5-7
老人はすべてを思い出すと、敗北と屈辱の日々に怒りが込み上げてきた。そしてかつての叡智が自分から失われていることにも気がついていた。しかし、老人はわずかに笑みを浮かべてつぶやいた。
「まあ、よい。許してやろう。失ったものなど、これからまた取り戻せばよい」
「おい、じいさん。答えてくれよ」
老人に声が聞こえた。それは聞き覚えのある声だった。確かケネスといったか。そうだ。ここまで一緒に来た連中の一人だ。
「お前たち、まだそこにいたのか」
「いたのかはないだろう。誰がここまで連れてきてやったと思っているんだ」
そうだったな。老人はまた笑みを浮かべた。
「本来この場所は選ばれたものしか入れぬ神聖な場所だ。だが、お前たちには借りがあるからな。特別にこの場所にいることを許してやろう」
「それはご大層にありがとうよ」ケネスは言いながら、老人の口調が明らかにさっきまでと違うことに気がついた。
「そう言えばお主ら、宝がほしいのだったな。ならばくれてやろう。真の叡智は何物にも勝る宝であり、それは決して独占することなどできなく、共有すべきものであるからな」
「何のことだかわからねえよ」
「すぐにわかる」
老人はソファーの横にある机の上に手を伸ばした。そこにはいくつかのスイッチなどがある操作盤があった。老人はスイッチの一つを押した。
すると、何もなかった部屋の側面の壁が開き、人くらいの大きさの白い彫刻が現れた。片面に四つ、合わせて八つはあるだろうか。さらに正面の壁が上に持ちあがり、こちらにも二つの彫刻が現れた。彫刻の形はいずれも同じで女神を模っていた。
「偉大なる女神ソフィアの歌を聞くがよい」
老人は別のスイッチを押した。
すると突然、ファブリスたちの頭の中に音声が鳴り響いた。最初は小さかったが、それはだんだんと大きく、意味のある音として捉えられるようになった。
「数学か?」
ファブリスはその音が何かを理解した。それは様々な数学の公式であった。左右の女神たちがかすかに振動している。彫刻などただの飾りであろうが、まるで女神が直接頭の中に語りかけてくるようだった。
起こったことはそれだけに留まらなかった。ファブリスの目の前に数式が視覚として現れ始めた。目の前に白い文字で数式が浮かび上がる。目を閉じても瞼の裏に文字が浮かび上がる。聴覚と視覚、それぞれに対して直接頭の中に注ぎ込まれてくる。
ファブリスは意識を集中して仲間の様子をうかがう。三人とも同じような状態になっているようで戸惑った表情を浮かべている。
さらに音声と映像による数式の数が増えていった。目を閉じても耳をふさいでも、何十何百もの数式が頭の中に入ってくる。やがて、数式だったものが、今度は意味の分からない音に変わった。それは古代の言語のようだった。その言語を話す人たちが頭の中に映像として現れては消える。古代の言葉とその言葉の意味が繰り返し頭の中に刷り込まれていく。
音声と映像で表わされる内容は、どんどんその数と速さを増していった。それを拒もうとしてもどんどんと注ぎ込まれていく。もはやまともな感覚で理解できる速さではなかった。ファブリスは、だんだんと意識を保っていくことが難しくなってきて、その場にうずくまった。薄れゆく意識の中で、近くにいたメルルが頭を抱えて椅子に座りこんでいるのが見えた。
「メルル」
ファブリスは声を発しようとしたが声が出なかった。声を発しようという意識も、次々と移り変わる情報の中ですぐに消え去ってしまう。
老人はソファーに腰をかけて、現れてくる音声と映像を味わっていた。
「これだ。これこそが私もかつては持っていた人類の叡智の結晶だ」
老人は失われた知識がおぎなわれていくことをゆっくりと感じていた。
それはソフィア教が行きついた結論であった。叡智には知識が必要だが、個々人があらゆる分野の知識を持つことはできない。できたとしてもそれは一部の天才だけであった。そこで、人類の様々な知識を電子化し、直接脳に情報を送りこむことができるように信号を送る音波装置を開発した。
しかし、それは脳に直接作用するため、脳に損傷を与えるおそれもあり危険も多かった。実際に知識を追い求めるがために装置を多用し、精神がおかしくなる信者も現れた。このため、情報量をコントロールし、それぞれの水準に合わせたレベルで実施するのが通常の運用であった。しかし、老人は自分の失われた知識をすぐに取り戻したかった。そのために、送られてくる情報量の設定を最大限にした。それは、その半分でも一般人には危険とされるレベルであった。
ファブリスの頭の中に、情報は留まることもなく送り続けられていた。意識は線のように細くわずかに保っているだけであった。もはやその場から動くという意識を保つこともできなかった。
言語の次には化学が続いた。元素記号や有機化合物の化学式、さらにはそうしたものを解説する学者たちの映像が高速で流れる。その学者たちはいずれも現在存在するか過去に存在した者たちであり、学者たちの実際の映像や音声、必要に応じてはそうしたものを作り、化学に関する説明が行われた。
そして化学から今度は物理学に移った。意識の中で古代の物理学者が現れ講義を始める。力学や相対性理論、量子論などが語られる。映像として現れる学者は次々とその姿を変え、また、新しいことを説明していく。講義は古代から近代へと次々に進んでいく。
拒むこともできず、脳の処理能力を遥かに超えて、容赦なく送り続けられてくる膨大な量の情報は、ファブリスの精神を容赦なく蝕んでいった。
そして物理学の内容が現代に変わった時、意識の中にファブリスがよく知っている人物が現れた。
(父さん)
そこでは、ファブリスの父、ギルが講義をしていた。それはまだ若い姿であり、教壇に立って物理の講義している姿であった。テルビナにいた頃の父とは異なり、堂々と自信に満ちた姿であった。
講義の内容は、「重力子グラビトンによるミニブラックホールの生成」というテーマで、ブラックホールを人工的に精製することで、無限のエネルギーを生み出すという内容だったが、専門的な内容であり、ファブリスはその詳細については、ほとんど内容を理解できなかった。
しかし、突然現れた父の姿は、虚構の中をさまよっていたファブリスの意識を目覚めさせた。
(父さんに、会いに行くんだ)
その思いは、膨大な情報の中に埋もれようとしていた意識を現実の世界へとつないだ。
「うわああああ~っ!!」
ファブリスは腹の底から声を上げた。身体的な刺激は意識に現実感覚を取り戻させ、さらに声が響いたことで、周囲から発せられる音波にわずかに影響を与えた。
ファブリスは意識を集中させた。頭は痛むが何とか意識は保てた。そして、周りを見た。目の前にはメルルがいた。その目は虚ろだったが、ファブリスの叫び声を聞いてわずかに反応した。
「メルル。大丈夫か」
ファブリスはかけよって、メルルの身体を揺り動かした。メルルの目が動き、その視界にファブリスを捉えた。
「お兄ちゃん。父さんが……、父さんがいたよ」
メルルも同じ光景を見たようだった。しかし、今はその話をしている時ではない。
「メルル、立てるか?」
メルルはふらつきながらも何とか立ち上がる。
「よし、いいぞ。メルルはニナを頼む」
ファブリスはケネスの元へ向かった。ケネスは地面に座ったまま放心状態であったが、ファブリスが強くその体を揺り動かすと、わずかに意識を取り戻した。
「ファブ、リス、か」消え入りそうな声だった。
ファブリスはケネスを立たせると抱えるように部屋の出口に向かった。メルルも同様にニナを抱えるように出口に向かっていた。
吐き気をこらえながらもファブリスは出口に近づいて行く。ケネスもファブリスに抱えられながらも何とか歩くことができた。そして部屋の入り口に差しかかった。ファブリスたちが近づくと半透明の壁が自動的に開いた。
ファブリスはケネスを外に出した。部屋の外には音波があまり届かないようだった。
「お兄ちゃん。あのおじいさんは」
メルルの言葉に、ファブリスは老人の方を見た。
老人はソファーの上で、虚ろな目をしながら、恍惚の表情を浮かべていた。その表情は固まりピクリとも動かない。鼻からは黒いものが流れていた。
「それよりも早く安全な場所へ」ファブリスはそう言うと、メルルとニナを部屋の外へと押し出し、自らも外へ出た。
すると半透明の壁が閉じた。閉まる瞬間に老人の表情が見えた。その表情はとても幸せそうに見えた。
壁が閉じると完全に音波は遮断された。そして一度閉じた壁は、触っても叩いても開こうとはしなかった。
「ひどい目にあったな」ケネスが言った。だいぶ意識が元に戻ってきたようだ。
「まったくね」ニナも同様だった。
「おじいさん。大丈夫かな」
メルルは心配そうな顔をしながら、すでに閉じた壁を見つめていた。
「あのおじいさんにとっては、たぶんこれが望んだ結末だったんじゃないかな」
ファブリスは最後に見た老人の表情を思い返しながら言った。
「それよりだいぶ遅くなった。ファルメルに戻ろう」
ファブリスの声に三人はうなずいた。
美術館、図書館を通り、最初の入り口に戻った。
「ケネスさんとニナ、二人は操縦できそうなの?」メルルが聞いた。
「ああ、まだ頭が少し痛いが、宇宙港までなら問題ないだろう」
「私も問題ない」
ニナも頭を押さえながらも、いつもの冷静な様子で答えた。
建物の外に出ると、外は完全に闇で覆われていた。懐中電灯が灯される。
最後にニナが建物の外に出ると、壁の穴は閉まり、そこに入口があったことすら分からないような壁に戻った。
一行はファルメルがある小道へと抜ける森の方へと向かった。その時、ケネスが声を上げた。
「しまった。金を詰めた袋を中に置いていってしまった」
確かにケネスは金を詰めて膨らんだ布袋を持っていなかった。
「ちょっと引き返して取ってくるわ」
引き返そうとするケネスを、ファブリスは引きとめた。
「無理だよ。あのおじいさんじゃなきゃ中には入れないし。それにあのお金は持ち出すべきじゃないと思うんだ。なんとなくだけどね」
「そうか。まあ、入れないんじゃ仕方ないよな」
ケネスは名残惜しそうに建物を見た。
そのやり取りを聞いていたメルルは少しうなだれた。
「メルル、どうした。まだ頭が痛いのか」ファブリスが声をかけた。
「ううん。大丈夫だよ」
「そうか、それにしては少し顔色が悪いような気がするけど、周りが暗いからかな。ところで、そのポーチ、いつもより膨らんでいないか」
メルルはびくっとした。
「あっ、ここに来る前に街で買い物して、それを中に入れたからだよ。うん」
「買い物って、お前何か買ったっけ。もしかしてフルーツビートルの乾したお菓子とか」
「そんなの私が買うわけないじゃない。お兄ちゃんのいじわる」そう言うとメルルは殊更ふてくされたような表情を浮かべた。
「ごめん。ちょっとからかっただけじゃないか」ファブリスはメルルの予想外に強い反応に少し戸惑いながらもメルルに謝った。
ファブリスとメルルがそんなやり取りをしているその少し後ろを、ケネスはニナと並んで歩いていた。
「あのお金は本当に惜しかったな」ケネスが言った。
「あの状況じゃ仕方ないわよ」
そしてしばらくの沈黙ののち、また、ニナが口を開いた。少し小声だった。
「次がいよいよディダね」
「ああ、いよいよだな」
「二人から目を離しちゃだめよ」
「分かっている。何せギル=ノマークの子供たちだからな」
そう言うと、ケネスは前を歩く兄妹を見た。まだファブリスが妹の機嫌を取り戻そうと必死になっているようだ。
「逃がしはしないさ」
ケネスはニナにも聞こえないような声で呟いた。




