第八十四話 誇り高き武士というもの
静まり返った部屋の中、灰がはらはらと舞い落ちる。霞む視界にポタポタと畳に滴り落ちる真っ赤な血を捉えた。それは驚くほど鮮やかで。灰と混ざり合いながらも独特のあの錆びついたような臭いが鼻をついた。
ああ…私、斬られちゃった…
…でもよかった。最後に総司くんを守ることができて…
よかった!仲間を守ることができて……!
熱が走った左肩に眉を潜めながらも、私ってばやってやったよ…!と満足感でいっぱいだった。
徐々に開け行く視界。刀を振り抜き、私を斬りつけた浪士の姿がハッキリと浮かび上がる。
その姿を目に捕らえた瞬間。
私は自分の目を疑った。
「………え?」
…畳を血で濡らしたのは私じゃなかった。
完全に開けた私の視界に飛び込んできたのは、背後から私のすぐ脇を真っ直ぐに伸びた鋭い光を放つ"ソレ"。
"ソレ"は寸分の狂いもなく浪士を貫き、そしてその姿を真っ赤に染めていた。
「ぐ…!お…、きた……」
堰を切ったように血が刀を伝い溢れ出す。顔を歪めながら、まるでネジが切れた人形のように膝から崩れ落ちる浪士。刀は肺まで達しているのか、口から吐かれる浅い呼吸と共にヒュー、ヒューと嫌な音が聞こえる。その音は今まさに浪士の命が燃え尽きる事を知らせているようだった。
握りしめた拳か小さく震える。
目の前の光景に足がすくんだのもある。けれどそれとは他に、ある疑問が私の頭の中を支配していた。
……な、んで?
斬られたのは……浪士。
…じゃあ私は?斬られた、はずだ。だって痛みが…
燃えるような熱が走った左肩にゆっくりと震える手を伸ばす。着ていた浴衣はやはり肩から胸元にかけてスッパリと斬られている。
だけど…
だけど血が出ていない。それどころか身体には斬られた傷すらない。
確かに私の左肩には眉を潜めるほどの熱が走った。錯覚ではない。確かに斬られたのだ。
なのに…傷がない。
これはいったいどういうこと…?
「逃げ、ろ…」
「!!」
呆然と立ちすくむ私の背中に、ドサリと重みがのし掛かる。ハッと振り返れば、浪士を貫いた刀を握りしめたままの総司くんが真っ白な顔をして倒れこんでいた。
「総司くん!!?」
なんで!?どうして総司くんが!?
もしかして総司くんも斬られた…!?
気が遠くなりそうなのを必死でこらえ、倒れこむ総司くんの顔や身体を
支えながらケガがないか確認する。
…総司くんにも傷はない。
じゃあなんで…?
そう思い、首の後ろを支えた時、ふとあることに気がついた。
総司くんの身体が燃えるように熱い。それに異常なほど大量な汗をかいている。
…部屋の中は蒸し暑く、きっと40度近い。重い日本刀に決して軽装とは言えない羽織袴姿。身体の水分なんてあっという間に汗で流れ出、しかも気持ちの高ぶりと興奮ときたもんだ。
これはもしかしなくても……
熱中症…!!
…よかった!斬られたんじゃなかった!
なんてホッとしたのも束の間。
「ゴボッ…!!」という濁った咳の音に、まだ目の前の浪士の命は燃え尽きていないことに気付く。慌てて前を向けば、膝を折った男からはおびただしい程の血が流れてはいたが、眼にはまだ鋭さが宿っていた。
これは…ヤバイかもしれない。
この男はきっともう死ぬ。
けれど男の眼は、意識を失った総司くんを斬り、刺し違えることは出来る。そう言っていると捉えられるくらい鋭さと強さを持っていた。
今、この場には私を含め3人しかいない。総司くんを守ることが出来るのは…私しかいない…
…大丈夫、できる。守ってみせる!
完全に意識を失った総司くんをそっと横たわらせ、庇うように精一杯両手を広げる。
緊張からか呼吸が荒くなり、額からは吹き出した汗が、ツツ…と首もとを流れ落ちた。
…総司くんを死なせてはいけない。この男は新選組に必要な男だ。そしてきっとそれはこの時代にとっても。
それに…お悠さんを泣かせるわけにはいかないもの!
鋭い眼が私を射抜く。その眼に捕らわれてしまったのか息を飲むのもままならない。シーンと静まる部屋の中で、男のヒュー、ヒュー、という不気味な浅い呼吸がその空気を小さく揺らしている。
その音が私の緊張感をさらに掻き立てた。
この空間を静寂と緊張だけが静かに支配する。
その中で一体どれくらいの時間、そうしていただろうか。
ついに事態が動いた。
「……すまぬ、松陰、」
意識が混濁しているのか、男は力なくそう言葉を溢すと握りしめた刀を杖代わりにフルフルと震える片膝を立て、ドッカリと胡座を組んだ。
てっきり斬りかかってくるもんだとばかり思っていたから、男の予想外のその行動に思わず拍子抜けした。
そして男の眼がすでに焦点の定まらないものになっていることに気付く。
ああ…、きっとこの男の命はもうすぐ燃え尽きる。そう思い、僅かに気を緩めた時だった。
「あっ…!!」
すでに虚ろだった男の眼がカッと見開く。そして次の瞬間、男は脇差を音もなくサッと引き抜くと、なんの迷いもなく自分の腹にそれを突き立てた。
ぐぐぐっと前のめりに倒れる浪士の身体。浅い呼吸は血を含んだ不気味な音になり、一度大きく咳き込んだかと思うと徐々に徐々にと弱くなっていくのがわかった。
…切腹自体を見たのはこれが初めてだった。
声が出ない。足がすくむ。
溢れ出す真っ赤な血潮と男の歪んだ顔に一瞬にして倒れそうになったが、私は視線を反らさなかった。
この男は新選組とは敵対的な立場ではあったけれど、誇り高き武士だ。その武士としての立派な最期を…きちんと見届けてあげたかったから。
日本の未来のために死んでいくこの男の名誉ある死を讃えてあげたかったから。
志を高く持ち、この時代を生き抜いた武士の最期の姿を瞼に焼き付けた。
「………」
そうして…
浪士は聞き取れないほどの小さな声で何かを呟くと、その言葉を最後に身体は動きを止め、聞こえていた呼吸も静かに止んだ。
…これが…武士……
私が生まれ育った未来は、この誇り高き武士たちの血と魂のもとで成り立っているんだ。
感謝しなきゃいけない。未来のために命の炎を消したこの武士に。この武士だけじゃない。日本の未来のために散っていったすべての武士に私達は感謝しなきゃいけないんだ…
不思議と恐怖心は無くなっていた。ならばこの頬を伝う涙はなんの涙なのだろう。
ゆっくりと男に近付き、血にまみれたその身体を静かに横たわらせる。せめてもの弔いにと浴衣の袂に入れておいたハンカチを広げ、歪んだ表情のままの顔にそっとかけた。
*
「何やってんだッ…てめぇはッッ…!!!!」
それからものの数分もしないうちだった。下手すりゃ敵よりも怖いんじゃねぇかと思う男が怒鳴り声とともに部屋に飛び込んできたのは。
けれどその焦りを隠さない怒鳴り声にむしろ私は安心感を覚えた。強ばっていた身体の緊張がスーッと解れていくのがわかる。
ああ…、これで全部大丈夫だ…
「歳さん、」
「歳さん、じゃねぇッ!!てめぇ何考えてッ………総司ッ!!?」
私に吠えた歳さんの鬼のような形相は一変。部屋の片隅に横たわっている総司くんと浪士に気付いた瞬間、その鋭い眼を見開き、私をはね除け総司くんの隣に膝をついた。
「大丈夫、総司くんは大丈夫です。たぶん、暑さにやられたんだと思います」
歳さんを取り乱させてはいけない。
総司くんに飛び付き、今、まさに全力で揺り動かそうとしているその男の腕を慌てて掴みそう告げれば、男は焦りを含んだその眼を閉じ、安堵のため息をついた。
「…そいつは?」
歳さんの視線がゆっくりと、横たわる浪士に向けられた。
…数分前のあの光景が甦る。
致命傷を負いながらも最期まで私達に鋭い眼を向け続けていた浪士。
そして潔く散ったその命。
初めて武士という男の強さを目の当たりにした。
その強さを忘れてはいけない。この時代で生きていくために。
「この人は、最期自分で…」
「…そうか」
「立派な、すごく立派な最期、でした」
つい掠れたその最後の言葉は歳さんに届いたのだろうか。
…俯くもんか。ここで私が俯く理由なんてどこにもない。俯いたら散っていったその命に申し訳ない。
前を向け、由香。
握りしめた拳の中で爪が突き刺さる。
そんな私の胸中を知ってか知らずか、歳さんは何も言わず私の頭をポンッと優しく叩いた。
「…歳さん、行きましょう」
溢れた言葉は自分でもビックリするくらい強さが籠ったものだった。
前を向け。強く生きろ。この時代の人々が命懸けで築いた平和な未来で生まれ育った私が下を向いてどうする。
フッと表情を緩め、小さく「ああ」と呟いた歳さんは、ゆっくりと総司くんを背負い静かに一歩を踏み出す。
そして今一度横たわる浪士を一見し、再び鋭さを宿ったその眼は前を向いた。
…歳さんが何を思っていたかはわからない。ただ、その横顔はまさに武士と言えるに相応しい男そのものだった。
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