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老人は図書館に戻ると今度は迷うことなく奥の壁に向かった。そしてそこでまた壁に手を触れると、壁が開き、中に入って行った。
「今度は何かな」メルルが無邪気な声で言った。ファブリスも次に何が出てくるか楽しみになっていた。
次の部屋も図書館と同様に広い部屋で吹き抜けになっていた。そしてそこにあったのは、様々な絵画や彫刻などであった。
「今度は美術館か」ケネスはそう言いながらもその数に驚いていた。
そこには学校で習ったような美術の作品が無数に並べられていた。古典美術、近代美術、現代美術。ありとあらゆる時代、様式のものが揃っていた。
「これはホログラフか」
ケネスは彫刻の一つに近づいた。だれでも知っているような有名な彫刻で、確かどっかの星の美術館にあるはずのものだが、近くでよく見てみると、展示物の下に光源があり、立体的な姿を映し出していた。触れてみようとすると手が突き抜ける。
他の彫刻や絵画なども同じのようである。さすがに古今東西の美術品を集めるのは不可能であったのだろう。しかし、それでも一見すると本物と見間違うほどの出来栄えであった。
「ねえ、こっちもすごいよ」
メルルの声がした。そこは美術館とは薄い壁を隔てた別室であった。
ファブリスが入ってみると、中にはピアノやヴァイオリン、ギターなど様々な楽器があった。ピアノだけでも新しいものから古いものまで十台以上あり、形や時代も異なっていた。ヴァイオリンなどの弦楽器や、フルート、オーボエといった管楽器など、壁に無数に並べられ、さらに、リュート、ヴィエラなど古代の楽器なども多く揃っていた。
また、並べられている棚には、音楽に疎いファブリスでも聞いたことはあるような有名な作曲家の楽譜が、時代順にびっしりと並べられていた。美術や音楽などには決して詳しくはないファブリスとメルルであったが、その質と量には圧倒された。
美術館の一角で、老人はある絵画を目にしていた。それは圧政からの自由を求めて、女神に率いられて戦う民衆の絵を描いた絵だった。それもデジタルで復元された絵であり、本物ではなかったが、圧倒的な質感になって老人の心をうった。
老人は、また記憶の断片が浮かび上がってくるのを感じていた。
それは、多くの若者が美術品を模写したり、ピアノを弾いている情景だった。楽器の演奏に卓越した若者が集まり、美術館で即席の弦楽四重奏が奏でられたこともあった。女神に率いられた民衆の絵をバックにして演奏されたその美しい音色を今でも思い出すことができる、いや……、今思い出した。
老人はまた我に返ると、さらに前に向かって歩いて行った。
「おい、ファブリスとメルル。じいさん、また先に行くぞ」
ケネスが別室にいる二人に声をかける。ニナはそれなりの関心があるらしく、熱心に美術品を眺めていた。
老人は美術館の奥にいくと、また、半透明の壁に手を触れた。
「この次だ。この次ですべて……」
老人のつぶやきは誰にも聞こえなかった。
美術館の奥の壁が開き、老人が中に入った。ファブリスたちも続いた。
次の部屋には、今までの部屋にあったような驚くような展示は何もなかった。そこは講堂のような部屋で二百人くらいが座れるような座席があり、部屋の前の中央には舞台があり、そこにはソファーが置いてあった。何が出てくるか楽しみにしていたファブリスは少し期待外れだった。
老人はまっすぐに進み舞台に上がるとソファーに腰をかけた。ファブリスたちも部屋の真ん中まで進んだ。ケネスが老人に呼び掛けた。
「じいさん。いい加減に教えてくれてもいいんじゃないか。ここは、この建物は一体何なんだよ」
老人は部屋をゆっくりと見回すと、その問いに答えた。
「ここは、叡智を司るソフィア様を仰ぎ奉るソフィア教、世間の者は拝智教と呼ぶがな、その神殿だ。そして、この部屋はその神聖な儀式を行う部屋じゃよ」
老人の口ぶりは堂々としたもので、今までとは明らかに様子が変わっていた。老人は失われた記憶を取り戻していた。
ソフィア教は叡智を崇め、叡智を集めることを主たる目的とした宗教団体だった。始祖から始まり、何百年もかけて人類の叡智を集めてきた。次第に信者も増え、街には立派な神殿も建てられた。そして老人はソフィア教の第三十一代に当たる神官長であった。
信者が増えるとそれをよく思わないものも増えてきた。政府も不当な疑いをかけては介入しようとしてきた。そこである時代の神官長が考えたのは、神殿を二つに分けることであった。正なる神殿と奇なる神殿。迫害者から叡智を守るために、正なる神殿はその存在を秘匿するために森の奥に建てられた。そして図書や楽器などオリジナルはすべてそちらに移され、その存在は信者の中でも一部の者のみが知ることとなった。街の神殿は奇なる神殿として、変わらず信者が多く訪れていた。しかし、図書などが複製本に変わっていたことに気がついたものは多くはなかった。
神官長をはじめとする一部の幹部はこうした秘密を代々受け継ぎながら、どの時代の神官長も常に叡智の体現者として、信者の崇拝を集めた。そして神官長もそれに応えるため、常に知識の習得に努めていた。
そして悲劇が起こった。八年前のことである。
信者、それも特に若い信者に精神に変調をきたすものが続出した。神殿の中で怪しげな儀式が行われているという噂もあった。このため、保安局の人間が神殿に立ち入りを求めてきた。
しかし、神殿は神聖な場所であり、外部の不当な進入を許すわけにはいかず、拒否した。政府はそれで黙ってはおらず、実力行使に移った。武装した保安隊を派遣した。信者たちはそれにも抗い、ついに武器を持ち出して、保安隊を追い払った。このため、ついには軍隊が介入してきた。軍隊の攻撃は熾烈を極めていた。何台もの装甲車により砲撃が行われ、空からは戦闘艇による攻撃が行われた。神殿には発火剤がまかれ火がつけられた。一度広がった火は消し止めることはできなかった。
信者たちは神殿を守るため、そして大切な叡智を守るため、必死に抵抗したが、圧倒的な力の差の前に、神殿は焼け落ち、信者の多くが殺された。老人の息子も戦いの中で死んでいった。そして老人は捕まり連行されていった。
異質なる存在を許さない保安局による取り調べは過酷なものであった。老人は毎日苦痛を浴びせられ、信者の名前をはかされた。身体だけでなく精神も痛めつける拷問に対して抵抗することはできず、やがて老人は信者の名前をはいていった。しかし、それでも正なる神殿の存在だけは言わなかった。
もはや老人はそれ以上何の情報も持たないと保安局は判断したが、それで終わったわけではなかった。老人は多くの保安局や軍の者の前に引き出され、絶えぬ罵声と屈辱の言葉を浴びせられた。老人が信者の名前を吐いたことを責めるものもあった。
老人は薬を飲まされた。その薬を飲むと頭がぼんやりして、集中して考えることができなくなった。そんな状態で簡単な問題の答えを問われた。頭が通常の状態なら難なく答えられるその問いに対して、老人は答えることができなかった。その度に笑いと罵声が起こった。「こんな問題、子供でもできるだろう」と。叡智の体現者である老人の心を砕くには効果的な方法であった。
やがて老人は衆目にさらされた。多くの一般人から罵声と侮辱と嘲笑が浴びせられた。老人は、一般人の中にかつての信者たちの姿も見た。かれらも同じように罵声を浴びせていた。保安局と取引をして罪を免れた信者たちであった。
老人の精神はぼろぼろになっていた。頃合いを見計らい手術が行われた。それは記憶を司る間脳の一部を焼き切るというものであった。もはや全ての気力を失っていた老人は抵抗することもなく、手術は行われた。手術の成功を見た保安局は老人を釈放した。
老人にはもはや、かつての叡智を司る神官長の面影はまったくなかった。ただの人畜無害な年寄りになっていた。政府の攻撃を逃れた一部の信者たちは老人にひそかに接触を図ったが、以前とはまったく人が変わってしまった老人を見ると、一人また一人と離れていった。それでも敬虔な一部の信者たちが、僅かばかりではあるが、隠れてお金や食べ物を老人に渡していたので、老人は今日まで生きながらえることができた。
老人は何もかも忘れていた。しかし、数ヶ月前、信者がくれた果物を包んでいた古新聞に、かつてのソフィア教の神殿の写真が載っていた。それは軍に攻撃される前の、まだ、多くの信者が訪れていた頃の写真だった。その写真を見て、老人はかすかに思い出した。森の中にある神殿の存在を……。




