第五十九話 貴方が教えてくれたもの
―――ゴォーン…
「お、始まったか!」
「この除夜の鐘を聞くと大晦日だっつーのを実感するよなぁ」
「ほら、由香も酒ばっか呑んでないで蕎麦食え。伸びちまうぞ」
左之さんから渡された丼に入った蕎麦。覗きこめば芝海老のかき揚げが乗っていてとても美味しそうだ。
持っていたお猪口を置いて一口啜れば、呑みすぎた私には調度いい味付けで濃い出汁が身体に染みた。
近くの壬生寺では除夜の鐘が突かれ、その趣ある澄んだ音が屯所中に響き渡った。
つーか、この時代から年越し蕎麦や除夜の鐘があっただなんてなんだか感慨深いものがある。
しかもそれをリアルに聞いている私は未来に帰ったら人間国宝間違いねぇだろうなぁ…なんて。
一年近くこの時代で生きてきた私。
戸惑いやホームシック、この時代に対しての嫌悪感とかすっげー色々あったけど、今は不思議と帰りたいと思わない。
それは歳さんやら他の皆とこのまま一緒に生きていきたいからという気持ちもあるけど、別の理由…そしてそれが元の時代に帰りたくない一番の理由だということに最近薄々と気付いてきた。
でもたまに無性にテレビやら車やら電車やら、文明の喧騒が懐かしくなるのもまた事実。
そういや去年の今頃は『笑ってはいけない』を見ながら当時のノリだけのメンズと酒盛りしてたなぁ…。そのあとはきゃっきゃうふふと盛ったけどな。
「まだお酒呑みたい人います?私、作ってきますけど」
「んじゃ俺頼む!」
「新八、お前呑みすぎじゃねぇか?ま、俺も頼むけどな」
「わりぃ由香!俺も!」
「はいはい。いつもの三バカですね」
「おい!なんだそりゃ!?」
追いかけてくる裏返った声と周りの笑い声を背に勝手場へと向かう。
深夜というのもあって、広間を抜けた屯所の中は暗闇が支配き、廊下の軋む音と鐘の音だけが耳に届いた。
…思い返せば…あの頃の私は本当にノリと勢いだけで生きていて。
テキトーな女友達とつるみ、化粧で作り上げた顔と身体。そしていつもよりワンオクターブ高い甘えた声を武器に、毎日のように開かれる大手の商社マンや医学生、モデルなどとの合コンに出席していた。
もちろんその中にイケメンや金持ちがいれば尻尾振ってついていく。そしてそのままきゃっきゃうふふのワンナイトラブ…朝起きたら「あんた誰だっけ?」なんてのもいっぱいあった。
私だけじゃなく、回りの友達もそうだったからそれが当たり前だと、そうしなくちゃならないと思っていた。
毎日毎日、繰り返される「あの男とヤッた」「アイツは下手くそでハズレ」「今回はアタリ」などのくだらない会話。
愛のない欲にまみれただけのセックス。
その時はそれなりに楽しかったし、充実した毎日を過ごしているつもりだった。
けれど私の心が満たされることはなかった。でもそれに対しても何とも思わないし、大学生活なんてこんなもんかって。諦めにも似たような感情を抱いていたっけ。
そして…
見上げる空はいつも色のない空だった。
なみなみと酒を注いだ徳利を水を張った鍋に並べ火にかける。
最近覚えた火おこしも随分と様になってきた。私の順応性は大したもんだと我ながら思う。
時折カチャンとなる徳利の音と除夜の鐘の音だけが耳に届く。
ああ、とっても静かだ。静かだからこそ余計なことを考えてしまう。
…いつも一緒にいる皆と同じことを。同じことをして同じような格好をして。そうしないと流れに置いていかれる気がしてた。それは女の子独特のお友達ごっこというものだろうか。
でも…いつからだっただろう。
そんなお友達ごっこに何か違うと違和感を感じ始めたのは。
この中に自分の居場所がないと気付いたのは。
苦痛だった。皆に合わせることが。
辛かった。それでも一人で行動できなかったことが。
大嫌いだった。そんな自分が。
でも…
「何か手伝うかァ?」
「!」
鍋の中で揺らめく徳利を見つめ、自分の世界に入っていたからだろうか。
すぐ背後にあったその気配に全然気が付かなかった。
「歳さん。いえ、大丈夫です。それよりどうしたんですか、勝手場まで」
「別に…なんともねぇさァ」
別に…なんて、時の人の発言じゃないか。
それにいつもよりも江戸訛りが強く出てるなんて、もしかして歳さん…
「…歳さん。もしかして酔っぱらってます?」
「ああ~?酔ってねぇよ」
そう言いながら背中に絡み付いてくるこの男。こんな人目につく公共の場でこんなに甘えてくるなんざ、絶対に酔っぱらってるに違いない。素面の時のこの男はそーゆーところは絶対に抜け目ないはずだもの。
「大晦日だからって呑みすぎたんじゃないですか?もう部屋に戻ったほうが…」
「だから…酔ってねぇっつってんだろ」
その言葉と共に絡み付いた腕に力が入り、ギュウと抱き締められた。
ちょ、酒のせいで力コントロールできてねー。痛い、痛い…
「ちょっと、歳さん」
「おめぇよぅ…、何考えてた」
「は…?」
「だから何考えてた、今さっき」
…酔っぱらいは言うことが唐突だ。
主語や述語なんかもしっかりしてないから、話をふられたほうはもうこりゃわけワカメです。
…よし。今後私も気を付けなくては。
「別に。何も考えてませんよ」
「嘘つくんじゃねぇ。おめぇ、泣きそうな顔してたじゃねぇか」
「泣きそうになってなんか」
「帰りたくなったか?未来に」
息が止まりそうになった。
帰りたいわけじゃない。むしろ帰りたくない。
でも歳さんから出てきた"未来"という言葉。
最初こそ数回、それこそ1、2回ほど未来に帰りたいかと聞かれたことがある。
「帰りたくても帰る術がないじゃないですか」
そう笑って答えてきたのだが、ここ最近は聞かれることはなかった。
だけど、なんでまた急に……
「……としさん、」
口を開けば思ったより声が掠れた。
思わず喉を鳴らせば「由香」と小さな声が背中でくぐもった。
それがなんだかくすぐったくて。ピクリとなった私の身体を再び歳さんは抱きしめた。
「帰るんじゃねぇ」
「え?」
「帰らせねぇよ」
「…としさん、」
「おめぇの居場所は俺の隣だァ」
……涙が出そうだった。
その言葉に。
ずっとずっと欲しかったその言葉に。
私の居場所はどこにもなかった。
家にも。
大学にも。
バイト先にも。
友達の輪の中にも。
ずっとずっと…
探していたの。自分の居場所を。
欲しかったの。自分の居場所が。
堪えていた涙が頬を伝うのがわかった。
「……帰りません。私の居場所は歳さんの隣だけ、だから」
「……泣いてんのか」
「泣いてません!」
そう一際大きな声を出せば、どうやらその声は震えていたようで、歳さんは「馬鹿だな、おめぇは」と笑い、親指でそっと唇をなぞった。
塞がれた唇はとっても酒臭くて。「…酒臭い」と言えば「おめぇもな」と再び笑った歳さん。ムードのへったくれもなかったけどすごくすごく幸せだった。
徳利の口まで酒が上がり、カチャカチャとそれを揺らす。その音となんだか卑猥なリップ音だけが勝手場を包み込んだ。ああこれ、このままここで始まっちゃうんじゃねーか、なんて。
それは私の戻りの遅さを心配した山崎くんが勝手場に来るまで続いたのだった。
まぁそのあとは想像通りといいますか。
顔を真っ赤にした山崎くんから「場所と人目をわきまえる」ということはなんぞやとお咎めをくらいました。もちろん歳さんもね。
皆には正月そうそうご盛んだなと笑われたけど。
…今まで生きてきた中で、こんなに本気で泣いて本気で笑って本気で人を好きになったことなんてなかった。
いつだっただろう。
歳さんに連れられ、この時代で見上げた空は綺麗な綺麗な透き通るような水色で。
あぁ、空ってこんな色だったんだって。
そう教えてくれたのは紛れもない、今隣にいる歳さんと、ここにいる新選組の皆だったんだ。
私の居場所はここにある。
だから帰らない。
橙色の太陽が顔を見せ、綺麗な水色に溶けていく。
そんな空を見上げながら始まった文久4年の年明け。




