第七十一話 真実は記憶の奥底に
私の記憶に、静寂かつ冷酷な殺気を刻み付けたこの男の声を忘れるはずがない。
もう会うことはないと思っていたのに、まさか三度顔を合わせることになるなんて。
その驚きは目の前のこの男も同じだったようで。
スッとした切れ長の目に驚愕の色が窺えた。
「…これはこれは。新選組のお嬢さん」
「……お久しぶり、です……桂さん」
小さく頭を下げた私にチラリと視線を落とした桂さんは、わざと、なのだろうか。店の入口をガラリと閉め、そのまま私の逃げ道を塞ぐかのようにその場に立ち尽くした。
「…どうして君がここに?」
「以前、高杉はんに連れられて来てくれはったことがあったんどす。今日は近くに用事があったようで、わざわざご挨拶に」
私の様子が変わったことに桝屋さんが気付いたのだろう。ピリピリとした雰囲気を壊すかのように、柔らかい口調で桂さんの問いに答えてくれる。
けれど…ふと宿った桂さんの殺気に、場の雰囲気は悪くなるばかりだ。
とゆーか。
この二人も知り合い…なんだろうな。この感じからすると。桝屋さんは高杉さんの友達であるのと同時に長州贔屓。そうと来れば、桂さんとも知り合いと考えるのが自然の流れだろう。
新選組に敵意を持つ二人と、新選組女中の肩書きを持つ私。
なんとも言えない居心地の悪さに、一秒でも早くここを離れろと本能が警笛を鳴らす。
だけど…意に反して私の足は地に根を這ったように動かない。そして視線は男の殺気が混ざった眼差しに奪われたままだ。
どうし、よう…
早く、早く帰らなくちゃ。
「あの、私、もう帰らなくちゃ…」
「ならば途中までお送りしよう。そのかわり…少し付き合ってくれるかな?」
有無を言わせないその強い口調に、嫌ですなんて言える余地はなく。
小さく頷いた私は桂さんとともに桝屋さんをあとにしたのだった。
***
一体どこに行くのだろうか。
そう思いながらもスタスタと歩いていくその背中に付いていく。
思いきり走れば逃げられるかもしれない。でももし捕まったら…きっと私はその場でなんの躊躇もなく斬り捨てられる。間違いなく。
桂さんはイケメンだ。イケメンだけれどその綺麗な顔に私は恐怖感しかなかった。
冷酷で、義理なんて言葉はない。人の命をまるでコマのように扱う。
下手すりゃ芹沢さんなんかより、歳さんなんかより、誰よりも鬼なんじゃないかって。
だから私はこの男がただただ怖かった。
「入ろうか」
「え…!?ここって…」
そんな男に連れられてきたのはなんと茶屋。現代でいうラブホのようなところだった。
付き合ってくれって…なに!?なんで?そういうこと、だったの!?
さすがに浮気はできない。というか、こんな男とヤリたくない。
ここはちょっと。
声を振り絞り、若干きつめの声で断りをいれれば、男は呆れたようにため息をついた。
「こっちだって君とそんな関係になる気はさらさらない。誰もいないところで話がしたいだけだ」
早くしろ。そう言わんばかりの勢いで「心外だな」と怪訝そうに呟くと桂さんはさっさと茶屋の入口をくぐっていった。
……ええと。
なんか激しく恥ずかしいんですけど。
***
部屋は薄暗い雰囲気で、小さなお茶のセットと布団が一組敷いてあるだけだった。
茶屋だっていうのに厭らしい雰囲気を微塵も感じないのは、隣にいるのがこの男だからだろうか。
桂さんは隣の部屋と仕切られた襖を小さく開け、誰もいないのを確認すると擦りきれている畳の上に腰を下ろした。
「君も座ったらどうだい」
桂さんの案外優しいその言葉に、私は黙ってその場に腰を下ろす。
だが視線は先程となんら変わりない鋭いもの。その鋭い視線に心中まで見透かされそうで、全身に緊張が走った。
「…そんなに気を張らなくていい」
「………」
「それに君は何か勘違いをしている」
「…何が、です?」
眉をひそめた私に桂さんは苦笑いに近い笑みを溢すと、懐から煙管を出し煙草を詰めだす。
火が入れられ吹かされた煙に私はさらに眉をひそめた。
「君を斬るつもりはないよ。それに私は昔も今も…これからも己の手を血に染める気はないからね」
それって…
桂さんは人を斬らないってこと…だろうか。
…意外としか言い様がない。だって桂さんはあんなに静かで冷たい殺気を放つ人だもの。だから予想もしなかった彼の言葉に正直少し驚いた。
「人を斬ってなんらいいことはない。人を斬って喜ぶのは殺戮集団の新選組くらいだ」
「でも桂さんは己の手は汚さず、他人の手を汚させてるじゃないですか」
殺戮集団という言葉にカチンときてついそう噛み付けば、桂さんはフフっと口角を上げ「ずいぶん気が強い女子だ。晋作が気に入るだけのことはある」と笑った。
でもこちとら笑い事じゃない。
殺戮集団なんて…
何も知らないくせに。
京の人からは陰でそう言われているのを新選組の皆も知っている。
でも新選組の皆だって好きで刃を向けるわけではない。好きで他人の命を奪っているわけではない。
なのに…何も知らない他人から殺戮集団だなんて罵られたくない。
「君は…未来から来たと言ったね?」
「…戯れ言に付き合う暇はなかったんじゃないですか」
「たまには戯れ言も必要だからね」
こ…、の男は…
なんでこう、言うこと言うこと癪に触る返しをしてくるんだろうか。
この男は絶対に自分が一番正しい、他人の意見なんて絶対に受け入れませんよ。未来に向かってただ一本の真っ直ぐなレールを歩いていけばいいのです…なんていう頭でっかちの石頭タイプだ。
どちらかと言えば自由奔放な私とは犬と猿。水と油。絶っっ対に交わることはないだろう。
呆れるのと苛つくのとで「ああそうですね」と半ば投げやりにそう言えば桂さんは意味深に口角を上げた。そんな桂さんにさらにイライラしたがとにかくもう、早く帰りたい。
うん。さっさと話に応じて早く帰ろう。
「桂さんは未来の何を知りたいんですか?」
「私が知りたいのはただひとつ」
男は持っていた煙菅を一度深く吸うと灰吹きに打ち付け、鋭い眼差しで私を射抜いた。
「未来は争いのない平和な世の中なのかい?」
桂さんからのこの質問は…
正直意外だった。
だって桂さんは長州のためなら人の命をコマのように扱う人だから。
だから桂さんが争いのない平和な世を望んでいるだなんて…
まさか思いもしなかった。
「……世界は内戦が絶えませんが…少なくとも日本は平和、です」
「……そうか」
言葉少なにそう答えたが、桂さんの鋭い視線がフッと柔和なものに変わったような気がした。
その眼のはいつか見た、高杉さんの眼に似ている気がして…
もしかして…
もしかして私ってば何か誤解をしてる…?
「兵は凶器といえば、その身一生用ゆることなきは大幸というべし」
「…は?」
「兵は力を持つものだが、その力を一生使わないほうが幸せなのだ」
「………」
「これは私が塾頭を努めた練兵館、神道無念流の道訓でね」
「はぁ」
「私が人を斬らない理由の一つにこの道訓がある」
もうわけがわからない。
急に何を言い出すかと思えばしんどうむねんりゅうのどうくん?
何がどうなってどうなるとそのどうくんの話に繋がるっていうんだい?
桂さんが人を斬らない理由がそのどうくんのせいだなんてこと、未来の話と全然関係がないと思うんだけど。
「君の言う通り、未来が平和な世の中であるとすれば、兵の力を持たずして民は世の中を平らにしている、ということだね?」
桂さんが言いたいことはきっと、物事を武力で解決する世の中ではなくなったんだね?ということだと思う。
小さく「はい」と頷けば、男は満足そうにニコリと笑ったのだった。
***
足元に転がる石を蹴飛ばしながらトボトボと歩いた。
あれからすぐ桂さんには解放してもらえた。
「君とこんなところにいると、いつ鬼が駆け付けてくるかわからないからね」なんて、最後は本当に本当に柔らかい笑顔を覗かせた桂さん。
彼はあの高杉さんが信頼する仲間の一人。
もしかしたら私は…少しだけ彼を誤解していたのかもしれない。
「君が言うことが本当だとすれば、いずれ幕府は滅びる」
彼はそう言ってクルリと踵を返したのだけれど…
彼の言葉に今まで忘れていた重大なことに気が付いてしまった。
私は未来から来たのに…
少なからず過去のことは勉強したはずだったのに…
なぜそのことに今まで気が付かなかったのだろうか。
……未来には幕府というものが存在しない。代わりに内閣というものが存在する。
それは幕府というものが姿形を変えたものだってなんとなくそう思ってた。
さっきまでは。
けれどそれはきっと違う。テスト前に無理矢理頭に叩き込んだそれを懸命に思い出せば、この私がいる"江戸時代"というものは必ず終わりを迎える。"江戸"のあとは確か"明治"。その"明治"になる時に幕府はなくなるはずだ。
今は元治元年。江戸時代、最後の年号は…
確か…確か…
………駄目だ!!思い出せない!!つーかたぶん知らん!!
私が知ってることなんて、なんとでかいな平城京、なくよウグイス平安京、いいくに造ろう鎌倉幕府くらいだ。ああ、江戸時代のことなんて全然覚えてない。
こんなことになるなんてわかってたら日本史を真面目にやってたのにこんちくしょうめ!
何か思い出せないか。手掛かりになる何か。
……あ、あ、アメンボ赤いなあいうえお!…じゃなくて!!!
…い、い、い……
「…いっぱむなしくたいせいほうかん!!!」
蹴飛ばした小石がコロコロと転がり、やがて動きを止めた。
いっぱむなしく!!1867年!!江戸時代真っ盛り!!ええと、今が1864年だから…あと3年!あと3年後にたいせいほうかん!!!そう、たいせいほうかんだ!!!
……たいせいほうかん?
ちょ、ま…、たいせいほうかんって何だ?
年号のゴロ合わせがあるくらいだからたぶん重要な出来事なんだろうけど…
たいせいほうかんが一体どんなことなのか全くもってわからない。
……ああああ!!もう!!バカバカ!!私のちょうバカ!!中学生の私、もっとバカ!!
これじゃますます気になるばかり。
江戸時代がそこで終わるのか。それとも他に何かが起こるのか……
…いいや。もうやめた。もう頑張って思い出すのやめた。だってどう頑張ったって知らないことを思い出すことはできない。一夜漬けの記憶なんて所詮こんなものなのだ。
……新選組は幕府に仕えてる。
じゃあ幕府がなくなった時に新選組は…
新選組はどうなるのか。
幕府が滅び行くものだとしたら、新選組も滅び行く組織なんじゃないかって。
もしそうだったら。そうだとしたら。
新選組の皆は……
あああああ!!!!もうやめた!これもやめた!!もう何も考えない!無だ!無心になるのだ!!
確実ではない妄想に振り回されてどうする!そんなの全くもって私らしくないではないか!!
うん!大丈夫!きっと大丈夫!!
第一、江戸時代が終わるのなんてあと100年後かもしれないじゃない。
今日明日に起こるはずのないことをなんで心配してるんだ私ってば。
大丈夫。何があっても新選組は滅びたりだなんかしねーよ!
それより…
今焦ることは他にあるんじゃね?
…うん。
門 限 間 に 合 わ な い。
まだまだ季節は冬の終わりって感じで、それも手伝ってかすでに西の空には陽が沈み始めていた。
もうきっと、4時なんてよゆーで過ぎちゃってるだろーなぁ。
あ~、いつもなら歳さん、早く島原から帰ってきて~!なんて思ってたけど、もう今日はいいよ。一次会だけじゃなくて二次会に行ってもオールオッケー!なんなら三次会も…なんて勢いだけど、どうせあれでしょ?こんな日に限って早く切り上げてきた、とかいうオチでしょ?
ああ…屯所の門前で、どーん!と不機嫌丸出しオーラ全開で腕組みしてる歳さんが容易に想像できてしまうわ。
とにかく早く帰ろ…
なんて。
中学生の一夜漬けの記憶も侮れないと気付くのはこれからだいぶ先のことで。
この時すでに、日本の歴史に残る動乱への歯車が動き始めていたなんて、私はもちろん、新選組の誰もが気付いてなかったのであった。
***
「うわ…、マジか」
微妙なテンションのまま屯所が見える場所までくれば、門前の提灯に照され浮かび上がる一つの人影が見えた。
…なんなのマジで。なにこのやっぱりお約束通り。
ああ~、疲れてるのに説教コース…
歳三…
としぞうがあらわれた!
としぞうはこちらがみがまえるまえにおそいかかってきた!
「随分とお早いお帰りじゃねぇか」
「あ、はは…た、ただいま、です…」
私の予想通り、歳さんはすでに陽が暮れたにも関わらず仁王立ちのまま屯所の門前に立っていた。
意外にも顔には満面の笑みを浮かべているが、これは仮面だということを私は知っている。この仮面の下には鬼の副長と呼ばれる土方歳三が息を潜めているのだ。
「てめぇの門限は何刻だァ?」
としぞうのこうげき!
つうこんのいちげき!
由香は100のダメージをうけた!
「え、えと…昼七ツ、です……でもでも!これには理由があって…!」
「ほぅ…どんな理由だ?聞かせてみろ」
としぞうはブキミにほほえんでいる!
そう!これにはちゃんとした理由があるもの!私だって好きで門限を破ったわけじゃないもん!
まぁ…、最初は破ってやろうじゃねーかなんて反抗期もありましたけど…
でも、私は悪くない!悪いのは小学生ばりの門限を設定した目の前のこの男なのだ!!
そして…
ええ。すべて話しましたよ。話しましたとも!今日あった出来事を!なぜ門限に間に合わなかったのかを!!しかも若干不機嫌ぎみにね!!
でも……すべて話したあとに気付きました。
ちょっと脚色しておけば良かったって。
「じゃああれか?てめぇは長州の桂と茶屋に行ってたから門限に間に合わなかったってぇわけだな?」
「違っ…いや、違くないですけど!!いや、やっぱ違います!!」
やばい。もしかしなくても勇者由香の大ピンチ!
「いや、行きましたけど!茶屋!でも本当になにもなくて…つか桂さんが無理矢理茶屋に…あ、無理矢理って言っても本当なにもなくて!!」
黙って私の話を聞く歳さん。
なんか私一人でテンパってしまって、なんだかこれじゃ本当に私と桂さんが何かあったみたいじゃないか。
歳さんからはもはや笑顔は消え、何を考えてるのかわからない無表情を覗かせた。
ああもう!なんでこんなことに!!
桂さん、やっぱムカつく!なんかムカつく!
あの男が桝屋さんに現れなければちゃんと門限に間に合っただろうし、そしたら今頃は歳さんにあの印籠を…
…そうだ!私ってば今の今まで忘れてたよ印籠!!歳さんの喜ぶ顔が見たくて…これを買ったんじゃないか!
「あ、あの!歳さんにお土産が」
「あん?土産だぁ?」
ふっと片眉を上げた歳さんに、懐から取り出したあの印籠を差し出す。
その印籠を受け取った歳さんは驚いたように口を開いた。
「これは…」
「歳さんにつけてほしくて…実はこれを探しに四条まで」
嘘も方便。私は女優。
だがしかし…
なんか恥ずかしくなってきた。
なに?男にプレゼントを渡すときってこんな感じでいいの?
ちょ、このシチュエーション、初めてなんでどうしたらいいか全然わかんねーんですけど!
「あの…気に入りませんでした?」
「いや……なんつーか…」
言葉を濁す歳さんに一気に不安が駆け巡る。やっぱり気に入らなかったんだろうか。それともすでに同じものを持ってたりして…
が、そんな私の心配は必要なかった。
歳さんは一瞬私と視線を交合わせたかと思うと、その視線を空に泳がせた。
「……ありがとよ」
……
………
ツ………ツンデレキターーー!!!
その萌えパワーに思わずブフッと吹き出せば「…なんだよ」なんてツンツンしちゃう希代のツンデレイケメン。
ああ、可愛い。ああ、萌える。
歳さんのこの可愛さ、私には破壊力が強すぎる。
桝屋さんのイケメンでもない。桂さんのイケメンでもない。私にはやっぱりこのイケメンが必要なのである。
「歳さんてば本っ当、可愛いですね」
「ああ////!?うるせぇよ////!」
そう言って乱暴に引き寄せられた身体。
やっと伝わったぬくもりに安心感を覚える。
大好きな匂い。大好きな腕の中。
「…いいんですか。ここ、屯所の門前ですよ」
「…暗ぇしな。誰も見てねぇだろう」
重ねられた唇は驚くほど冷たくて。
それはこの男がだいぶ長い時間、外にいたことを物語っていた。
…私ってば。自分のことしか考えてなかった。
きっと顔に似合わず心配性のこの男はイライラハラハラしながら、ここで私の帰りを待っていてくれたんだろう。
そう思えば、物凄い罪悪感が込み上げてきた。
「歳さん」
「ん」
「心配かけてすみませんでした」
「……いや。俺のほうこそほったらかしにして悪かったな」
人間って不思議。相手の思いやりを感じとれれば、驚くくらい素直になれるんだから。
……このあとに大どんでん返しが待ってるとも知らずに。
忘れてたよ。私のダーリンは鬼の副長だった。
「おっと、忘れてた」
「?」
「おめぇ、しばらく一人で外出禁止な」
「ええ!?そ、そんな…」
由香はちからつき いきたえた。




