第13話 それは真夜中の出来事だとさ
異世界に堕ちてから5年たって、ようやく元の世界に戻れた。だけど、落ちた時間と全く同じ時間軸に復帰しても、私は5年分老いてしまった。忘れようにも忘れられない帰路をたどる。何も変わらない、街並みなのに、ひどく不自然な気がしてしまう。それは、ひとえに私がどうしようもなく浮いているからだろう。
「ただいま」
恐る恐る玄関のドアを開けて、家の中に緊張しながら入っていく。主婦業をしている母は、この日もいつものように家にいるはずだ。
「おかえり、今日は珍しく電話がなかったじゃない。どうした……の?」
声は、五年たってもあまり変わらなかった。だけど、容姿はどうしようもなく変わってしまった。短かった髪は、伸びて背は相変わらず成長が止まったままだけど、胸は大きくなった。
私を目にした途端母の顔が、驚愕に彩られた。そして、眉を寄せてけげんな様子で外向けの声で、私に向かって何かを言った。
「#$%&*+@・5$$?」
ドスン
手に持っていたバックが、地面に落ちる。すぅっと自分の血の気が引いていくのを感じる。足元がふらふらとして、自分が立っているかどうかさえ怪しくなる。玄関縁が急に底なし沼に代わりドロドロと私を飲み込んでいく。
今、母の口から出てきた言葉が、胸を抉る。心が、悲鳴を上げる。氷の槍で、体の真ん中を貫かれ、空洞にされてしまったかのようだ。通り抜ける風に、触れ熱と痛みが生じる。
嘘だ。こんなのウソだ。現実のはずがない。だって、年を取っていても絶対に絶対に母なら、私のことをわかってくれるはずだ。私が、私が……眞仲 彩月だって、わかってくれるはずだ。だから、こんなの夢だ。夢なんだ。全部、全部悪い夢。早く、早く、目を覚まさなければ!
焦る気持ちに対応するように、体が真っ黒で粘着質な闇にからめとられていく。
必死に手を伸ばす。誰かに助けてほしくて、これ以上はダメだ。これ以上は、私の心が壊れてしまう。死んでしまう。立ち直れなくなる。
思い出してはいけない。頭の中でリピートしてはいけない。そうわかっているのに、まるで呪いのように、繰り返される。
「あのぉ、どちらさまでしょうか」
私を忘れてしまったの?
私は、貴方の娘で! 眞仲 彩月です!
喉に絡みつくものを無理やり飲み込みながらそう叫ぶ。
「私に娘なんて、いませんが」
嗚呼、嗚呼。なんてことだ。私の存在が、消えてしまっているなんて。
寂しくて苦しくて痛くて切なくて辛くて絶望に飲み込まれそうになる。
私は、耳をふさいだ。
はっと、気がついたら目の前に、いくつもの映像や静止画に囲まれていた。真っ暗な場所だった。そのフィルムの中からの光源だけが、この空間を照らす。
映像の中には、私が写っていた。大学生の私、大学受験の面接時の私、卒業式の私、高校生の私……それらが現れては、見えない炎で映像の端からゆっくりとじりじりと焼かれて灰になって消えていく。
見てはいけない。頭の中で、赤い警告ランプと耳鳴りのように鐘の音がする。
下駄箱に張られた名前の札が、さぁっと消えて、さっきまで眞仲 彩月と書かれていた場所に、私の全然知らない人の名前が書き加えられていく。
入学式の時の写真、右から3番目に映るはにかんで笑うまだあどけなさを残すセーラ服姿の過去の私が、砂嵐にのまれて消えてメガネをかけた学ランの少年が、代わりに現れる。
そんな映像が、続けざまに、私の視界に入り込む。手を必死に動かし目を覆おうとするも、動かない。せめて、目をつぶろうとまぶたを動かそうとするもまるで強力接着材でしっかりと固定されてしまったかのようで眉毛一本も動かすことはかなわない。
私がいた場所に見知らぬ誰かの姿が、入り込む。私という存在が消えていく。そして、代わりの誰かが私がいた場所に写り込む。
これだけの量を見せられえれば、何が起こっているのか否が応でも理解させられてしまう。私がいたという証が、地球での過去が、消えていく。
こんだこそ、心を挫いたぞと絶望が笑う。その大きな咢を開き、私を喰らう。鉛のように体も意識も重くなる。
私が、消える。私の過去が、消える。帰る場所が消える。もう、だれも私の事なんて憶えていない??
ダレか
ナマエヲヨンデ
ワタシを
ケサナイデ
ワスレナイデ
愛して
シンンジテ
イヤダ 嘘だ ダレカダレカダレカ
足の先から順に氷のように冷たくなっていき、ひび割れたガラスのように崩れていく幻覚。
喘ぐように、名を呼ぶ。
「レ……レイさ……タス……」
レイさん、助けて―――まだ、出会って数時間しかたっていない人なのに、全然信用していないはずなのに、やさしくてお人好しで、太陽みたいに暖かな手で私の頭に手を載せた黒い髪に、美しい海の色の瞳の持ち主で私の師匠となる人の名を……。
「…さ……サツ…彩月! 彩月! 目を覚ませ」
名前を呼ばれた。強く、荒々しく、魂を揺さぶるような激しさをもって名を呼ばれた。気が付くと、指一本動かせないタールのような闇が、私に向けてまっすぐにのばされた褐色の手によって晴れていく。
意志の力を総動員させたその手を取ると、私は大きく息を吸った。ただの空気のはずなのに、とても美味しかった。
「彩月、彩月!」
「うぅ、レイさ……」
「き、気が付いたのか?」
夢の? とてもリアルで怖い夢だったの? あれは、本当に夢?
私はまだ夢を見ているの。
ぼんやりとして麻痺した思考、暖かな人の体温。
強く引き寄せられ、逞しい腕に抱かれて名前を連呼されていたという事実に気付くには恐怖に凍り付いた頭で理解するには少々時間がかかった。
「ユメ?」
「あぁ、お前は怖い夢を見ていただけだ。お前を気付つける奴は今この場所にいない、いるのは俺くらいだ。だから、安心しろ」
「ここは……」
「ここは、異世界だ。地球じゃない。俺が建設したお菓子の家にお前は今いる」
嗚呼、夢だったのだ。さっきのは、私の心の奥に積み重なっていった不安や恐怖が夢となって具現化しただけで、現実ではないのだ。私は今夢のような現実にいる。まったく、いままで現実だったところが夢で、今いる夢のような非現実世界が現実なんて皮肉でしかない。
恐怖で目が覚めるような夢を見たのはいったいいつ以来になるのだろう。じっとりと汗ばみ、肌に寝間着と髪の毛が張り付いて気持ちが悪い。
だけど、もう少しだけこうしていたかった。誰かと触れ合って、その体温を感じる。ひどく安心した。私の体も同じようにあったかい。血の通った生きた人間で、実態を持った確かな存在なのだ。
「す……すみません」
「いや、お前が謝ることは何もない。謝らなくてはならないのは、間違いなく俺の方だ。女の部屋に勝手に突入してしまった。うなされているようだったからとはいえ、許可なく私室に立ち入ったのは、まずいだろう」
「はい。ですが、そのおかげで助かりました。レイさんが、起こしてくれなかったらと考えると少し怖いです」
レイさんの上着をぎゅつとつかんだ拍子に、胸板がちらりと見えてしまい、心音がうるさくなる。
レイさんに聞こえてしまっているだろうか。
「怖い夢を見たのか」
「はい。地球の夢です。私が消えちゃう夢で、私がいたという証拠がどんどん消えて、私嫌で、怖くて」
涙腺が崩壊し、涙があふれ出す。泣いたら、レイさんの迷惑になる。ダメ、泣いちゃダメ。どんどん布団の上に丸く小さなシミを作り出して、一向に留まる様子がない。
トントン
温かい手だ。あの太陽のような手が、今抱き寄せられて無防備な私の背をやさしく叩いている。子供をあやすような手つきで、やさしく叩く。
「私、ここにいていいですか? ここに、私の居場所はありますか? 私は、もう今まで通りに向こうで暮らせないんですか? なんで、こんな目に合わなきゃ……ひっく。なんで、私だったの……」
八つ当たりだ。レイさんに八つ当たりしたってしょうがないのに、何をやっているんだろう。私はどうしようもなく馬鹿だ。
「俺は、お前がこの世界に来てくれて感謝しているんだ。お前にとっては不幸な出来事かもしれないが、不謹慎だとわかっているが俺にとってはとても幸運な出来事なんだ。もう二度と向こうの世界とつながることができないと思っていたから、お前は……お前の存在は俺にとって救いなんだ」
レイさんの何かをこらえるような声、感情の乗った心の底からこぼれ出た本音だと、何の根拠もなく思った。この人は、転生したといっていた。つまり、一度死んでいるってことだ。彼の居場所はもう地球に私と違って完全に消滅している。
「救い?」
「あぁ、孤独を埋める救いだ。お前の歌を聴いたとき、俺がどれだけうれしかったかお前には想像もできないだろう。だが、俺はお前に救われた。お前が必要だ、彩月。だから、この世界に居てくれ。今度は俺にお前を救わせてくれ」
抱きしめる力が強くなって、少し苦しい。でも、必要とされるのなら、この世界で生きていくのも悪くないと思えた。それが、依存だとしても、もういいと思えた。
「ホント。私が必要だって」
「あぁ、神に誓おう」
この世界には、神様が本当に存在しているって、レイさんが自分で言っていた。だから、多分この言葉は、私の想像以上に重たいのだろう。
「誓って」
「誓う」
「うん」
薬草のにおい、機械油のにおい、光のにおい、まだ私の知らないなにかのにおいが混ざり合って、どこか甘いレイさんの匂い。
「シャワーを浴びておいで。朝まで、あと数時間あるが、眠れないようなら異世界講義の続きでもするか?」
たしかに、汗ぐっしょりで気持ちが悪かったし、もう一度寝ても嫌な夢を見てしまいそうで眠れそうになかった。
「シャワー浴びてきます……あの、お願いできますか」
「あぁ、準備しておこう」
そういって、部屋を後にする背中がとても大きいと感じた。
タンスの中から閉まったばかりの新しい衣服を取り出すと、お風呂場に向かった。
OVL大賞の最低限文字数まであと半分!




