第1話「飼い猫と一緒に異世界転移」
俺の名は黒木連夜。
毎日、夜遅くまで働く30歳だ。
俺が勤めている会社は、世間で言われるところのブラック企業だ。
連日連夜のサービス残業で、体も心もすり減っているのを実感する今日この頃。
じゃあ転職すれば良いじゃん、と周囲は言うけれど、休日出勤当たり前の俺には転職活動する時間はない。
転職活動すること自体を、面倒に思ったりもする。
きっとその考え方もヤバいのだろう……。
分かっているけど、抜け出せないのだ。
そんな俺の唯一の楽しみは……。
飼い猫のミラとの時間だ。
全身真っ白な長毛で、可愛い奴だ。
家にいるほんのわずかな時間だけど、いっぱい触れ合うのだ。
この時だけは仕事のことも、何もかも忘れて幸せを実感する。
「ミラは今日も可愛いな」
「ニャーン!」
「お前は世界一かわいい猫だよ。いや、世界一かわいい生き物だな」
「ニャー!」
あごと背中をナデナデすると、グルングルンと転がりながら喜ぶ。
頬ずりすると、喉を鳴らしながら嬉しそうに目を細める。
そんな至福の時間があるからこそ、俺はブラック企業でも働けているのだろう。
◇
その日、家に帰り着いたのは午前0時を少し過ぎた頃。
今夜は課長に用事があったからか、飲みにも誘われずいつもより早い電車で帰ることができた。
「今日は4時間も寝れそうだ……。その前にミラにご飯をあげて、いっぱいなでさせてもらおう」
ミラのことを思い浮かべるだけで、頬が緩むのを感じる。
「ただいまー」
アパートのドアを開けて声をかける。
帰宅のあいさつをするけど、奥さんがいるとかではない。
「ニャーン!」
そう、ミラに声をかけたのだ。
ミラは俺が帰宅すると、いつも玄関に迎えに来てくれる。
眠そうに目をしばたかせているところを見るに、つい今まで寝ていたのだろう。
起こしちゃって悪いことしたかな。
部屋に入ろうとしたその時だ。
強い目まいを感じた。
あ……、ヤバい……。
本能的にヤバいことを察した。
ぼんやりとした視界のままに体が傾いていく。
体が言うことをきかない。
ドンっと床に体を打ちつけるけど、痛みどころか何も感じない。
何となく理解した。
きっと俺は過労死するんだと……。
視界にミラの姿が映る。
そんな悲しそうな顔するなよ……。
そうだよな、明日から野良猫だもんな。
ごめんな……、お前を幸せにしてやれなくて……。
最期に浮かんだのは、ミラに対する謝罪の気持ちだった。
◇◇◇
目覚めたら、なぜか草原にいた。
「ここは天国……?」
部屋で倒れて、死を感じたところまでは記憶にある。
死んで夢の中かとも思ったけど、どうも現実感がある。
体も普通に動くのだ。
むしろ、普段より体が軽いくらいだ。
まるで、10年くらい若返ったような気分だ。
「ああ、そうだった……。ミラは大丈夫かな……?」
唯一の心残りは、可愛い飼い猫のミラのことだ。
仔猫の頃から、飼い猫として育てられたミラに野良猫の生活は厳しいのではなかろうか。
いや、下手したら保健所行きなんてこともあり得る。
そんなことを考えていると、すぐそばから声がした。
「ミラは大丈夫だよ。これからもずっとレンヤ様のそばにいるニャ」
すぐそばから、鈴を転がすような可愛らしい声が聞こえたきた。
振り向くと、美少女が俺の方を見ていた。
綺麗な銀色の髪をした少女だ。
青いワンピースがとても良く似合っている。
頭には猫耳をつけている。
よく見ると尻尾も見える。
白いモフモフした耳と尻尾は、さわったら凄く気持ち良さそうだ。
「えっ? 君は??」
何が起こっているのか全く分からない。
なんとなくこの少女に聞けば分かるような気がした。
「わたしは、あなたの飼い猫のミラだよ。一緒に異世界に転移させてもらったニャ。よろしくね、ご主人様」
理解が追いつかない。
異世界転移? この子がミラ?
通勤電車の中で、異世界転移モノのラノベを読んでいた時期もある。
それが現実に起こったってこと?
それに……、ミラが女の子になっちゃったってこと?
「ミラのお気に入りの寝る場所は何処? あとは一番記憶に残ってることは?」
我ながらおかしいとは思うけど、ミラ本人か確かめるにはミラしか知らないことを聞いてみるのが一番だ。
「うーん……。寝るのはやっぱりレンヤ様のお腹の上かな。温かくて凄く落ち着くんだニャ」
「おお、たしかにミラはいつも俺のお腹の上で寝てたな……」
寝てる時に俺のお腹にダイブしてきて、「グフッ」てなったこともあったな。
「一番記憶にか……。レンヤ様との大切な思い出はいっぱいあるからね……。あ、ずいぶん前のことだけど、今でも覚えてることがあった」
少女は、思い出したと言ったふうにポンと手を打つ。
「何のこと?」
「仔猫の頃、自分でおしっこができない時に、お腹を優しくさすってくれたよね……。おかげでいっぱい出たよね……?」
少女は自分の下腹部をサスサスしながら、顔を赤らめている。
「――っ!?」
アウトだ! アウトだからっ!
たしかに仔猫は自分でおしっこができないときには、刺激を与える必要がある。
なでたり、優しくマッサージしてあげる必要があるのだ。
ミラが仔猫の頃、何回かやったことだ。
けど、それを美少女の姿で言われると、とてつもない背徳感が……。
「わたしがミラだって信じてくれる? レンヤ様?」
少し赤みの残る顔で、微笑む少女。
まだ、頭の中はこんがらがってる。
それでも、俺は信じることにした。
信じたかったのかもしれない。
心配だったミラが元気でそばにいるというのは、これほど嬉しいことはない。
「信じるよミラ!」
「ありがとう、レンヤ様! これからもよろしくニャ」
目の前の美少女が、満面の笑みを浮かべる。
やっぱり、天国に来てしまったのかもしれない――、そう思ったのだった。