正座を解いてゆっくりと立ち上がった。

 足に痺れはない。ストレッチが効いたことにはほっと一安心である──安心している場合ではないが。


 イリアが開けた襖口からは、薄着では肌寒いほどの高原の冷気が入り込み、部屋の中の暖気は全て隙間風に攫われていった──はずだった。

 だというのに、急激な室温の上昇が感じられる。


 誰かが温度を上げている。

 そんなもの、イリアの他に誰がいる?


 例え姓が『匠』であっても、その体に『御築』の血が流れてはいたのだろう。

 カムイは御築家の第六感シックスセンスの発現が、迫害が先なのか血縁が先なのか測りかねていたが、発現をしやすい精神性の遺伝などはあり得たかもしれないと思った。


「なんで……どうして……」


 襖口から動こうとしないイリアの顔は赤くゆだっている。泣いたり怒ったりしたときのように、感情が昂ぶって、頭に登った血が急激に体温を上げている証拠だった。


「みんな家族なのに……どうして」


 ぽつりと呟いたその言葉が、イリアの火種だった。


「家族は家族を、大切に思うもののはずなのに。どうして僕は、ショウブおじさんに怒っているの?」


 返答を求める質問ではない。

 正答を求める疑問ではない。

 ただ出ない答えを嘆き、自分自身を問いただす呪いだった。


 それを境に、イリアの姿が変貌する。

 イリアの体表面から湯気が立ち昇り、夏のアスファルトに揺らめく陽炎のように空気が歪む。


 それは、親族関係にただ悩む姿ではない。超常的な、心の決壊を起こす姿だった。


 カムイだって、もう新米ではない。心災の現場には数え切れないほど関わってきた。だけどいつだって、向かった先にいるのは心災を発生させた後の心災中枢ペインアイ。自分が心災を起こした時の記憶も混濁している。

 だから目の前で、感情が許容できる範囲を超え、今まさしく心が決壊していく様を見るのは初めてだった。


 手の内の水が空気中に消えていく感触があった。室温の上昇で蒸発したからでも、誰かに盗られたのでもない。カムイの動揺が第六感シックスセンスの行使に影響していた。

 こうなれば、選ばざるを得ない。イリアの第六感シックスセンスが形を表し、災害へと姿を変える前に、対話でもって場を収めるしかない。


「イリア、深呼吸だ」


 カムイ自身に必要なものも、深呼吸だと。そう言い聞かせるように出来るだけ優しく声をかけた。


「混乱してるんだよ。いつもの自分とは違う。今感じること、考えることには、嘘がたくさん混じってる」


 カムイは慎重に言葉を選びながら、少しずつ足を前に進め、イリアとの距離を詰めた。


「一度全ての思考を横に置くんだ。そこから、あんたにとっての本当を改めて拾い出そう。な?」


 頭痛や知恵熱に苦しむように、イリアは両手で頭を抱えて、苦悶の表情を浮かべている。


 イリアが苦しそうにする程に、一層部屋の温度が上がる。開けられた襖の端が、上部の欄間らんまが煙を出し始めた。見る間にそれらは焦げ始め──ついに赤く炭のように光り始める。その付近では、紙や木材が自然発火をする五百度近い高温になっていることがうかがえた。


『「イリアくん! 駄目だよ、その部屋は今──あつっ!?」』


 突然、高めの声が響く。イリアの背後と、耳元の通信機の二つから。遠い西の離れでカメラ越しに見ていたはずのルナが、すぐそこに来ていた。

 イリアの登場を異常と見做し、彼を遠ざけるために走ったのだとわかる。制止する声は僅かに息が上がっていた。


『聞いてないよ……カメラに温度計なんて付いてないし……』


 頰の引き攣る様子が浮かぶような、絞り出した声を通信機が告げた。


 それとほぼ同時に、カムイの視界にちろちろと眩しい光源が映った。


「ルナ! 背後の扉を閉めろ! 早く!」


 赤く光るだけだったはりや襖からついに炎が上がる。襖を伝って壁へも延焼していった。

 イリアを助けにやってきたはずのルナだが、彼女も開け放ったままだったらしい扉からは、新鮮な外気が大量に流れ込み続けていた。


『無理。戻れない』


 通信機が簡素な報告を届ける。畏怖に混じった悔しさが、それ以上の詳細を語らせまいとしているかのようだった。

 おそらく彼女の目の前でも、炎が波打っている。


 ぐらり、とイリアの体が倒れかける。部屋の中に踏み込んだ足は畳を踏み抜いて、イグサにも炎が移る。床も天井も、全てが炎を上げ始める。


 炎は──危険の象徴だ。燃え広がり、全てを焼き尽くす。揺らめく炎と焼ける火の匂いが、本能に危険を訴えかける。


 この場から離れないと、焼け死ぬ。


 けれど部屋の仕切りも出入り口も、炎とイリアによって塞がれていた。避難しようにも出られない。そんな思考の間にも部屋の中の温度は上がり続ける。


「う、ああ、ショウブおじさんは、家族で、うう」


 イリアは足を踏ん張る。既に畳は焼け落ちていて、家の基礎に不安定なまま立っているのだ。

 天井も、もう少しで梁が焼き切れ、崩落する。

 空気の揺らめきはもはや陽炎とは形容できない程に強く、波打つ熱気を纏ったイリアの表情はもう誰にも分からない。


「う、ああああああ」


 イリアはその長い脚を、燃え尽き落ちた畳から抜いてはゆっくりと前へと進む。炎に圧倒されて動けないでいる、ショウブのいる方向へと。


 例えば今この場で、ショウブが心災防衛サイカシステムの一員であったなら。

 そんな今更実現しようのない思考が駆け巡った。心災を起こすに至った感情も記憶も奪い取って、心災中枢ペインアイを落ち着かせ、安全に保護することができるのに。

 けれどよく思い返せば、その記憶を奪い取る第六感シックスセンスの発動条件は『閉鎖空間』だ。襖は開けられ火が燃え広がり、天井すら穴が空きそうに焦げ始めている。


 手の中に水を集められる感覚は戻っていたが、それらはすぐ熱に飛ばされて消えてしまう。

 そして木々が育つための水もない。ルナの第六感シックスセンスまでもが封殺されてしまっている。

 さらに悪いことに、木造の家は簡単に延焼する。


「アヤメ! 兄さん! 手を出せ!」


 トジャクが炎に掻き消されまいと、声を張り上げて叫ぶ。ショウブは燃え盛るイリアに釘付けになっていたが、呼びかけに応えて手を伸ばした。


 ぱしん、と。


 トジャクの手がアヤメの肩とショウブの手に触れて、それらの姿が瞬時に消え去った。そして二人の代わりというように、ずしんずしんと角が荒く欠けた岩が現れる。家の東に流れる川でいくつも見た流紋岩だった。


 彼は次にカムイを見て、そしてイリアを──否、その向こうにいるルナを見て苦い顔をした。


「坊主、あの子は自力でなんとかできるか?」

「トジャクさんの力でアヤメさんたちと同じようには……」

「入れ替える片方には俺が触れてなきゃならない。しかも重さか形がおおよそ同じ必要がある」


 それが、トジャクの第六感シックスセンスの制限。貴重で強力な空間操作系に然るべき、あって当然の縛りだった。


「ルナ。合流はしなくていい。お前が外へ出られる道はあるか?」


 胸元の小型マイクを摘み上げて、聞こえやすいように尋ねた。

 返ってきたのは、コツン、コツンという種が床を打つ音。まるで流すわけにはいかない涙の代わりに、手から溢れているようだった。


『ない。手持ちにも、使えそうなものが何もない!』

「分かった。焦るな。向こうに飛んだら、先に行ってるアヤメさん達を見ておいてくれ」


 そう指示を投げ、通信機の入出力を切った。このタイプは距離が離れると雑音が酷い。それに、ルナに要らぬ心配を抱えられても困る。

 決意は固まった。あとは自分が上手くやりさえすれば、これで全員がこの炎から逃げられる。


「トジャクさん、俺とルナを入れ替えて、そのままルナと脱出してください」

「じゃあ、坊主は!?」

「なんとかします。河原で合流しましょう」

「……分かった、信じさせてもらうぞ」


 ぱしん、と叩かれたカムイは一瞬でイリアの背後に回った。炎越しに、部屋の中に移動したルナが消えて岩が現れるのが見える。トジャクは一瞬カムイを見遣ると、自身もその場で岩と入れ替わり姿を消した。


 カムイはまだ火の手が回りきっていない床と壁の下部に手を当てた。木造であるが故に広がった火災だが、木造であるが故にまだ手立てはあった。


 木材を構成する物質のほとんどはセルロースをはじめとする多糖類の重合した繊維である。つまりそこには大量の炭素と、水素と酸素が含まれている。

 カムイの第六感シックスセンス、『氾濫分子ハイドロリヴォルト』に操作される水を構成するのも水素と酸素だ。既に結合している原子から強引に脱水をすることだって、不可能ではない。


 ただし時間を要した。操作に比べて脱水は不得手だ。その理由は高分子のリグニンによって多糖類が安定しているから、だけではない。

 普段からカムイが扱うのは空気中や自然界に存在する『誰のものでもない水』である。既に誰かのものになっている──ここでは『木材』であり『御築家』の所有物となっているものを、操作する対象として看做すことには精神的負荷がかかる。


 働きかけてはいるものの、見た目に変化のない壁を前に、カムイの心を突くものがあった。

 未だうなされ続けているイリアには背を向けたまま、思わず語りかけた。


「家族だから大切にするってのは俺は違うと思ってる」


 燃え出す前の言葉を振り返れば、イリアは板挟みになっているようだった。カムイにとっては、ナンセンスとも思える感情によって。


 家族という人間関係のあり方を、どうにもよく思えない。己の意思で選ぶことのできない、生を受けた時から縛られている関係に自身の人生がおびやかされるなど以てのほか

 自分の人生を最後まで舵取りするのは、自分自身であるべきなのだ。


「血の繋がりだとか、そんなものに囚われる必要なんてない。許せない奴がいるなら許さなくていい。家族だって、結局のところ他人でしかない」


 既に決壊の最中さなかにある心災中枢ペインアイを説得しようとする行為については、心災防衛サイカシステムでも様々な意見を持つ人がいる。言葉は届くと言う人と、通じないから無駄だと言う人がいる。

 はて、どうして自分はこの危険な場にとどまり、意味がないかもしれないことを、彼に向かって語っているのだろうか。

 結局は、説得なんて高尚なものではなく、自分の感情を吐露しただけに過ぎないのかもしれない。


 だが、目標としている彼なら、ケンジなら、きっと説得の手間は惜しまない。得策ではなくとも、愚策ではないはずだ。


「『家族だから』じゃなくて、お前が大切にしたい人かどうかを決めていくんだ」


 そんな言葉がイリアに届いたかどうかは、今は確認のしようもない。鎮火した後だって、混濁した記憶の渦にもみくちゃになって消えてしまうだろう。


 天井から、焼き切れた梁や熱され割れた瓦が落下した。いつまでもここには留まれない。宣言した通り、なんとかしなくてはならない。

 イリアの上に振り掛かるものたちは熱に当てられて、彼に辿り着く前に燃え、融け、蒸発し、消えていく。だがカムイには容赦なく襲い掛かるのだ。


 思考を濁していた感情を吐き出したお陰か、忘れていた大事なステップに気付いて呟いた。


「『氾濫分子ハイドロリヴォルト』」


 目に見えて変質が進行する。じわじわと、白衣についた硫酸が黒く焦げた穴を開けるように水を奪い取っていく。

 そして出来上がるのは脆く残った炭素の骨格だ。カムイは黒く脆くなった壁を蹴り砕いて、離れの外へと脱出した。


 外に出て数秒後、新たな酸素の供給口ができた所為か隙間を作って組んだ焚き火のように一層炎が大きく上がった。


 母屋の方からは何事かと騒ぐ声が聞こえるが今はそちらの相手をしている暇はない。カムイは小川まで全速力で向かう。

 そこには、燃え盛る離れを呆然と見上げる四人の姿があった。目が暗順応する必要もないくらい、炎に照らされた河原は明るい。


「イリアは! イリアはどうなったの!?」


 カムイが走ってきたことにいち早く気付いたアヤメは問い詰めるように走り寄った。自身の息子が燃え盛る建物に一人残されたとなれば正気を保つだけでも相当な負荷だろう。


「大丈夫です。イリアは自分を守るためにああなっています。今すぐに怪我をするようなことはありませんから」


 ごうごうと炎が空気を揺らす音が耳に届いた。舞った火の粉が空高くまで運ばれては消えていく。河原からでも燃え盛る炎が離れ全体に広がる様子が見えた。


 秘密を閉じ込めていた部屋は、イリアの暴走する感情によって焼け放たれた。


「カムイ! よかった、生きてた!」


 アヤメに続いて駆け寄ってきたルナを見るが、火傷を負った様子もない。火事からの脱出に関しては、成功したと言っていい。


「そういうのは後でいい。今はここから少し離れよう」


 ルナの返事は待たずに、川沿いに歩みを進めた。すぐに後ろからジャリジャリと石を踏む音が聞こえる。


「お前は離れと母屋の境が見える位置に移動。そこから俺が作った水の軌道を報告すること」


 火の手が母屋へと向かうのも時間の問題だ。

 カムイは水に出来るだけ近付いて、夜の黒い水面に手を向けた。


「消火に取り掛かるぞ。『氾濫分子ハイドロリヴォルト』」


 どぷん、と水を持ち上げる。川に流れる水分子たちの動きを意識して、引き寄せられる分を手元近くまで飴細工のように絞り出した。

 少し距離を置いたお陰で、アヤメ達のいる位置からは岩や木で遮られて見え辛くなっているはずだ。


「ならそれ、私にも一枚噛ませてよ」

「火に対して植物で何しようって言うんだ」

「延焼を食い止めるなら、防火樹っていうもってこいのものがあるの」


 ルナはポケットをまさぐって木の実を取り出した。シラカシのドングリだ。


「カムイを待っている間に追加で拾い集めたの。良いのを選んでる余裕はなかったけど」

「そのドングリを……離れの周りに運べばいいのか?」

「そう。水の中なら二酸化炭素不足が限定要因になるから、着けば芽吹いて成長するはず」

「オーケー、その話乗った」

「十秒以内にお願いね。『全緑疾草オールグリーン』!」


 ルナは取り出したドングリを両手で握り込んで唱えた。そしてカムイの手にドングリを置いて、指示された場所へと駆け出す。

 それを見送ると、カムイは通信機のスイッチを入れた。


「んじゃあ──これより心的決壊災害による火災の鎮圧、及びに心災中枢ペインアイ、匠イリアの救助を開始する」


 カムイは川の流れを曲げるように誘導して、その勢いを殺さぬように、更に加速させて空中へと打ち上げた。細い水柱は弧を描いて離れへと向かっていく。その様子は管もないのにサイフォンを連想させた。

 水流にそっと実を乗せて、それが流されていくのを見守った。


『水の軌道問題なし。最初のシラカシが地面に着いたらカムイから見て右に二メートル動かして。廊下が挟めるから』

「了解」


 丁度良く、通信機越しにルナの報告が聞こえた。

 遠目で見える彼女は姿勢を低くし、土の地面に手をつけているようだった。時間差の発動だけでは心配なのか、少しでも成長が上手くいくようにという気持ちからの行動だろう。


 ドングリはその内に蓄えた栄養を使い水の中で発芽する。水に運ばれる途中で根を出し、離れを囲うように落下してからは炭素固定を開始し、日の光ならぬ火の光を浴びてその芽を成長させていった。離れの消火よりも水を供給することを目的とした放水によって湿る地面に根を張って、大木へと育っていく。

 母屋と離れを繋ぐ外廊下を挟んで伸びたシラカシは、太る幹にその作りを飲み込んだ。

 生木のバリケードは、炎がそれ以上延焼していくことを確実に防いでいた。


 大木に包まれた離れは空気が流れにくくなったためか、炎の勢いが弱まる。けれど、中に残っているイリアが一酸化炭素中毒になっても、窒息してしまってもいけない。

 防火樹としての役割を十分に果たす大きさまで成長したのを見ると、カムイは即座に水の降り掛かる向きを離れそのものへと変えた。木造の離れ全体を包むように降る水は、ほとんど時間をかけることなく炎を消し去った。


「ルナ。いい機会だから言っておくが──この手の心災の対処は、相場が決まっている。感情が別の形になって放出される心災は、吐き出し切って心災中枢ペインアイが落ち着くまで待つのが常套手段だ。周りに被害が出ないよう、安全を確保し続けるのが俺たちの仕事になる」


 カムイは水の放出を一旦止め、立ち上がって御築家を眺めるルナに伝えた。新人指導にはいい題材だったのだ。


『だから、助けたいからって無闇に突っ込むな、って言いたいんでしょう』

「そこまで馬鹿にはしてねぇよ」

『どうだか。それでカムイ先生、感情を別の形にする、ってどういう意味なの?』


 冗談みたいな呼び名には、反応しないことにする。下手に触れて、繰り返されても面倒だった。


「……感情をうまく表現できなくて、熱やら光やら振動やら、心を別のエネルギーに変換するんだよ。能量エネルギー操作系の第六感センスはそうやって発現することが多い」

火災これが、イリアくんの感情ってこと?』


 話をしながら、ルナはアヤメ達の元へ戻っていた。


「全部がそうじゃないだろうよ。小さな感情の火種があればそれが呼び水となってそこら中からエネルギーを集めて持ってくる。初期暴走ってのは、そういうもんだ」


 そして今はまだ火災が鎮火されただけで、イリアの心的決壊災害は依然として暴走状態にある。いつまた火を噴き出すかわからないし、もしかしたら別の現象が起こるかもしれない。


 そう考えているうちに、今度は敷地を囲む塀が炎を上げた。

 即座にそれもカムイが鎮火するが、焼けた塀には穴が空く。そこをゆっくりと歩いて通り抜けようとしている人影があった。


 あれはイリアだ。

 彼が地面を踏み締めるたびに、砂が融けて少し沈む。足跡の形に地面がガラス化していた。


 カムイは今更ながらに、イリア自身が燃えているわけではないことに気が付いた。着ている服や体に火が移っている様子はなく、ただその表面で周囲の景色が歪められている。


 アヤメはイリアの姿を捉えたが、駆け寄ろうとするその足が次の一歩を踏み出すことはなかった。ルナの方を心配そうに見遣る。

 通信機からは、ルナがアヤメを落ち着かせるよう、言葉をかけている様子が伝わってきていた。


 イリアの足取りはふらふらとし、その表情は見えないが正常な状態とは思えなかった。

 大切にしたい家族を困らせていたのも家族で、ショウブに対して抱いた怒りが自分の家族観に一致せず、誰も恨めなくて矛盾する気持ちが暴走オーバーヒートした。心の中身の決壊オーバーフラッド──『心的決壊災害』の名前の通りである。

 怒りの発し方を知らずにいたのもあるだろう。そうして無意識に溜め込まれた感情は行き場を失って、分かりやすい『熱』という形になって放出された。小さな種火でも一度着火剤に燃え移りさえすれば、それは大火災となり得るのだ。


 イリアは暴走する直前から思考が固定されてしまっているのか、部屋の入り口からショウブに向かった時と同じまま、ずっと真っ直ぐに進んでいた。


 家の建てられた場所から河原までには勾配がある。坂道で転ぶ前に、イリアを確保するか正気に戻さなければならない。


「頭を冷やせ、イリア」


 声の届く距離ではないが、念じるように呟いた。

 水圧が強くなり過ぎないように水の柱を伸ばし、イリアの頭上に集中豪雨を降らせる。ざっばぁ、と落ちる水滴は、はじめ熱によって弾かれて、フライパンに垂らされた水滴のようにライデンフロスト現象を起こす。

 けれど次第に蒸発する水の量は減り、イリアの纏っていた熱は冷め始めた。

 ついに水がイリアの体に直にかかってずぶ濡れになったのを確認するとカムイは雨を止める。


『カムイ?』


 ルナの声が、状況の報告を促した。

 イリアは歩みを止め、呆然と立ち尽くしている。もう危険はないだろう。


「大丈夫だと思うぞ」

『了解。アヤメさん、行きましょう』


 アヤメはそれを聞くとすぐさまイリアに駆け寄った。


「イリア!」


 呆然と立っていたイリアは呼びかけに対してぴくりと反応する。彼の目はきちんとアヤメを捉えているようで、数度まばたきをして俯いた。

 イリアの理性が強かったお陰か初期暴走の落ち着きとしては非常にスムーズなものだった。


「イリア、大丈夫?」


 濡れた両頬に手を添えられて、イリアは顔の向きを正面に固定される。母親と目を合わせて、イリアはゆっくりと口を開いた。


「……ごめんなさい」


 最初に出てきたのは謝罪の言葉だった。急速に思考が冷えて、現状を理解したのだろう。


「良いんだよ。イリアが家族を大事に思ってくれてるのは知ってるよ。こんな風になるまで、家族のことを考えてくれたんだね」

「う、ん……」


 イリアは思考がまとまらないのか、ゆっくりアヤメの言葉を反芻してから、噛み締めるように頷いた。


「うん。イリアはちょっと良い子過ぎたね。でも私もそれに助けられちゃってたし──たくさん我慢をさせちゃったね。でもこれからは少しずつ、自分の気持ちを押さえつけ過ぎないようにしていこうか」


 イリアが素直に表に出した感情は、大粒の涙の形をしていた。

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