序幕 - 快晴の大洪水と枯木の樹海街
八年前、その日は快晴だった。
天気予報に違わず、梅雨入り前らしい長閑な気候。多くの人が天気の良さを喜び、休日を楽しむ日常がそこにはあった。
しかし平穏は一瞬にして崩された──大量の『水』によって。
突如として大雨が降ったわけでも、津波に襲われたわけでもない。けれど雲一つない快晴の中、たしかに街は水の中に沈んでいた。
溢れ続ける出所不明の洪水は、雨水を処理場まで運ぶ下水管の容量を上回り、道路に勢いよく噴き出る。膝丈程度の水深とはいえ交通は麻痺し、大人でも自由に歩き回ることは難しい。ましてや子供は言うまでもない。
壱岐宮ルナも、その被害を受けた者の一人だった。
駐車場から玄関までの、ほんの数メートルを渡りたかっただけ。けれどそれが叶うことはなく、突如として現れた水に、果樹園のお土産のサクランボを手放すことも忘れて押し流された。
当時は小学二年生──幼かったルナの体は簡単に水に沈み、逃げ道を探す水に揉まれてより低い所へと流される。水圧によって蓋の外れたマンホールに呑まれるまで、時間はそうかからなかった。
何が起きたのか理解の追いつかないまま体は沈んでいく。天地の曖昧な浮遊感と、砂粒や濡れた服が纏わりつく不快感がルナの全身を包み込んだ。
全身を覆う水は目を開けることも呼吸をすることも許さない。
──死にたくない──
息のできない苦しさはとうにぼやけていたが、微か瞼越しに感じる頭上の光を目指さなければ助からないことは、なんとなくでも分かっていた。
けれど手を伸ばそうが光には届かない。
──誰か、助けて──
手に一粒残されたサクランボをぎゅっと握り締めて、ルナは暗い水の底へと沈んでいった。
現在、ルナは健康に毎日を過ごしており、この春には高校に進学している。息災な現状を鑑みれば、八年前の水中で何かが起きたことは確かなはずだ。
洪水からルナは生き残った。けれど記憶は曖昧で、覚えているのは地上の景色のみ。その時には既に街を襲った水は跡形もなく、救助隊員らしき者達と、青々と茂る木々に囲まれていたことだけを覚えている。自身の命を脅かした現象を詳しく知ったのは、ずっと月日が経ってからだった。
『快晴の大洪水』──正体不明の水が突如として溢れ、街を沈めた大災害。
『枯木の樹海街』──木々の異常発生と異常枯死が洪水に重なり、街を包んだ大災害。
これらの災害は理論的に説明のつけられない出来事として人々の記憶に刻まれた。
原因は不明で全ては謎のまま、直に見聞きした者たちからそうでない者たちへと、推測や妄想を混ぜ合わせ尾鰭を付けながら噂話は広まっていく──さながら都市伝説のように。
八年前、壱岐宮ルナの巻き込まれたこの事象の真実は『心的決壊災害』と呼ばれるものだった。