第六十三話 時ならぬ時に
「今日は特に冷えるねぇ」
小雪ちらつく冷たい空気を吸い込めば胸に凍み入る。
大坂城正門の警護役にあたっていた俺の背中に投げ掛けられた穏やかな声に振り向けば、そこには裏手の警護役をしているはずの山南さんがニッコリとした笑顔を浮かべながら立っていた。
「裏手は?」
「もう交代の時間だ。林くんに任せてきたよ」
そうか、もう交代の…
はぁ、と気が抜けたように小さく息を漏らせば、それは小雪舞う銀色の世界に白く映えた。
今回上洛された家茂公は先日、大坂城へと入られた。このまま何も問題等起きなければ、2、3日中には伏見へと入京する手筈となっている。
…攘夷攘夷と口にはするものの、その姿勢を見せない御上に正直敵は多い。
それに大坂には長州の残党が多く潜むと聞く。このまま何事もなく、無事に入京が済めばいいのだが…
「土方くんも少し休んだらどうだい?」
「いや。それより山南さんこそ早く休んだらどうだ。顔色が悪ぃぞ」
元々そんなに強くない身体の山南さんは慣れない京の寒さにやられたのだろう。大坂に入った頃にはすっかり風邪を引いちまっていた。
それに加えて今日は小雪がちらつくほどの寒さだ。下手すりゃ風邪をこじらせちまう。
山南さんの顔色の悪さは誰の目に見ても明らかだ。
ったく、無理すんなよ。そう言って小さく口角を上げれば「ならお言葉に甘えてそうさせてもらおうかな」と、いつもは頑固な山南さんが珍しく俺の言葉に素直に頷いた。
もしかしたら俺が思うよりも相当具合が悪ぃのかもしれねぇ。
弱々しく微笑む山南さんの笑顔にふとそう思った。
……が、それはそんな山南さんが城内へと踵を返そうとしたのとほぼ同時だった。
「山南くん!大坂船場の呉服店、岩木升屋に不逞浪士が押し入っているとの報があった。手が空いている者達を連れ、ただちにそちらに向かうよう!」
出動を促すその言葉を口にした会津藩の幕臣にそう呼び止められたのは。
思わず「わかりました」と頷くその肩を止める。
「山南さん、」
「いや、大丈夫だ。行ってくる」
そう言って笑った山南さんの笑顔には覇気がねぇ。本人は平然を装ってはいるが、どんな手練れであれこんな状態で刀を握らせるのは危険だ。
「駄目だ。代わりに俺が行く」
「心配性だね君は。なに、すぐ終わらせてくるさ」
「それならば俺も一緒に行こう」
なおも食い下がる俺に諦めたのか、山南さんは「ああ、わかったよ」と力ない笑いを溢し、「では手の空いている者を呼んでこよう」と今度こそ城内に踵を返したのだった。
***
「……これで全員かな?」
「残党がまだいるかもしれねぇ。おい!裏手も確認してこい!」
「は!ただ今!」
バタバタと裏手へと走る隊士達の足音を背に、懐紙でざっと拭った刀を鞘に納める。
隣の山南さんの「ふぅ」という溜め息がやけにでかく耳に届いた。
岩木升屋へ押し入った不逞浪士らは意外にも簡単に片付いた。歯向かってきた者達もいたが、そこはさすが北辰一刀流の免許皆伝の腕前を持つ山南さんだ。具合が悪いとはいえ、この俺をも感心させるほどの速さで斬り捨ててみせた。
…具合が悪くとも剣の腕が鈍ることがねぇとはな。
安堵にも似た溜め息がふいにこぼれ、弱気になっていた自分を嘲笑うかのように自然と口角が上がった。
「なんだい?ニヤついたりなんかして」
パチリと刀を鞘に納めた山南さんが穏やかな笑顔を見せる。
「ニヤついてなんか…」
ニヤついてなんかねぇよ。
そう口にしようとした瞬間。
そう。山南さんのほうに身体を向きかけたほんのわずかな瞬間だった。
山南さんの背後に見えた、黒い固まりとそこから抜きでたすでに見慣れたものとなった鋭く光を放つ"それ"。
そして"それ"は息をつく間も刀を抜く間もなく、閃光の如く山南さんの左腕に降り下ろされたのだった。
***
「おー!すげー!積もったじゃん!!」
「朝から子犬が喚いてると思ったら平助か!!」
「んだよ、新八っつぁん!ひどくねぇ!?」
朝、寒さに耐えきれずに起きてみれば、昨日から降り続いていた雪が辺り一面を銀世界へと変えていた。
私がこの時代に来てから初めての雪だ。
京都の雪は豪雪らしいぞ、なんて皆から聞いてたけど、なるほど。そこら辺の山でスノボができるんじゃねーかと思うほど積もっている。寒いわけだわこりゃ。
縁側に出てみればじゃれあう二人。
わりィわりィ!なんて言いながら平助の頭をわしゃわしゃ撫で、勢いで縁側から雪が積もった中庭にダイブする二人を見て、まさしく子犬と親犬だなと思いました。
「おう由香。今日は随分早起きじゃねぇか」
「あ、左之さん。すげー寒くて寝てらんなくて」
確かにな、なんて言いながら自分の真綿の入った羽織をサラリと脱ぎ、私にかけてくれた天然のプレイボーイ男。
「ちょ、これじゃ左之さんが風邪引いちゃいますよ!」と慌てて脱ごうとすれば、私の肩を押さえ「俺の温もりがあったけぇだろ」なんて、イケメン左之くんは私をいったいどうしたいのかな?ん?言ってみろ。
「そそそれにしても京都の冬は寒いですね!!」
あ。ほれ見ろ。左之さんのイケメンパワーにどもっちまったじゃねーか。
そんな私を見てイケメンは「なんだお前、可愛いとこあるじゃねーか」と笑い、大きく伸びをした。
「俺もこんなに寒いとは思わなかったぜ。江戸の冬も寒いが、ここよりはもっと過ごしやすかったからな」
未来でも確か京都は寒かったよな。京都はいつの時代も寒いのね、なんてバカみたいなことを考え左之さんと二人、中庭ではしゃぐ犬二匹を眺めていると、突然、その陽気な雰囲気には似つかわしくないほど険しい表情をした源さんが息を切らしながら縁側へと走りこんできた。
「お、い…!お前さんら…!!」
肩を上下させながらも口を開く源さんの手は文のようなものを握りしめている。
源さんの表情とそのくしゃくしゃになった文に。
そして聞かされた事実に。
その場にいた私たちは誰も息を飲み、ただただ立ち尽くしたのであった。
***
「嘘だろ…あの山南さんが…」
あの山南さんが二度と刀を握れねぇだなんて…
そう呟くように言った平助の言葉は、しぃんとなったその場に静かに響き渡った。
先程までの陽気な雰囲気が嘘のよう。誰もが拳を握り、唇を噛み締めていた。
「山南さんをやった奴はその場でトシが斬り捨てたらしいが…どうやら不逞浪士に見せかけた長州の刺客だったらしい」
「クソッ…長州め!」
源さんから渡された歳さんからの早文を読んだ新八さんが、ダン!と柱を殴る隣で少し心配そうな顔をした左之さんと視線が交わる。
「由香…」
彼は気が利く男だ。きっと歳さんが刺客を斬り捨てた、という源さんの言葉に対して私に対するフォローの言葉を口にしようとしているのだと思う。
でも今はそんなことどうでもよかった。
大丈夫です、と小さく頷くと、くしゃくしゃに投げ捨てられた早文を広げ目を通す。
すべてを読めるわけではないが、『山南敬助、大坂船場岩木升屋にて襲撃されたり』と歳さんの字でそう書かれているのが確認できた。
山南さん、が…
真っ先に頭に浮かんだのはなぜか長州の桂さんだった。
長州のためなら手段を選ばない。もしかしたらこれもそんな彼の差し金なのかもしれない。
そう思うと悔しさにも似た怒りがこみ上げてきて、ギリリと奥歯を噛み締めた。
命だけでも助かってよかった。
そう思うのが普通だ。
普通だけど、その普通はこの時代では通用しない。
特に刀を握ることがすべての"侍"は。
最期まで刀を握ることを本望とする侍がもう二度とそれを握ることができなくなったら…
山南さんはもうすでにその事実を知っているのだろうか。
徐々に差し込む日の光が雪に反射し、目を細めた私は茫然とそんなことを考えていた。




