人死人、惨葬すべし
大学生協の掲示板に、求人があったのだ。
「靴の手入れを怠るな」
アルバイト先で最初に組んだ先輩から言われた、最初の言葉はそれ。
控室の鏡で身だしなみを整えながら、こちらも見ずに。吐き捨てるように。
採用されて初日、事前に会社から「喪服を着てくるよう」言われていたが、持っていないことを告げると「暗色の華美でない、いざという時に逃げられる服装で」と言われたので、言われた通りの格好をしてきたつもりだった。
そして事務所に着くと早速この先輩と顔合わせをして、二人きり。
先輩は私の上から下まで一度だけ観察して、そして私を視界に入れるのを止めた。
この道10年という先輩は大柄で、会社から支給される真っ黒な礼服を肉が押し上げて、まるで山。
そして足元を見れば、革靴はいつもピカピカに磨かれていた。
「我々の仕事は、人の最後の瞬間に立ち会うことだ。最後に向かい合う人間として、失礼のない格好、立ち振る舞いをすることを心がけなさい」
先輩の愛用はマニュアルに則った、狩猟用散弾銃と古式伝来処刑用の大斧。
マッチョな先輩は片腕に一つずつもって走り回ったって息を切らしたりしないが、念を入れて対象を視認してからは、自分は銃を携行し、大斧を助手に持ち運びさせる。
その助手と言うのが、私である。
「君、礼服は持っていないのか? 今まで冠婚葬祭は? ああ、学生だったか。スーツはある? それでも構わないが、仕事用の正装を用意しておいた方がいい。今日の業務が終わったら事務所で相談しなさい。俺から言っておくから」
意外と、面倒見がいい人だった。
なんとか受験には成功したものの奨学金をもらい損ねた私が、入学式を終えた夜から始めることにした、拘束時間に対し妙に割のいいバイトの初夜。
事務所の裏の控室。先輩の淹れてくれたお茶を飲みながら30分、早速の呼び出し。
専用ケースに入れた大斧を背負って、事務所に一声かけてから、現場用の革靴に履き替えた。
高校時代のジャージに革靴というのはなんとも見栄えが悪く(その上斧を背負ってる)心地よい気分にはなれないが、先輩の「規則だから」という天声は絶対なのである。
現場は最寄りの電車を使って15分。
駅から歩いて12分。
明かりのない路地裏。
そういう風に、彼女と出会った。
先輩から簡単な概要だけ教えてもらった。
彼女が死んだのは一昨日夜。病院で死亡が確認され、家に戻り通夜が行われたのが昨日。
今日の午前10時から告別式が行われることになっていたが、斎場への移動を準備し始めた今朝方日の出の頃より急に目を開けて、うめき声のような産声のようなよくわからない声を上げ始めたらしい。
葬儀屋が自宅へ来た時には、すでに起き上がりどこかへ行ってしまったらしく、放心した母親だけが抜け殻となった布団の前で座り込んでいた。
その後、どこをどう歩いて家から歩いて五時間のこの路地裏まで来たのかは不明だ。
ばれないのだろうか?
先輩曰く「起き上がってから最初の12時間程度は、ほとんど見た目は人間と変わらない。御遺体に損傷がなく、服装が乱れていない場合、見つけてもそれと気付かない場合は多い。しかし、一度腐敗が始まれば後は早い。今の彼女のように」
先輩の視線で示す先にいる彼女とやらは、もう、見るからにゾンビだった。
パジャマを来た、裸足の女の子。肌の見えてる部分は緑がかった腐食跡で染め上げられ、髪は抜け落ち、目玉も片方ない。ゆらゆらと、幽鬼そのものの足取りで目的もなく歩いている。
よくも、誰にも気付かれずに夜までいれたものだ。
「まずは、拝礼だ」
あっけにとられている私に、これまたマイペースな先輩の指導。
先輩はこっちにも気付かずにうろうろしている歩く亡者に対して、両手を合わせ拝み始める。
なにやらもごもごと呪文を唱えているが、何かのお経だろうか。後で訊くと般若心経唱えていたらしい。
ひたすらにシュールな光景だが、本人はいたって真面目である。一応、私も真似して両手を合わせて、ゾンビさんを拝む。
さすがにあんな怪物然とした彼女を前にして黙祷する度胸はなくて片目をうっすら開ける。
なんだか、こっちに気付いたらしくのろのろと向かってくる。
先輩に来ましたよと告げるが、「わかっている」というだけで、なんやらはーらーみーらーと続ける。
彼女が5mの距離まで近づいた。これ以上近付かれたら先輩を置いて逃げようと思ったところで、御祈りを終えたらしい。
慣れた手つきで背中にかついだ銃器を構えながら、私に「そろそろケースから斧を出して待機していなさい。もし、彼女が君の方に来たら、うん」
うん、なんなのだ。
しかし、彼女は空気をちゃんと読んで、先輩の方に向かってただれた皮膚が垂れた両腕を突き出し、うーうーあーあー言いながらのろのろ歩いてくれている。
ああ、マニュアル通りなら、これから彼女をゾンビから死体に戻す作業が行われるのだ。
そして、先輩はマニュアルとか、守る人だと思う。
「人死人、惨葬すべし」
先輩は銃の引き金を静かに引いた。
聞いたことがないような破裂音の後、彼女の両足が吹っ飛んだ。人間の足って、あんな飛ぶもんなんだ。
頼りなくも己を支える両足を失った彼女は、受け身も取らずに地面に突っ伏した。
先輩は銃を手際よく背負い直すと私に斧を要求した。そろそろ持ってるのが億劫になってくる重さだったので、手際良く渡す。
先輩は斧を受け取ると、うつぶせでじたばたする彼女にゆっくりと近き、骨と肉むき出しの少女の左腕を、自分の右足で踏んで固定した。
流れるように私への指示。
「俺の反対側に回り、彼女の右腕を固定しろ」
……、え。触るの?
先輩の天声は絶対である。
近づき、拝礼し、彼女の傍にしゃがむ。
腐ってるというイメージがあったが、なんだかんだで体の内側は血色がよく、腐敗した肉の臭いもしない。
まあ、つまり両足の傷口からは今も血液がどばどば出ていた。
後から聞いた話では、手で押さえるんじゃなくて、足で踏んで固定していいらしい。
靴底に野球スパイクみたいに刃が飛び出てる専用革靴も、血だまりの中で足を滑らさないという目的以外にも、そういう機能も予定されているのだそうだ。
死体を足蹴にするのは、倫理的にどうなのだろうか。
そっちの方が安全だから、と言われてしまっては私には何も言えない。そういうものか、としか。
ただ、そういうことを先輩は最初に教えてくれなかったので、私はおそるおそるしゃがみこんで、彼女の右腕を抑えて体重をかけた。
思ったよりも、抵抗はなかった。私の体重で、まったく身動きがとれないようだ。
先輩は、彼女が両腕を抑えつけられたことで体の動きが止まったことを確認して、私に告げた。
「首を落とすから、絶対身動きしないように。下手に動いて斧に当たったら、君の首が落ちる」
微動だにしない。
緊張。
一秒後。
彼女の首が勢いよく宙を舞った。
先輩が「首を切断した後は血しぶきが飛ぶからすぐに離れるように」という一番大切なアドバイスをしてくれなかったお陰で、私は頭から全身に帰り血を浴びた。
先輩が勢いよく彼女の頭蓋を踏みつぶし、彼女の胴体が痙攣すらしなくなったことを確認し、分断された足がどこに落ちて行ったか確認したところで、私達の担当業務は終わる。
後は、私達に連絡してきた葬儀社に連絡をして、事務所に帰る。
本来は往路と同じ公共交通機関を使いたいところだけれど、問題は私が全身血の臭いをさせていること。
仕方ないので事務所から迎えが来てくれることになった。
なんだか申し訳ないが、こういうこともあると教えてくれてなかったことへ憤るべきやも。
さて、私達の連絡を受けてマッハでやってきた葬儀屋さんと葬儀屋さんが手配した清掃業者が、ここであったことを跡形も失くしている間、迎えの自動車待ちの私と先輩は特に談笑にふけることもなく、静かに佇む。
掃除、手伝った方がいいのか先輩に訊いたら「それは彼らの領分だから、我々は手出ししない方がいい。できるだけ、我々は依頼者と接触を避けるようにしている」とのこと。正直、散らかしっぱなしは気が引けるのだが、まあ向こうからしてみれば、私達のような職種と関わりたくないという気持ちも、理解できる。
私達の仕事はこれで終わりなのか? と訊いたら、帰って今日使った用具のお清めと、体の消毒、それとメンタルカウンセリングを受けて日誌を書く作業があるらしい。
私、バイトなのにそこまで付き合わねばならないのだろうか。
先輩は言った。
「今は、神経が高ぶっているから平気かもしれない。けれど、心には今夜の光景は焼きついている。どんなに時間が経っても、いや時間が経つほどに、削ぎ落せなくなっていくものだ。ゾンビとは言え、人の肉体を破壊するストレスは並大抵のものではない。靴を手入れすることだ。黄泉返った御遺体が、最後に対面する者として己を整える。魂の冥福を祈り、死者に敬意を払い、心を正す。そうでなければ、破壊し頭を潰す惨葬などできない。己を保てない。日々の心がけがあるからこそ、これは、この国で仕事として成り立つんだ」
それが、死神公社の矜持だ、と先輩は私の眼を見ずに、言う。
ああ、きっと。
先輩は自分に言い聞かせているのだろう。
そういう大事なことは、仕事始める前に懇切丁寧に言って欲しかった。
「君は」
うん?
「君は、何故こんな仕事に就こうと思った?」
求人出ていたからです。
でも、ま。うん。円滑なコミュニケーションのために一応言っとくか。
「先輩、さっきの彼女って生き返ったわけではないんでしょ? 勝手に死体が動いたってだけで」
「御遺体と言いなさい。うん。ただの人死人だ。生前の人間性とは関係がないと立証されている」
「じゃあ、ただ人の形したもの解体するだけじゃないですか。そこまで悩むことないんじゃ?」
「……」
「大体夜の仕事だし、学費稼ぐのにてっとり早いから。それだけですよ」
「……」
「私みたいな冷たい奴に、ぴったりだと思ったんです。それだけです」
「それでは駄目だ。君はお給料を頂いてこの仕事をする以上、相手が人であることを忘れてはいけない。俺や君だって、いつか死んでゾンビとなって歩きだすかもしれないのだよ。その時、自分を惨たらしくも葬ってくれる人に対して何を想う? それを抜きにしてこの仕事はできない。しっかりと考えなさい」
だから、私バイトだっつの。
さて、私も明日から大学一年生。
こんなバイトをしていては、新歓コンパも出られることか。
彼女は、葬儀屋に連れて帰られた。
私の方は、迎えの車がまだ来ない。