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第四章 砂漠の母娘⑤

 砂漠の黄金に輝く砂上を滑るように走ったフェリーは、半日をかけてリス・ド・ショコラ島に到着した。島の周囲を黒い壁に囲まれているのは中央島ロゼ・ノワールと同じだ。その壁から直方体の船着き場が砂漠に向かって突き出したいる。フェリーは静かに船着き場に入ると、碇を降ろして停止した。


「それじゃあ頼んだから」


 フェリーのタラップから降りると、マリーはそう言ってレオナルドに背を向けた。


「ちょっと待ってください! マリーさんは協力してくれないんですか?」

「わたしはデータ管理の詳細なんてわからないもの」

「え? そうなんですか……?」

「わたしはただの医者だから」


 そのままスタスタと歩きかけたマリーだったが、黒い壁に設けられた守衛所の手前で考え直したようにレオナルドを振り返った。


「でもそれじゃあ可哀想だから、寝床くらいは用意するわ。わたしの客人ってことで――そうね、ロゼ・ノワールで拾ってきた遊び用の男っていう設定でどうかしら?」

「え、ちょっと!」


 レオナルドの否定の言葉も聞かず、マリーはレオナルドの右腕に自らの左腕を絡めた。彼女の腕は小枝のように細かったが、突然のスキンシップはレオナルドを困惑させる。


「マ、マリーさん、な、何を考えて……!」

「あら、赤くなってかわいいじゃない」


 マリーはくすりと笑った。それは何とも言えない蠱惑的な微笑みで、レオナルドをさらに赤面させた。


「フフフ。もっとくっつきなさい、レオナルド。守衛にあなたがわたしの『特別なお客様』だってことをわからせないといけないのよ」


 門番は恋人のように腕を絡めた二人を見て僅かに目を瞠ったものの、特に何も問いかけることはしなかった。丁寧に頭を下げる警備員に見送られながら、二人は問題なくリス・ド・ショコラに入島することができたのだった。


「あれがルーベンス医院よ」


 レオナルドに腕を絡めたまま、マリーが正面の建物を指さした。立派な建物だ。灰色を基調としたその建築物はいくつもの尖塔からなり、昔の宗教施設を思わせるようなゴシックで落ち着いた雰囲気の建物だった。その隣には、同じテイストのアパートメントが寄り添うように建っている。


「ルーベンス医院の中央の尖塔はわたし達家族の私的な生活スペースなの。横のアパートメントは医師や看護師や事務職員、各種セラピスト達の宿舎になっているのよ」

「はあ……あの、それはわかったんですけど……」


 レオナルドは体をむず痒そうに動かした。さっきからマリーがやたらと体をすり寄せてきて、彼女のアッシュグレーの猫毛が頬に触れたり、ふんわりと漂う甘い香りが鼻をくすぐったりでレオナルドはなんとも居たたまれないような気持ちだった。


「いい加減、腕を離してくだ……」


 そう言って絡んだ状態から腕を引き抜こうとしたレオナルドの腕を、マリーは逆にギュッと強く自分の体に引き寄せた。


「いいじゃない。このまま、ママのところまで行きましょうよ」

「え! ちょ……それはマズいでしょう」

「行くったら行くのよ!」


 意地悪な笑みを口の端に浮かべ、マリーはレオナルドを引きずるようにしてルーベンス医院の正面エントランスへと連れ込んだ。


 人形のように整った顔の受付嬢は、男を連れて小悪魔のように微笑む病院のエース・ドクターを見て一瞬だけ顔を強張らせた。だが、すぐに営業用の仮面のような笑顔を取り戻すと、にこやかに頭を下げた。


 天井の高い廊下をマリーのハイヒールとレオナルドのブーツがカツンカツンと叩く音が響く。しばらく歩くとエレベーターホールに到着した。古風な格子状の金属扉がついたエレベーターがいくつも並んでいた。そのうちの一つをマリーが指し示す。


「家族専用の――といっても、わたしとママだけだけど――のエレベーターよ」


 今となっては珍しい押しボタンを押すと、チン、と古風な音をたてて格子扉が開いた。その中にはこれまた古風な制服を身に着けたエレベーターガールがにこやかに微笑んでいて、二人が乗り込むと扉を閉めた。カタカタと震えながらエレベーターは動き出す。格子扉の外に階の移動が見て取れた。垂直方向だけでなく、水平方向にも移動しているようだが、振動と軋みのような音も伝わってくる。


「古いエレベーターでしょう。こういう古風なものを好む金持ちのお客さんが多いらしいのよ」


 半分小馬鹿にするような口調でマリーは言った。


 再び、チンという音をたててエレベーターが停まると、開いた扉をエレベーターガールが手袋を嵌めた手で押さえた。レオナルドはマリーに絡め取られた腕を引かれるまま、彼女と並んで広大な廊下を歩いた。廊下のつきあたり、妖精や花のレリーフが施された金属製の大きなドアをマリアが開ける。


 扉の中には廊下よりもさらに広大なダイニングルームが広がっていた。何十人がつけるのかという長テーブルの周囲には、繊細なデザインのアンティークチェアがずらりと並んでいる。天井には古風なランプ式のシャンデリア、壁面には数々の絵画や彫刻が飾られ、床には緻密な織りの絨毯が敷かれていた。


 だが、その豪奢な長テーブルを現在使用しているのはたった一人だった。老齢の女性だけが席に着き、美しい皿に品よく盛りつけられた食事をマナー通りに頂いている。彼女の傍らには男性給仕やメイド達が行儀よく控えていた。


 その老齢の女性は二人の闖入者を見て固まってしまう。彼女はマリーにそっくりな面立ちだった。マリーよりもやや淡い色合いのアッシュグレーの髪に、薄紫色の瞳。顔には年相応の皺が走ってはいるが、落ち着いた美しさを持っている。


(カトリーヌ・ルーベンスか)


 ルーベンス医院の院長であり、マリーの母親でもある女性の名前をレオナルドは心の中で呟いた。


 カトリーヌは目を見開いて二人を見ていたが、やがて眉間に皺を寄せて言った。


「マリー。その男は何です?」

「ふふふ。中央島で買ってきた男」


 不敵な笑みを浮かべながらマリーがそう答えた瞬間、カトリーヌは手にしたナイフとフォークを取り落してしまった。無表情を貼りつけた給仕の男が素早くそれを拾い、笑顔を貼りつけたメイドの女が新しいものをテーブルの上にセットした。


 だが、カトリーヌは食器を気にしている場合ではなくなったようだ。


「どういうことです!」


 彼女は泡を食ったように口をパクパクと動かした。レオナルドが顔を引き攣らせつつ傍らを見ると、マリーは可笑しそうに笑っていた。手にしたハンドバッグから煙草を取り出して咥え、上機嫌な様子で火を点ける。途端にヤニ臭いにおいが部屋に広がった。


「やめなさい! 煙草は体に悪いのよ!」


 声を荒げるカトリーヌに対して、マリーはフンと鼻を鳴らした。


「わたしの健康なんて、あなたには関係ないでしょう?」

「関係なくはないわ! あなたはわたしの娘なんだから、心配して当然でしょう!」

「娘ねえ……」


 小馬鹿にするように鼻で笑ったマリーを見て、カトリーヌは顔を顰めた。


「いったいどうしたの、マリー。今まではあんなにいい子だったのに。最近は診療をしないのはおろか、礼儀知らずになって、お酒の量も増えて……。おまけに、そんな得体の知れない男を連れ込むなんて……。ママをどれだけ心配させれば気が済むの!」


 頭を抱えてしまったカトリーヌを、笑顔を消したマリーは冷え冷えとした表情で見下ろした。


「ママったら、母親のふりがお上手なこと。あなたが心配しているとすれば、それはわたし自身のことじゃなくて、診察キャンセルで病院の売り上げが減るってことの方でしょう?」

「なんてことを!」


 冷たく見下ろす娘の薄紫色の瞳を、全く同じ色の母親の瞳が驚きや怒りに震えながら見上げていた。しばらく睨み合っていた二人だが、マリーが先に視線を外し、レオナルドに向けてにこりと屈託ない笑顔を浮かべた。


「座って頂戴、レオナルド。わたし達も食事にしましょう」


 マリーは母親の目の前の椅子に座り、レオナルドにも強引にその隣の席に着かせた。


「何してるの、あなた達。さっさとわたし達にも料理を運んできて頂戴」

「しょ、承知致しました」


 給仕の男が無表情の仮面から僅かに戸惑いを覗かせつつも、主の娘の言いつけを守るべく、調理場へと下がっていった。呆然と娘を見つめるカトリーヌを無視して、マリーはレオナルドに体を密着させるような体勢で座り直す。


「ねえ、レオナルドはシーフードが好き? それともお肉料理?」

「い、いや」

「遠慮はいらないのよ。何でも好きなものを食べさせてあげるからね」


 猫撫で声のマリーは、ベタベタとレオナルドの腕や肩、胸の辺りを触ってくる。あまりに不躾な行為に、レオナルドは冷や汗をかきながら苦笑いを浮かべることしか出来なかった。ちらりとカトリーヌの方を確認すると、なんとも言えない悲しそうな表情をしていてレオナルドの良心を苛んだ。


 カトリーヌはしばらくの間、娘の醜態を見ていたが、やがて頭を軽く横に振ると席をたった。


「あ、奥様……」

「食欲がなくなったわ。片づけておいて頂戴」


 メイドにそう言い残して、カトリーヌは部屋を出た。インタビュー記事では、ピシッと背筋の伸びた画像しか見たことがなかったカトリーヌは、病を持った老婆のように体を屈めて応接室の大きな扉から廊下へと消えていった。

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