狼狩り
■ おおかみ
昼下がりのモーテルの一室。カーテンが完全に閉めきられて、室内は黄褐色の夏の空気が満ちている。
粗末なテーブルの前に、一人の青年が座っている。まだ起き抜けらしい、不機嫌そうな表情をしているが、驚くほどの二枚目だ。
テーブルの上に、乱暴に、プラスチックのボウルが置かれた。
青年はゆっくりと顔をあげて、テーブルの向こうに立つ男を見遣った。
背の高い男だ。テーブルの青年よりかいくらか年上に見える──あくまで、外見上は、の話だ。鍛え上げた筋肉が、シャツの上からでもわかる。それも、見せるために膨らましたのではない、本物の鍛え抜かれた体躯だ。精悍な顔つきをしてはいるが、どことなく垢抜けない、素朴な雰囲気がある。
「──豚か?」
青年が、ボウルにチラリと目をやって、低い声で尋ねた。
「牛は高くてね」
相手は冗談めいた口調でいった。
ボウルの中は生の肉だった。まだ湯気すらたっている。
「屠殺場で直接買って来たんだ。新鮮なうちにさっさと喰え」
青年は、血塗れの肉塊を一つ、手にとって、においを嗅いだ。濃厚な血の匂いが、人間より遥かに鋭い青年の嗅覚を刺激する。その血には、まだ、生命が残っていた。しかし、それも急速に薄れて消えようとしている。
「……クソ」
青年は小さく毒づいて、生肉に噛り付いた。
もう一人の男は、洗面所で、手に付いた豚の血を洗い流した。それから部屋の窓際に立って、閉め切ったカーテンの端を少し開け、窓の外を眺めた。
ひなびた地方都市の昼下がりが見える。モーテルの前の通りを、時折、人や、くたびれた車が通り過ぎて行く。
「……お前は?」
「オレは外で喰って来た。そこに安くて旨いステーキハウスがあった」
「どうりで大蒜の臭いがすると思ったぜ。ガーリックソースかよ」
青年が顔をしかめた。
「オレじゃねえ。コックのやつ、ロクに鉄板の掃除もしてねえんだ」
「焼いた肉なんか、喰うな。狼のくせに」
「オレだって半分は人間みたいなもんだ。人間並の食事がしてえよ。アルマー、お前が、死んだ肉は喰えないだの、昼間は表歩けないだの、イロイロうるせえこというから」
「仕方ない。オレはそういう体質なんだ。生きた血と肉じゃないと」
アルマーは不機嫌そうにいった。
「夜になったらまた、エサを探すさ。我慢の限界だ」
「一昨日、やったばかりだろ。騒ぎになるぞ」
相手の男──モキがいった。
「じゃあ、犬でも襲うか」
アルマーが冗談めいた口調でいった途端、モキが歯を剥いて唸った。
「アルマー、お前がネズミや人間や牛や豚を喰おうと、何も言わんよ。だが、犬だけは、オレが許さん」
「ああわかったよ。美人の雌犬がいたら、お前に紹介してやるぜ。……どんな犬が美人なのか、オレにはわからんがな」
「アルマー!」
モキは、本気で噛付きそうな勢いで叫んだ。
アルマーは口をつぐんで、後は、黙って生の豚肉──モキの目の前で殺された豚から切り取られた肉──を貪った。既に、肉からは死臭が漂い始めている。
窓が閉め切られていて、室内には、血のにおいが立ちこめていたが、モキは満腹だった。モーテルの近所のステーキハウスで、二ポンドほど平らげて来たばかりだ。
モキにも、アルマーの苛立ちはわかった。こんな田舎の街は夜が早い。真夜中ともなると街全体が死んだようだ。夜にしか生きられないアルマーにとっては、街から締め出されたようなものだ。
実のところ、モキだって、生きた獲物を自分の牙で殺して、その血を啜り、肉を引き裂きたい。その衝動は常にある。町外れの小屋で人知れず屠られて、厨房ですっかり調理された肉を、人間の食卓で、人間と同じように、喰うのでなしに。
しかし、今は、それも難しい。都市には生きた大型の獣がほとんどいない。人間ばかりはうようよいるが、人間を殺せば人間の敵になる。それ自体はどうでもいいが、人間達に敵と認識されると厄介だ。一人一人は脆弱な獣だのに、集団になると途端に強気になる。それが、人間達の力だ。自分達と異質の存在を探し出し、排除し、滅ぼして、しまいには忘れてしまう。忘れるために無理矢理探し出す。
モキは午後の街を見つめながら、知らず、歯噛みした。
モキは、人間が、苦手だ。
都市というのも烏滸がましくて、昼の間はそれでも都会を気取っているが、夜ともなると早々に店は閉まり、通りから人が絶える。
町外れの墓地で、数人の不良達が騒いでいる。アルコールとドラッグで、ささやかなパーティだ。
平らな墓石の上で木を燃やしている。それ以外には、やや欠けた月だけが照明だった。
スキンヘッドに黒い隈取りのようなアイメイクをした少女が、ふと、小さな声を上げて、墓石から立ち上がった。
すぐそばにいた男が、顔を上げて、彼女の指した方を見た。
五〇メートルほど離れたあたりを、誰かが歩いている。見知らぬ男だ。白っぽい服を着ている。
最初、墓地の管理人かと思った。
しかし、どうも様子が違う。
彼はまるで、夢遊病者のように、月の光に歓喜しているようだった。
しかし、パンク達には詩情はなかった。
彼らは互いに顔を見合わせてにやりと笑うと、ふらふらと立ち上がって、孤独な闖入者に近付いて行った。
「ヨウ……」
一人が、ロレツの回らない口調で男に呼び掛けた。
「なんだヨお前。こんなとこに何しにきてんだ?」
美しい男は彼らを見て、微笑んだ。嘲笑ではなく、心底、嬉しそうに。
「あんた、イイ男だねえ。ゾクゾクしちゃう」
パンク少女が擦り寄って、身体を押し付けた。
「アタシ、あんたに用事があるよ」
美しい男は、彼女の背に腕を回して、いった。
「丁度いい。オレも、お前達に用がある」
■ いぬ
朝っぱらから、公園の一画が騒がしかった。
表通りからは大分入ったあたりに人だかりがしていて、警官と救急隊員が慌ただしく立ち回っている。
ストレッチャーが救急車に搬入されると、車は大急ぎで走り去って行った。
遊歩道の上に白い線で人の形が残されている。その近くには、引き綱の付いた犬の死体が横たわっている。大きな犬だ。一頭と一人の流した血が、周囲に、大きな血溜まりを作っている。
人垣の後ろの方で、モキは、現場を見つめていた。
モキは小脇にペット用のケージを抱えている。その中では大きな兎が、不安げにせわしく動き回っていた。
モキの位置からは、直接、死体を見ることはできなかった。彼の背が高いので、後ろにいた誰かが毒づく。
しかし、彼の嗅覚は、大雑把に情景を捉えて、彼の脳内に匂いの地図を描いていた。
見物人達の密集して発する臭い、人間の血のにおい──ないより、死んだ犬のにおいが鼻についた。
大型の犬だ。長年の、人間の手による品種改良が進んだ、不自然な程にスマートで、優美な品種だろう──。
兎の方がもっと驚いたに違いない。
ベッドにいきなり兎を放り込まれて、アルマーは飛び起きた。
上体を起して、モキを睨み付ける。
「なにしやがる」
「オレのセリフだ。お前、昨夜、人間を襲っただろう」
「まあな」
アルマーは不機嫌そうな顔つきで答えた。ルビー色をした瞳が、一層、赤みを増している。
「カモがいたんだ。向こうから襲ってくれっていってたぜ」
「人間だけじゃねえ。犬まで殺しただろう。オレがあれほどいったのに」
「……犬? 待て、知らんぞ」
「なに?」
「疑うんなら嗅いでみろ、犬の臭いがするか?」
モキはアルマーに近寄ると、彼の顔や手に鼻を近付けて、クンクンとにおいを嗅いだ。
確かに、アルマーの身体からは、人間の血、妙なクスリや酒、それに兎のにおいはする。しかし犬のにおいだけはしない。
兎は、本能的に、この二人が自分にとって極めて危険な敵だと感じて、逃げようとした──が、一瞬早く、アルマーの手が動いて、首根っこを掴まれていた。
「……じゃあ、お前でなければ誰がやったってんだ?」
「知るかよ。……で、なんだ、この兎は」
「たまにゃ生餌がいるんじゃないかってな」
「昨晩喰ったからな。こいつはとっておこう」
アルマーは立ち上がって、兎をケージに押し込んだ。
「喰ったって……なにをだ。あの公園の死体以外に」
「墓場にいたクズさ。死体は池に放り込んで来たから、しばらく上がらんと思う……せっかく、死体を見つからんようにしたのによ」
アルマーはTVを点けた。
CATVのローカルニュースで、公園で相次いだ惨殺事件を報道している。
三日前、男の死体が見つかったのが最初だ。強盗に襲われたようだといわれていたが、昨晩、今度は犬を連れて散歩中の男が、飼犬と共に殺された。この町でこんな人死にが相次ぐ事自体が珍しい。
「──殺す必要はなかったんじゃないのか?」
モキが、ちらりとアルマーの方をみやっていった。
「ああ……事件になると厄介だな」
アルマーは素直に認めた。
「仲間を増やしたくなくてね。人目に付きやすくなる」
アルマーは、大分くたびれたソファに、気だるげに身を沈めた。
TVでは、よく晴れた町の風景が映し出されている。夏の町。
それに、太陽。
直ではないといえ、画面の隅にときどき映る、白く目映い円盤は、アルマーに、皮肉な感動を興させた。
それは、焼け付くように明るく感じはするが、ただし、結局は電気の伝える映像信号だ。実物ではない。実物の太陽など。
無神経なリアルさだけを伝えようとする人間ども。その映像がリアルならリアルなほど、却って、現実との乖離があらわになる。
現実の彼は、昼間は、この安宿の一室から出ることができないというのに。
コマーシャルになった。
「……おい、モキ、見ろよ」
「なんだ」
「ドッグフードだ」『愛犬の健康と美容に・パピーラヴ』。
「お前な。トマトジュースでも飲んでろ」
鉄柵の向こうで、大きな犬が、不安そうにこちらを見ている。
怯えた瞳。
やけに細長い犬だ。面長で、脚も胴も細く、長い。『優美な、』という言葉が相応しい。しかしその体躯は侮れないな、とモキは思った。
今朝、殺されたのと同じ種類の犬だ。
モキは彼女の前で足を止めた。
犬は鋭い嗅覚で、モキの存在を嗅ぎとっている。人間よりも自分達にごく近い、それでいてそのどちらとも異なった、恐るべき存在を。
犬が低く唸った。
モキは穏やかに微笑んだ。
「ボルゾイ、って犬種なの」
女の声がした。
モキが顔を上げると、柵の向こうの家の窓から、一人の女がこちらをみていた。
若い女だ。
「珍しいでしょ? 優美で、しかも強力だわ。カレシが死んだばかりで、気が立ってるの。気を付けてね。ウルフハウンドの仲間で……狼狩にも使われる猟犬なんだから」
モキは肩をすくめた。
「死んだカレシって、今朝の、公園の?」
「そう。愛犬クラブでよく会ったわ。〈ユリシーズ〉が、うちの〈レーサー〉にゾッコンだった」
「レーサー? 彼女の」と、モキは犬を目で指して、「名前?」
「そ。私はジェイン。あなたは?」
モキは一瞬迷ってから、素直に答えた。
「モキ」
「変わった名前ね。先住民?」
「まあね」
モキは曖昧に笑った。自然生まれと言えば、彼は正にそうだ。山奥の雄大な大自然の中で、生まれ、育った。正真正銘の山育ちだ。
「犬が好きなのね、心から。そういう顔だわ」
「犬にもよるけどな。まあ、同類みたいなものさ」
「そうね。イヤなやつも中にはいるわ。あなたはいい人みたい。中で、お茶でもしない? ほんの三〇分くらいでも」
「あ……」モキは、迷って、左手に下げたスーパーのポリ袋を見下ろした。中には、缶詰のトマトジュース。
……まあ、いいだろう。
女の家は、高級住宅街に相応しかった。
今は一人暮らしらしい。
ポーチにはブランコがぶら下がっている。手入れはあまりよくない。白いペンキがはがれかけて、うっすらと斑になっている。
モキは恐る恐る腰を下ろした。彼の体重できしんだ。が、壊れはしない。
ジェインがアイスティの入ったグラスを手にやってきた。ミントの香り。レーサーが心配そうに彼女につきまとっている。
つくづく大きな犬だ。肩の高さは八〇センチほどある。細長い鼻面は嗅覚の鋭さを物語っているし、すらりと伸びた四肢は驚くほどのスピードで彼女の身体を運ぶだろう。
人工的な品種改良の、頂点の一つだ。野生の狼でさえ、喰い殺す。そのために作られた品種だ。
当のレーサーは、落ち着かない様子で、飼い主のそばを離れようとしない。
「どうしたのかしら。この子。あなたのことが怖いみたい。人見知りなんてしたことないのに。……もしかして、あなたが犯人なの? ユリシーズ達を殺した」
モキは、口に含みかけたティを、思わず吹き出してしまった。
「──でも、あなたは犬が好きなのよね。あんな風に犬を殺せる人じゃないわ、絶対」
彼女は、実にストレートな話し方をする。苦労を知らないお嬢様の物言いだ。
「あなたはこの町の人間じゃないわね」
「……ああ。四日ほど前に来たばかりだ。オレと、アルマーってやつと、二人で」
「気を付けてね。殺人事件があって、みんな、神経質になってるわ。余所者には特に」
一見、穏やかで静かな町だ。
夏の午後の日差しがよく似合う。
高級住宅街のメインストリートは、どこの家の庭も草木が生い茂って、緑が溢れかえっていた。
モキは目を閉じた。鼻と耳が、周囲の空気を捉えて、脳裏に鮮やかに情景を描きだす。目で見るのとは違った、空気の情景。
道行く人々の足音が、時折、通り過ぎて行く。ホテルの周囲の人間とは違う。倦怠ではなくゆとりをもって。
──その中に、ふと、奇妙な足音を聞き取った。明らかに異質の。
ゴム底の、ほとんど足音のしない靴──モキの耳には充分だったが──で、こそこそと忍ぶような。なにかを探しているかのように、少し行っては立ち止まる。
それは、獲物を見張る狩人の足音にそっくりだ。そしてこのジェインの家の周りをうろついている。
モキは目を開けると、ゆっくりと立ち上がった。
「どうしたの?」
自分が不審そうに尋ねた。
モキは無言で、素早く柵際の植え込みに近寄ると、勢いよく茂みを太い腕で払った。
寸前、その向こうに隠れていた男が、素早く、踵を返して逃げて行った。
モキは、やれやれ、といった顔で、ジェインの座っているブランコに戻った。
「ああ、〈トミー〉ね」
ジェインは驚きもしないでいった。
「知ってるのか?」モキにはそのほうが意外だった。
「ううん、前から私の周囲をうろついてるの。覗き魔、だから〈トミー〉。しょっちゅう、家の中覗いたり、ヘンな手紙送って来たり」
モキは顔をしかめた。
「野放しにしているのか? 危険だぞ。あの手の人間は」
「そうかしら。でも、まともに顔合わせたこともないのよ。〈熱烈なファンです、僕の女神サマ〉ってなばかり」
「やつは、君を獲物と見てるんだ。どうやって手に入れるかってことを考えてる。その為ならどんなことでもする。君を愛してるわけじゃない、狩猟本能とプライドなんだ」
「詳しいのね」
「オレも似たような目に遭ったからな」ただし、本物の猟師に、だ。モキは無意識に、自分の肩の付け根の古い傷痕に触れた。猟銃から発射された鹿撃ち弾がめり込んだ痕。モキの頑強な筋肉に阻まれて、貫通しなかった。
「怖いわね」
ジェインはまるで他人事のように言った。
「怖いさ。怖さを知らないヤツが一番ね。君も、オレみたいに素性の知れないヤツを、簡単に近付けない方がいい」
「そう? 『男は狼なのよ』って?」
モキは咳き込んだ。
「でも、羊や兎には飽き飽きしたの。私、犬科の扱いには慣れてる。狼は狼であることを隠さない」
「……で、オレは、羊や兎じゃない?」
「どうかしら。犬科なのは確かよね。そう、狼っていうカンジだわ、正に」
アルマーは聞くなり大笑いした。ルージュを引いたように赤い唇から、八重歯というにも大き過ぎる牙を剥き出しにして。
「まんまじゃないか、なあ。鋭い女だ。興味が沸いた」
アルマーは椅子の上で身をよじって笑っている。
「ダメだ、お前は近付くな。お前こそ危険人物だ、全ての人間にとって」
「ふん、なにをいってやがる。人間のつもりか?」
「オレは曲がりなりにも、マトモな獣さ。犬や人間と同じに。お前みたいに、生きた人間を襲いたいなんて言わん」
「言わないだけだろ。狼が本性を変えられるかよ」
「アルマー」
「お前だって、本当は、自分の牙で獲物を殺したいんだろ」
アルマーは、部屋の隅に置かれたケージから、兎を引っ張り出した。灰褐色の大きな野兎だ。早朝、モキが市場で買って来た。ペットショップでなら愛玩用として売られるものを。これには食用の札が付いていた。
兎はすっかり怯えきって、身をすくめている。
「喰えよ。お前が。遠慮せずに」
「よせ、今はそんな気分じゃない」
「お前が買って来たんだろ。オレに喰い殺させるために」
アルマーはモキに向かって兎を投げ付けた。
モキは懸命に兎を受け止めた。兎が、彼の手の中で暴れる。
モキは窓に駆け寄ると、カーテンを一杯に引き開けた。そして、窓を開けると、兎をそっと下に下ろした。兎は大慌てでモーテルの前庭を走って、逃げて行った。
正に、『脱兎のごとく』、だ、とモキはつい苦笑して、その笑みを残したまま振り返った。
彼がカーテンを引き開けた瞬間、アルマーが小さく叫んでいた。
今や彼は、ベッドの下に潜り込んで、部屋一杯に侵入した午後の日差しを避けている。生命を守るために。他の生き物達から直に奪い取った生命を。
「モキ! カーテンを閉めろっ」
ベッドの下からアルマーが怒鳴った。
「大きな兎がいたと思ったが」
モキはとぼけていった。
「大きくて、すばしっこい兎だ」
「……わかった。言い過ぎた。謝る」
モキがカーテンを引いて、再び室内に穏やかな薄闇が戻ってくると、アルマーはベッドの下から這い出した。
彼の怒った顔を見て、なるほど、兎だ、とモキは内心呟いた。耳は尖っているし、門歯の代わりに牙がある。なによりルビーのように赤い瞳。
しかし、だとすれば、凶暴な兎もあったものだ。彼が兎なら、自分はさしずめ、ネズミだろうか?
「──なんだよ」
アルマーがモキを睨んだ。
「……いや。お前はどうしたって犬にはなれんな、とね」
「ふん」アルマーは鼻で笑った。
「──兎、惜しいことをしたな。逃さなくても良かったのに」アルマー。
「お前のせいだぞ」
「こんな町中で放しても、すぐに、車に轢かれるか、人間に捕まってシチューにされるぜ」
「ペットとして可愛がってくれる人間に出会うことを願うよ」モキ。
「偽善者め」
「時には犬にならんとやってけないさ」
「……で、今晩はドッグフードか?」
「すまん。彼女に誘われてる。高級レストランで奢ってくれるとさ」
「ち、行ってこい行ってこい。……お前、どっちに惚れたんだ? 女か、犬か」
「犬にはふられたらしいぜ」
「h。純血種のほうがいいって?」
モキは、力一杯、拳をふるった。アルマーは軽々とその拳を、手のひらで受け止めた。モキに比べるとずっと、細い腕で。
■ のけもの
「誠に申しわけありませんが」
若いドアマンが慇懃に頭を下げた。
「どうしてよ! 私だってネクタイしてないわよ」
「女性の方はよろしいのです。それに、犬も、お連れにならないように願います。他のお客様の迷惑になりますので」
「レーサーが? こんなに躾のいい犬はそうはいないわよ。誰の迷惑になるっていうの?」
「しかし、犬の嫌いな方も多ございますし」
「私はお上品ぶったヤツって大嫌い。特に、小言親父とヒステリー女。そんなの好きな人なんているのかしら。そいつらも閉め出せばいいんだわ」
ジェインはまだ、怒っていた。
モキはむしろ苦笑した。
「勇ましいな」
「あらそう?」
ジェインはケロリとしていった。
彼女の作戦かも知れない、とモキは内心思った。彼女があの調子では、モキの方は腹を立てる暇もないではないか。
二人と一頭は公園の芝生の上で、ファーストフードのテイクアウトでディナーを摂っていた。
「……でも、いいわ。私、夜のピクニックって一度、やってみたかったの」
ジェインは芝生の上に寝転んで、手足を伸ばした。
公園は夜も解放されているが、さすがに今夜は人がいない。殺人が相次いだのだから。
周囲は静まり返っている。夏の夜の、気だるい風がそよいでいく。
草のにおいがむっとする。
モキはやはり芝生の上に座り込んで、大きな身体を丸めてスチレン容器に入ったビーフボウルをつついていた。
ジェインの隣ではレーサーがフライドチキンを齧っている。
騒々しいファーストフードの店内では、どうしようもなく惨めったらしいだけだ。あんなレストランを見た後では。
遊歩道の際に立つ水銀灯の、青白い光がどうにかここまで届いている。
二人と一頭のいる場所からは、町の夜の灯も車道の騒音も遠い。溢れるばかりの緑。しかも、獰猛な野獣の潜まない緑。
「──〈モキ〉ってどんな意味なの?」
「ん? ああ……〈生い茂る木〉、って意味らしいよ」
「大自然の中で生まれたのね。どんなとこ? あ、地名はどうでもいいわ。どうせ、私は知らないと思うから」
「山奥さ。本当に。人間なんかいない」
「ふうん。狼とか、鹿とか、熊とか、いるわけ? 私は動物園でしか見たことないけど……」
「もちろん。鹿は、オレ達の常食だったさ。熊は手強い敵だ。一対一じゃこっちもヤバイ」
「まるで狼みたいね!」ジェインが笑った。
「そうさ。オレは狼なんだ」
「まあ怖い。それなら私は赤頭巾かしら」
自分はテイクアウトの袋の中から、紙ナプキンを引っ張り出すと、三角形に折って頭に被ってみせた。紙ナプキンは大きくはない。頭巾というよりは、せいぜい王冠だ。赤で店のロゴが印刷されている。ショウガールのようだ。
モキは立ち上がった。
次の瞬間、ジェインは芝生の上に押し倒された。
「な──」
銃声。
銃弾が芝生をえぐる音。彼らのいる地点から遠くない。
「伏せてろ」
モキはジェインに短く言いつけると、手と膝を地面に付けたまま、周囲の様子を伺った。
「な……なに……」
ジェインが、初めて怯えた顔になった。
「さあ、誰だかな……」
レーサーも低く唸って、周囲を見回している。
公園内は再び、静まり返っていた。
「私達を狙ったの?」
「多分な」
モキは油断なく、自分達を囲む暗がりに視線をやった。
人の駆けてくる足音。
「誰だ?」
三人が同時に叫んで、モキとジェインの顔に眩しいライトの光が浴びせられた。
「わ……」
「こんなところでなにを」警察官だ。「公園内を見回ってたんだが、銃声がしたんで。君達は、なにか、関係があるのか?」
「いえ……まさか。私達がここでこうしてたら、急に……」
「オマワリだって?」モキが目を細めていった。「関係あるのはあんたの方じゃないのか? どうして火薬の火薬の臭いがするんだ? なあ、〈トミー〉」
モキが警官のほうに踏み出した。
途端、レーサーが警官に飛び掛かった。
「止めろ!」モキが止める暇もない。
間近で銃声がした。
レーサーが一声叫んで、宙を舞った。
警官は更にモキに向かって撃った。モキ、なおも勢いで警官に迫る。
強烈なショック。
警官が左手にスタンガンを握っていた。
「クソ……」
モキ、必死で踏みこたえる。
と、警官は踵を返して走り出した。
「待て……!」
モキは全身を襲う痺れに耐えようとした。
「レーサー! レーサー!?」
ジェインが必死に叫んでいる。
「出血がひどい……」
獣医のドーソンは、一目見て、顔をしかめた。
夜間診療もやっている、ジェインの行きつけだ。〈ドーソンズ・アニマル・クリニック〉と看板が出ていた。
「胸の大動脈が破れている……手術するにも血が足りない。人間なら輸血できるが……」
レーサーは、診療台の上に力なく横たわっている。
「私の血を取ってもいい! お願い、助けて!」
ジェインが半狂乱に叫んだ。
「無理ですよ、人間と犬は違う」
ドーソンは慌てていった。
「なんで!」
「ジェイン、落ち着いて」
モキは、ジェインの腕を掴んで、無理矢理、診療室の外へ連れ出した。かと思うと、一人で戻って来た。
「……輸血すれば助かる?」
モキに訊かれて、ドーソンは首を振りながら答えた。
「まあねえ。でも、こんな町じゃ、犬の輸血なんて」
「オレの血を使ってくれないか?」
「は? 無理ですってば」
「輸血しなければどの道助からないんだろ。なら試してくれてもいい」
「試すもなにも! 生物学の常識ですよ」
「あんた、自分でやってみたことあるのか? やってみなけりゃわかんないことだってあるぜ」
モキの剣幕に、ドーソンは押された。
「……わかりましたよ。いいんですね。私は知りませんよ!」
モキは公園に戻って来た。警官達が慌ただしく立ち回っている。警察犬の姿も。
モキの鼻は、〈トミー〉のにおいをハッキリと憶えていた。
鈍い怒りが熾火のように燃えている。
現場付近は警戒が厳重だった。ジェインが警官に囲まれて立っている。
モキは離れたところからそっと、彼らの様子を伺った。野獣のように体躯を隠している。
そして、臭いを追うべく、その場を離れた。
昨晩の公園での殺人も、〈トミー〉が犯人の可能性が高い。
においは公園を出て、なおも続いている。
モキは急ぎ足でにおいを追った。ときどき、身を屈めて、路面に残されたにおいを嗅ぐ。
この町の夜は、さほど賑やかではない。通りを走り回ってにおいをかき消す車も少ない。それが幸いした。
通りを抜けて、路地裏へ。ごみごみした地域から、やがて町外れのほうへ。
モキはふと、夜空を見上げた。
空気に、雨のにおいが混ざった。それは急速に強くなる。
黒い雲が、夜空を見る間に覆い隠していく。
モキは舌打ちして、先を急いだ。
三〇分後、モキは、ドーソンの診療所に戻った。
全身から埃っぽい雨の水滴を滴らせていた。彼の灰色の髪が、金属のような光沢で輝いている。木綿のシャツが、皮膚にぺったりと張り付いて、岩のような筋肉の隆起を浮き上がらせていた。
「どこへ行ってたの!?」
ジェインが、モキを見るなり叫んだ。彼女の髪や服も濡れていて、清潔なタオルを被っていた。警察の現場検証に付き合っていたのだろう。
その後、こっちへ来るだろうと予測して、モキもここへ戻って来たのだ。それは的中した。
「手がかりがないかと思ってね」
「警察に任せてよ。とんでもないやつだわ。あなただって、撃たれたじゃない。レーサーをこんな目に遭わせて。あんなやつだったなんて……」
ジェインは今頃になって恐怖を実感したようだ。
「当分は家に帰らない方がいいって、警察の人が」
「レーサーは?」
「うん……大丈夫。もう心配ない。今は麻酔で眠ってるわ」
「そうか……そうだろうな」
モキは一人、うなずいた。
入院、といっても、クリニックの広い室内に、動物用の頑丈なケージがいくつも積み重ねられていて、それぞれ、患者の動物達が押し込められている。
彼らは少なからずナーバスになっているらしい。モキの臭いに敏感に反応して、落ち着かないようだ。
モキは内心、苦笑した。初めて会った動物には大抵、警戒される。大柄な体躯と、異質な臭いのせいで。
レーサーは、隅の方の大型犬用のケージの中で眠っていた。
ケージ室は廊下とは、ガラスの壁で仕切られている。室内には簡単には入れてもらえない。
ジェインは廊下に置かれた、飼い主用のベンチに座って、ガラス越しにレーサーのケージを見つめていた。
「……ごめんなさい、私のせいなのね。なにもかも。レーサーにも、あなたにも謝らなくちゃ……特にあなた、今まで付き合ってくれるなんて。知り合ったばかりだっていうのに」
「気にするな。オレがあんたに付き合ってるのも、タダの気紛れなんだ。あんたの気紛れに、オレの気紛れ。たまたま一致したってだけだ」
「そう……でも……」
その時、廊下の向こうの扉が開いて、獣医のドーソンがこちらに向かって来た。
「ああ、モキさん、って言いましたっけ。ちょっとお話があるんですが」
モキは嫌な予感がした。医者が納得しないことは覚悟している。
「なんだ?」
「さっきの……」
ドーソンはちらりとジェインの方をみた。それからモキを、診療室に引っ張り込んで扉を閉めた。
クレゾールの臭いが部屋全体のどこもかしこも、しつこく染み付いている。
「何なんです、あなたは!?」
二人きりになるなり、ドーソンが叫んだ。
「人から犬になんて、……なのに、」
「特異体質ってヤツさ。オレのお袋は犬かもな」
「体質なんてもんじゃない」
「あんたは医者だろ。理屈より、患者のほうが大事じゃないのか?」
「しかし」
ドーソンはなおも食い下がった。
「迷信とか、伝承とか、解る必要はない。ただ見た物を受け入れればいいんだ」
モキはそういって、ドーソンが白衣の胸に差していた、金属製のペンを抜き取ると、右手の指先だけで、粘土細工のように曲げてしまった。
ドーソンが言葉を失った。大きな目でまじまじとモキの顔を見上げた。不可解と、恐怖が浮かんでいる。目の前にいる者が、正体はどうあれ、恐るべき者だと理解した。
しかも、それは、外見はあくまで人に過ぎないのだ。
黄褐色の瞳が、急に、笑った。
精悍な大男が、破顔すると、いっぺんにひどく愛敬のある顔になる。
「そういうこと。ま、気にすんな」
モキは、元はボールペンだった金属塊を、再びドーソンの胸ポケットに押し込むと、親しげに彼の肩を叩いて、診療室を出て行った。
ジェインが不安そうにモキを見上げた。
モキはジェインの隣に腰を下ろした。
とんだデートになった。
外では、雨が激しく降り付けている。犯人の手がかりはほとんど消えたろう。
どうにも悔しい。アルマーはさっさとこの町を出ようといっていたが、あの男に一矢報いてやらない限りは、気が済みそうにない。
気がつくと、ジェインが、モキの肩にもたれ掛かって寝息を立てている。
もうそろそろ午前に差し掛かった頃だ。
明け方近く、ドーソンがジェインを揺り起こした。モキも、つられて目が覚めた。
ということはモキもいつのまにか眠っていたわけだ。
警察からジェインに電話だという。ジェインが立ち上がって、事務室の方へ行った。
犯人が捕まったのだろうか?
ドーソンが、廊下の端で、じろじろとこちらの様子を伺っている。
モキは腕を組んで天井を見上げた。
警察署の小さな会議室に、ジェインとモキは通された。
「誠に遺憾ながら、容疑者が特定されました」
中年の刑事が渋りきった顔でいった。クレイと名乗った。
彼の全身から、街の臭いが漂ってくる。雑多な物の混ざりあった。街全体のカオスを、一人で象徴しているようだ。
「何故に遺憾かと申しますと、彼、トーマス・ハーベイは、警察官なんですな、現職の」
「信じらんない」
ジェインが大袈裟な仕草で驚きを露にした。
「パトロールの最中にあなたを見初めたようです。彼女の部屋に、あなたの写真がありました」
クレイが、数葉のポラロイド写真を、二人の前に広げて見せた。
室内を映したものだ。場所と角度を変えて、何枚も。
一人暮らしの男の部屋。全体、雑然としている。ジェインの家のような一戸建ではない。独身者用のアパートだろう。
壁に、大きく引き伸ばされたジェインの写真が貼られている。庭で犬と遊んでいる所を隠し撮りしたらしい。その犬の代わりに、あの男の写真が合成されている。彼は素っ裸だった。
ジェインが不快そうに顔をしかめた。
写真には他にもいろいろな物が写っている。
「拳銃やショットガンが銃器が三丁。大型ナイフ。トレーニング用のマシン。バーベル。スタンガン。特殊警棒──まあこの辺は、若い男なら、アリガチで済むのですがね。しかし……」
クレイは口ごもった。自分の手にある封筒の中をちらりと覗いて、
「あなたは犬が大層お好きなようだから、こっちの写真は見ない方がいいでしょう」
「なんなんです? 内容について教えてくれるくらいなら」
「犬の写真ですが──ここしばらく、住宅街で犬が盗まれる事件が相次いでましてね」
「クラブで聞きました──彼が犯人だったんですか?」
クレイは溜め息を吐いた。
「売るために盗まれてるのかとも思ったのですが、それにしては犬種に見境がない。どうやら、彼は、犬を殺すために盗んでいたようです」
ジェインが息を呑んだ。
「ひどい殺し方です……一部を食べていたのかも知れない。しかも、彼は、それを、逐一、写真やビデオで記録していたんです」
「なんてやつ……」
ジェインは小さく呟いた。そして横を向いて、思わず身を引いた。
モキが自分の膝の上で拳を握り締めている。その関節が白く、そして小刻みに全身を震わせている。うなじの毛が逆立っていた。
彼が怒っている。静かに、しかし、激しく。
ジェインは身を固くして、モキから視線を逸らすと、クレイに尋ねた。
「なんでそんなことを?」
「さて……彼の家から押収された中に、いくつか、伝説や迷信にまつわる本もありました」
「伝説?」
「狼男、人狼です。ウルフウェア、ベオウルフ、ライカンスロープ……様々な名で呼ばれますが」
「狼男? まさか。人が、狼になるなんて。御伽噺だわ」
ジェインは強ばった笑みを浮かべた。
「そう、人が狼になることは、只の伝説ですがね。しかし、狼男にはなれるのですよ」
ジェインが眉をひそめて首を傾げた。
「力への憧れの歪んだ形でしょう。自分は狼男だと信じて、人を、襲うんです。犬の肉を喰うことによって狼になれると信じていたのかも。そして、しまいに、人間も襲うようになった──これはあくまで私の仮説ですが」
ジェインは口元を抑えた。
「狂ってる……」
「それが難しい。一方で、彼は警察官としてマジメに勤めていた。勤務評定も申し分ない。射撃と武術の大会で賞ももらっている。警察官として、実に立派な男です。果たして、彼が狂っているのかどうか」
「ヤツの居所は?」
急に、モキが、低く抑えた声でいった。
「わかりません。目下、全力を挙げて探しているのですが。極めて危険な相手です。特にあなたはしばらく警察で保護します」
ジェインは小さくうなずいた。
警察がジェインに用意したのは、市内でも最高級のホテルだという。
その対極ともいうべき安モーテルの一室に、モキが戻って来たときは、既に昼に近かった。
アルマーは既に起きていて、ぼんやりとTVを観ていた。
「朝帰りどころか、もう昼だぜ」
事件についてはニュースで聞いていた。
「長い夜だったぜ、ホントに。刺激的なアヴァンチュールだ」
モキは事件の詳細を話した。
「狼男、狼憑きか」
アルマーは笑っていなかった。
「このままじゃ気がすまん」
モキも真顔でいった。
「……お前、本気で惚れたな」
「なに?」
「彼女か犬か、どっちか知らんが」
「そんなんじゃない。昨日、知り合ったばかりだ。ヤツには個人的に怨みがある。オレに弾丸を撃ち込んでくれたしな」
「22口径なんか、豆鉄砲みたいなものだろ。銀の弾丸でもなけりゃ」
モキは肩をすくめた。
公園で打たれた時、弾は至近距離からモキの腹に命中していた。しかし、既にその傷は完全に塞がっている。感じたのは痛みだけだ。金属の弾丸が肉を引き裂き焼く痛みを。それはどうしても忘れられない。
■ ハウンドドッグ
その日の夜になって、モーテルの部屋に電話がかかって来た。
アルマーはニュースにも飽きて、CATVの映画専門チャンネルを眺めていたが、面倒臭そうに受話器を取った。
「──はい」
『モキさん、そちらにいる?』女の声だ。
「ジェイン? モキに聞いてる」
『ああ、あなたがアルマーさん? モキさんは?』
モキがアルマーの手から、受話器をひったくって、自分の耳に押し当てた。実は、受話器に近付けなくても、彼には充分、相手の声が聞こえるのだが。しかし、それではこちらの声は届かない。
「オレだ──なにか?」
『レーサーが行方不明だって、ドーソンから。その後で警察から電話があって、ドーソンが殺されたっていうの』
「なに?」
『あいつの仕業だわ。ドーソンは射殺された。レーサーのケージがすごい力でこじ開けられてて……あいつに盗まれたのか、自分で逃げたのかわからないけど……』
「ドーソンのとこへ行ってみる。あんたは、ホテルを出るな」
モキは短くいって電話を切った。
「心配なのか?」アルマー。
「いや……レーサーは自分の力でケージをこじ開けたんだ。オレの血のせいだ」
ドーソンのアニマルクリニックは、警官や野次馬で騒がしかった。
黄色い立入禁止のテープが張り巡らされていたが、刑事のクレイを見付けて、モキは現場を見せてもらった。
モキは今朝までここにいたのだ。こじんまりとした個人経営の病院。この辺の中・上流階級の連中を相手にしているだけあって、小さい割に設備はいい。
ドーソンは診療室に倒れていたという。〇・二二インチの銃弾を頭にめり込ませて。
しかし、室内に物色した跡もなく、物取りではないようだった。
床に白い人型が描かれている。血溜まり。
ケージ室は騒然としている。朝より、動物の数は減っていた。飼い主が連れ帰ったのだろう。
そして、壊れたケージ。金属の柵の扉がぐにゃりとへし折られている。モキも憶えている。レーサーの入っていたケージだ。
レーサーは無理矢理、ここを逃げ出した。その後、〈トミー〉がやって来たが行き違いになった。〈トミー〉はレーサーを殺すかさらうかするつもりだったのだろう。そして、邪魔なドーソンを殺した。
モキはそう見当を付けると、クレイ刑事に素っ気なく別れを告げた。
不審そうな顔のクレイを後に、現場を離れた。
ジェインの家は住人を欠いて、静まり返っていた。家の前の門灯が灯っている。暗くなると自動的に点くシステムだ。誰もいない。
──いや。
庭先に誰か倒れている──レーサーだ。
モキは慌てて駆け寄った。
生きている。スタンガンを浴びたのか。気絶しているだけだ。口の端に唾液が泡になってついている。
昨晩撃たれた傷も、ほぼ完全に塞がっている。生命に別状はない。
だが。
モキは素早く周囲を見回した。
ジェインのにおいに気付いていた。しかし人の姿はない。
植え込みの陰に靴が一つ、落ちていた。新品の、見覚えのある女物の靴。なにより彼女の匂いが付いている。
モキは全身の毛が逆立った。
湿っぽい草地の上に投げ出されて、ジェインは目が覚めた。
肘を打ったらしい。痛い。
ぼんやりと目を開けると、やけに眩しい白い明かりが飛び込んで来た。
ライトが眩し過ぎる。誰がこんな角度に──ハッと気付いた。それは月だった。
ほぼ満月が、目の前にある。
身体の下に、夜霧に湿った草を感じた。
こっそりホテルを抜け出して自宅に帰ったのだ。レーサーが行くとすればそこしかない。
軒先にレーサーが倒れているのを見た。それで、駆け寄ろうとしたとき、誰かが──
誰かが視界に多い被さってきた。
「あ……あなた、〈トミー〉、じゃない、なんていったっけ……」
ジェインはがばと起き上がった。
「なんで私がこんなとこにいるの!? どうするつもり? レーサーになにをしたの?」
〈トミー〉が怒った口調でいった。
「うるさいな、またやるよ?」
片手に黒い物体を手にしている。まるでTVのリモコンのようだ、とジェインは思った。その先端で火花が散る。スタンガンだ。
ジェインは身を強ばらせた。
彼の口調に、本気だと悟った。特に興奮するでもなく、平静のまま、彼は人を殺せるのだろう。
ジェインは倒れるふりをして、周囲の様子を伺った。ここは墓地の片隅だ。
墓地からその奥、やがて街の外の大自然に繋がっていく緑地。街の若者のデートのメッカだ。
しかし、こんな夜会はまっぴらだ。
「か……帰してよ」
「ダメ」
〈トミー〉は素っ気なくいった。
突然彼が立ち上がった。
腰のベルトから拳銃を抜いて身構える。
夜の木立の間から、黒い、大きな人影が現れた。モキだ。
〈トミー〉はいきなり引き金を弾いた。
弾はモキの胸に目掛けて放たれた。とっさにモキは胸を腕で庇って、その腕に当たった。腕の筋肉と骨に当たって、止まる。肉が弾ける。
「きさま……」
モキが飛び掛かろうと身構えた。
〈トミー〉は素早く、ジェインに向かって撃った。
「……!」
ジェインが悲鳴を上げる間もない。弾にえぐられた土と草が、彼女の顔にかかる。
「静かにしろ。撃つよ、本当に」
〈トミー〉がいった。
モキは足を停めた。
「なんのつもりだ」
「僕は狼になるんだ」
「なに?」
「人間も犬も大嫌いだ。ひ弱なくせに集団でキャンキャン騒ぐしか脳がない。僕は本物の狼になるんだ」
「……あなた本気? 人間が狼になるなんて」
ジェインが疑わしそうにいった。目の前で揺れ動く銃口を、なんとかさけようとしながら。
「うるさいよ。僕だって最初は信じてなかったさ。でもようやくわかった。犬じゃダメなんだ。いくら喰ったって。知ってるか? ファーストフードの肉は犬の肉なんだぜ。だから街の人間は犬ばかりなんだ。狼になるには、人間の肉じゃないと。それも生で、だ」
「……公園や、墓地の殺人も、あなたなの?」
「そうさ。こないだ見たんだ。やっぱり狼になりたがってる人がいた。その人のやり方を見て、正しい方法がわかったんだ」
「……?」
「いつだっけ。忘れちゃったよ。でも、すごくきれいな男の人がいたんだ。一緒にいた女なんかよりずっときれいで。その女の喉に咬み付いて、血塗れになって……ほんとにきれいだった。絶対、あの人は人間じゃない。だから僕にはわかったんだ」
〈トミー〉がそこまでいった途端、黒い人影が夜風のように忍び寄って、彼を地面に押し倒した。
「誉めてくれるのは嬉しいんだがな」
アルマーが秀麗な顔に残忍な笑みを浮かべ、彼を見下ろしている。月の光がこれほど似合う男もそうはいまい。いつ、そこに忍び寄っていたのか、まるで気付かなかった。
「あ……」
〈トミー〉が絶句して、次の瞬間、アルマーの胸にスタンガンを押し付けた。
一際大きな衝撃音が鳴り渡る。
しかし。アルマーはにやりと笑って、スタンガンを持つ手を掴んだ。
「惜しいな。そいつはオレには効かない。オレは死んでるからな」
そのまま、〈トミー〉の手を握り潰した。スタンガンごと。骨とプラスチックの砕ける音。電解液が漏れ、肉を侵す。
〈トミー〉が絶叫した。
「アルマー!」
モキが猛烈な勢いで走ってきた。
「おい、もうひとついっとくぜ。狼はオレじゃない、あいつだ」
アルマーはそういって、〈トミー〉を地面から引き剥がすように引き起こした。
その背中を突き飛ばして、走らせる。
モキが飛び掛かろうとした。アルマーはそれも、グイと引き止めた。
「アルマー! 離せ! ヤツが……」
モキが暴れた。彼が追おうとする相手が、次第にしっかりした足取りで、走り去ろうとする。
彼の姿が木立の間に消えていったとき、アルマーはモキの襟首を離した。
モキが我を忘れて猛然と駆け出した。逃げる獲物を追って。その姿が獣に変わっていく。
「……モキ……?」
ジェインは呆然として、一部始終を見ていた。
やがて、黒い木々の間から、男の悲鳴が聞こえて来た。
アルマーが、ジェインに手を貸してやって立たせた。
「ありがとう」
ジェインはよろよろと立ち上がってから、ぎょっとしたようにアルマーのてを振り払った。彼の手はひどく冷たかった。
「あ……あなた達……」
アルマーは唇の端で笑った。「見ての通りさ」
「なによ……なんなのよ……」
モキが戻って来た。顔や手を血に染めている。月の光の下では、それは黒く、ぬめっていた。
「ジェイン、」
ジェインは思わず身を引いた。
「あなたは……犬じゃない……人でもない……」
「ああ、でも、ジェイン、オレは……」
モキが彼女に近付こうとしたとき、遠くから、人間達の立てる物音が近付いてきた。ハンドライトの光がちらちらと垣間見える。
「おい、」
アルマーがモキに声をかけて、歩き出した。警察達のやってくるのとは反対側の方へ。
「ああ……」
モキは一瞬、ジェインの方を見遣って、それからアルマーの後に続いて歩き出した。
ジェインは無言でそれを見つめたまま、その場に倒れた。
モキは振り返らなかった。
犬の鳴き声が近付いてくる。
「大変だったねえ、あんた。ハナシは聞いてるよ」
中年男の看護士が、しみじみとした口調でいった。
「ひどい目に遭ったね。もう大丈夫だよ、ここでゆっくりお休みよ」
「ええ……ケガしたわけじゃないから……レーサーだって」
ジェインはベッドに横たわったままぎこちない笑顔で答えた。
彼女の病室の窓の外では、レーサーが眠っている。病院の建物の中には入れてもらえなかった。
「狼男なんて。わしにゃあ、最近の若いもんの考えてることがさっぱりわからんよ。クダランTVや映画のせいじゃないかね」
口煩いオヤジだ。しかし、今はその煩さが有り難かった。自分は人間の中にいる。
「でもそいつが、犬に殺されてちゃ世話ないね。意識のないあんたをほっぽりだして自分だけ逃げようとするから襲われたんだってな。犬は逃げるヤツ追うんだ」
「狼かも知れないって」
「狼なんてこんなとこにいるかい。いくら田舎ったって。狂犬の仕業だあよ。皆が探してるけど。森の方へ逃げちゃあ、捕まらんね、きっと」
「ええ……きっと、捕まらないでしょうね」
ジェインは静かにいった。
夕暮れのハイウェイを、一台の車が疾走している。日差しの残光から逃れるような走りだった。
「今夜中には、向こうへ着くな」
ハンドルに手を置いて、モキが、言った。
「明け方までには」
「そう願う」
助手席で、アルマーが応えた。毛布にくるまって、御丁寧にサングラスまでしている。
これくらいの時刻になれば、太陽の光も、アルマーにはなんとか耐えられる。車はボロかったが、新品のスモークガラスがはまっている。
「……よかったのか?」
アルマーが訊いた。
「なにが」
「カノジョ」
「いうんじゃねえ」
モキは眉をしかめた。
「オレは街には住めねえよ」
「彼女は、理解してくれると思ってるのか?」
「死ぬほどの犬好きだからな」
「犬じゃねえだろ」
「犬よりか魅力的だと思うがなあ」
「自惚れてやがるぜ」
「お前ほどじゃねえさ」
アルマーは赤く薄い唇の端を歪めて、笑った。
fin.