第七十六話 幕開けを告げる足音
廊下が微かに軋む音で目が覚めた。東の空がほんの少し明るみを帯びている中、その気配は段々と近付いてくる。きっとあの人だろう。
ああ…いよいよ来たか……
そしてそれは予想通り、僕の部屋の前で足を止めた。
「…総司。起きてるか」
「はい」
「緊急召集だ。すぐ広間に来い」
「わかりました」
手短に返事すれば、その気配はまだ暗闇が隣り合わせの世界の中に足早に消えて行った。
まったく…こんな朝早くからあんなにも殺気に満ちた気配を振り撒かれたんじゃ寝たふりも出来やしない。
朝から鬼の副長があんな感じだなんて、ついにその時が来たんだろう。
あ~あ…せっかくの非番。お悠さんを誘って祇園祭の宵々山に行こうと思っていたのに。どうやらその予定は叶いそうにない。楽しみにしていたのにな。
布団を這い出し、部屋の障子を少し開ければ少しじっとりとした風が部屋の中に流れ込んだ。
外はまだ、月の光が支配している。
今日はきっと…長い一日になるだろうなぁ……
僕は苦笑いを溢すと、ふぅ…とため息をつきながら衣紋掛けの羽織に腕を伸ばしたのであった。
***
広間の襖を開ければ、そこには僕以外の関係者はすでに集まっていた。
「総司、遅いぞ」と歳三さんに小言を言われたが、僕は小さく口角を上げながら肩をすくめ、なに食わぬ顔ではじめくんの隣に腰を下ろした。
チラリと見たはじめくんは一見、普通に見えるがすでに血が疼くのか、殺気に似た何かを感じる。
まったくこの人は…
クスリと笑いを溢せば、「なんだ」と言わんばかりに向けられるはじめくんの"それ"。
おお、怖い怖い。
「…揃ったな。では山崎、頼む」
「は。では…結論から言って、桝屋は今回の件で何かしらの鍵を握っていることは間違いないと見られます」
そう言った山崎くんは薬の行商人の姿をしている。
彼はここ数日。予想もしなかった形で新選組にもたらせられた情報を元に、薬の行商人として桝屋をはじめ、その他近隣の店、市内の宿屋を探索していたのだ。
そしてその彼がすでにこの屯所に帰ってきたということは、何かしらの確信を得た情報を手に入れたということ。
やはり事態は今日動くと言って間違いないだろう。
そもそも…、事の発端は数日前。
僕達が大坂から帰ってきたまさにその道中のことだった。
*
「近藤くん!近藤くんじゃないか!!」
「岸淵さん!」
誰もが避けて通る僕達新選組の列に嬉々と話しかけてきた二本差しのその男。
よく見れば、その人は水戸藩士の岸淵兵助さんだった。彼は江戸詰めのお役時代、近藤さんの人柄を慕ってよく試衛館に遊びに来ていた人物。だから僕はもちろん、試衛館の面々は面識がある。軽輩だけど腕は立つ人で人柄も穏やかでとてもいい人だ。
突然現れたその懐かしい顔に、近藤さんだけでなく歳三さんや新八さんなども顔を綻ばせた。もちろん僕もその一人。
だが当の岸淵さんからは予想もしなかった言葉が飛び出してきた。
「河原町の桝屋?知っているもなにもわが新選組が贔屓にしている店だよ」
「その桝屋、実は攘夷浪士の大物らしいぞ」
「なんだって!?」
本名古高俊太郎。彼等は南の大風が吹く日に市中に火を放ち、御所に押し入りそのまま天皇を誘拐。そして一気に倒幕の兵をおこそうと計画している…と。
「信じられん…」
「ああ、俺も最初はそう思ったさ。だが俺のようにどっち付かずの奴等の中じゃもっぱらの噂だ」
過激な天狗党や根強い佐幕派、両方が揃う水戸藩において、重職に付いていない岸淵さんのような人には案外双方の動向がよくわかるそうだ。
かといって確信があるわけでもない。単なる噂だと岸淵さんは笑っていたが、近藤さん以下僕達は眉を潜めた。
以前捕縛した男の長州人潜伏の話。そして京の街中に微かに流れる不穏な空気。
これは案外、探ってみる価値はあるかもしれない。
そう思ったのは僕だけじゃなかったようで、屯所へと無事に着いたその足で歳三さんは監察方に何やら命じ、山崎くん以下監察方は京の街中に姿を消した。
そして今に至るわけだ。
「昨日の昼頃、桝屋にて薬の売買をしていたところ、店の暖簾奥を長刀を持った武士数人が横切るのを確認しました」
「長刀か……あんなもん、長州の奴等しか好き好んで持たねぇだろう」
「はい。それに武士数人が店の奥にいること自体おかしい」
……証拠となるには十分かな。
それに以前、由香さんから聞いた話によると、長州の高杉さんや桂さんも桝屋と面識があるようだし。
さて、どう動くのかなと徐々に高揚してきた気持ちを抑えてわざとすました顔をしていれば、隣のはじめくんから「あんたもまったく人のことを言えたもんじゃない」と溜め息が聞こえてきた。
あれれ、殺気は隠したつもりだったのに。さすがは人斬り一刀斎、とでも言うべきか。
「失礼します」
最早あとは近藤さんの一声で、というまさにその時、低い声とともにスッと襖が開いた。
そこには少々息を切らした監察方の島田さんと川島さんの姿。
ああ…、きっとこれで動きだすきっかけができる。確信の強い情報を彼等は持ってきたのだろう。何故なら彼等の表情からは士気が溢れ返っていたのだから。
「昨夜遅く、鴨川東岸で幅を利かせている浮浪者に金を握らせたところ、岸淵さんと同じような情報が」
「話せ」
やはり南の大風吹く日。
用意した火薬で市中に放火し、参内する中川宮と松平容保公を殺害する…そう酔っぱらった長州の下っ端が大口を叩いていた、と。
島田さんは早口でそう言うと、今にも抜刀する勢いで近藤さんに詰め寄った。
「局長。何か起きてからでは手遅れです。長州にはまだ幕府に刃向かう牙がある。今のうちに手を打つのが策かと」
ふむ、と頷く近藤さん。なかなか決心が付かないのか思案顔を見せる。だがそれをも一蹴りする勢いで立ち上がった者がいた。
「面白ぇ。ならばその牙……この新選組がひっこ抜いてやろうじゃねぇか」
殺気を全身に纏いそれを隠そうともしない…鬼の副長と呼ばれるに相応しいその男。歳三さんだった。
その迫力に一瞬誰もが息を飲んだ。が、しかしここは血に飢えた男達が集まる新選組。
歳三さんのその意に従ずるように皆、腰に差してあるそれに手を添え立ち上がり始めた。
その眼は新たな獲物を見付けたようにギラついている。
「近藤さんは会津藩に協力の依頼を。組長らは各々の組の精鋭を数人揃えろ。準備出来次第、すぐに桝屋に向かう」
「わかった」
「はいよ!」
歳三さんの一声で会議は終息を向かえ、皆足早に広間を出て行った。
さぁ、狩る獲物は洗ってみれば意外な代物かな?それとも…
皆の背中を見届けた僕はゆっくりと立ち上がる。そして、うーん…と大きく伸びをすると、堪えきれない笑みを今一度噛み殺し、広間をあとにしたのだった。
***
「三番、五番、八番は裏へ。他は表から踏み込むぞ」
ようやく陽が登り始めようかという頃。
僕達は四条河原町の桝屋にいた。
見た目は何ら普通の古道具屋。それを二十数人の抜刀した厳つい男達が取り囲んでいるのだから、端から見たら異様な光景だろう。
耳を澄まし、神経を研ぎ澄ませれば己の熱い鼓動すら聞こえてきそうだ。
辺りは明るくなりつつあるが、まだ人の気配はしない。人目につく前にさっさと終わらせたいのだろう。珍しく歳三さんからは焦りの色が見えた。
「総司、行けるか」
「もちろん。不逞な輩は斬っていいんですよね?」
「…抵抗すれば、な。だが桝屋は斬るな。捕縛して口を割らせる」
「怖いなぁ、さすが鬼の副長」
クスクスと小さく笑えば、鬼の副長は気を悪くしたのか「チッ…てめぇは…」と言って眉間に皺を寄せた。
まったく、歳三さんてば本当に冗談が通じないんだから。ま、そこが歳三さんのいいところでもあるんだけどね。
未だクスクス笑う僕に歳三はさらに眉間の皺を深く刻んだが、そろそろ頃合いと見たのだろう。
竹で出来た小さな呼子笛を咥え、一度後ろにいる隊士の方を振り返った。そしてすぐ後ろにいた新八さんが小さく頷いたのを確認すると、その呼子笛に大きく息を吹き込んだ。
「ピィーッ!」と辺りに鳴り響く笛の音。その甲高い音を合図に裏へ回った隊士達が裏木戸を壊したのであろう。大きな音が耳に届く。
と、ほぼ同時に表の木戸も蹴破られた。
「御用改めである!!」
歳三さんが先陣を切ってその木戸を踏み越えたが、店の中はしぃんと静まり返っている。
最早、もぬけの殻…?
そう思ったのも束の間。
暖簾奥に見えた小さな灯りと焦げた臭い。
これはもしかしたら証拠を…
一瞬の戸惑いが僕達を駆け抜けたその時、
「何をしている!!」
裏から踏み込んだ隊士達が先にたどり着いたのであろう。五番隊の組長、武田さんの怒鳴り声が耳に届く。
慌てて暖簾奥に踏み込めば、そこには半分焼けた書類を手に、武田さんに取り押さえられている桝屋の姿がそこにあった。
だが桝屋は抵抗せず不敵な笑みすら浮かべているようにも見える。
「……桝屋。いや、古高俊太郎。御用改めだ。屯所に来てもらおうか」
「……はて。何のことでっしゃろ」
「てめぇ!知らばっくれるつもりか!?」
「新八さん、抑えて」
勢いで桝屋を斬ってしまうんじゃないかという新八さんをなんとか抑え、僕は店の中をぐるりと見渡した。
…あ~あ。せっかくの非番。しかもこんなに早起きしたのに……
自然と溜め息が口をついた。
「どうした総司。溜め息なんかついて」
「だって左之さん。せっかく菊一文字に血を吸わせてやれると思ったのに」
「おいおい、とんだ修羅だな」
「ま、鼠は大方部屋の奥の抜け穴でも使って逃げちゃったんでしょう?ね、桝屋さん」
僕の言葉に桝屋の眉間に皺が刻まれたのが見えた。
それと同時に「抜け穴だって!?」と驚きを隠さない新選組の皆。
確認すればやはり奥の部屋の押し入れに抜け穴が。そしてそこにはたくさんの武器や弾薬がところ狭しと置かれていた。
まったく…平隊士達はともかく、幹部の皆までもが気付いてないなんて。
鼠に逃げられ、結局相棒の"コイツ"に血を吸わせてやれなかった。そんなイライラから「敵陣に入ったなら瞬時に地を確認する。そんなのあたりまえでしょう?」と、少々キツい言葉を溢せば意外や意外。
「さすが修羅と呼ばれはる沖田はんや。言うことも笑顔もまさに修羅やなぁ…」
「す、すまん」なんて素直に謝った新八さんの声をも抑え、皮肉たっぷりに反応したのは今まさに捕らえられている桝屋だった。
「…どうやら余裕があるようですね」
「余裕も何も、わてはなんも悪いことなんてしてへんからなぁ」
ニコリと浮かべたその笑みにはやはり余裕と憎悪が見てとれて、思わず僕は桝屋の顔を見据えた。
…きっとこの人は当の昔に覚悟を決めている。相当な"こと"をしない限り口は割らないだろう。
「歳三さん。どうやら相手は強敵みたいですよ?鬼が勝つか…はたまた鼠が逃げ切るか……見物ですね。楽しみにしてますよ」
事態を静観し、部屋の奥で一段と強い殺気を纏う新選組の鬼にクスクスと笑いかければ、その鬼は眼をギラつかせ静かに桝屋に歩みよった。
桝屋が必死に燃やそうとしていた書類を拾い上げれば、それは長州や土佐、肥後などの志士の名が連ねられた血判状。
さて…、うちの鬼はどこまで割らせることができるかな?
「…桝屋。あんまり俺らを舐めてくれるなよ」
「………」
「覚悟しとけ」
見下ろしたその眼はまさに牙を剥いた獣で。
それに刃向かうように桝屋は再び不敵な笑みを浮かべたのであった。




