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サラバ幻想

作者: あおぶた
掲載日:2013/08/09

   サラバ幻想

                    あおぶた              


World 1


 もう一度、旅に出ようと思った。

 準備にそう時間は掛からなかった。今度の旅では、怪物を一刀両断にしてしまう剣も、怪我をしたときに付ける傷薬も、特別な工具も要らない。今のボクが最低限持っていれば良いものは、前の旅でも使っていた装束と、片道分のお金、それに引きだしから見つけた指輪ひとつくらいだった。

 ドアを閉める前に、ボクはもう一度だけ家じゅうを歩き回ってみることにする。もう随分と年季が入っていて歩く度に床板がギシギシいったけれど、騒がしかった来客の名残がまだ所々に残っていた。昔よくこの家に勝手に上がりこんでは、暖炉の横で居眠りしてたっけ。そういえば机の端が焦げているのも、手料理を振るまってやると意気込んでボヤ騒ぎになった時のものだ。あれは――云々。

 でも、それらすべてを持ち出すことなどできなかった。だから最後に全体を見渡すと、ボクは目を逸らしてそれっきりもう見ないことにした。外に出ると、そっと鍵を閉める。


 †


 街に降りるのは久しぶりだったので、人の多さに少しクラクラした。至る所で商人が市を開き、野菜やよく分からない壺を掲げて大音声を上げている。人々はその間を巡り、お喋りに花を咲かせては楽しそうな声を出していた。管楽器の音もどこからか聞こえたが、残念ながらその名前がボクには分からない。

 長い間恐怖政治を続けていた王が死に、世界を支配していた帝国が滅んで数か月が経っていた。この街では未だにお祭り騒ぎをしているらしく、屋根と屋根の間に張られた縄からは、多彩な布がヒラヒラしていた。

 何人かに声をかけられたので足を止めていたら、いつの間にか街の皆々に囲まれてしまった。おかげで、中央にある噴水広場まではそう遠くないのに、何倍もの時間を要してしまう。皆との別れをたっぷりと惜しんでから、ようやく吹き上げる水の破片が顔にかかる場所まで辿りついた。

 『×××年、二人の勇者が世界を救う。その名は、シオン。もう一人は、アザレア。人々は、決してこの名前を忘れないだろう』

 噴水の中央には、そう記された新しい碑が立っている。帝国が滅んでから作られたものだ。ボクはその正面に両膝をつくと、刻まれた文字をそっと指でなぞった。指を進めるごとに、水の落ちる音が小さくなってゆく。頭の中で砂鉄が弾け、心臓に次々と付着しては離れなくなっていった。文字を最後までなぞる前に、指を離してしまう。

 背後に、人の近づく気配がした。

 振り向くと、懐かしい顔が視界に飛び込んだ。

「おばさん」

 おばさんは微笑むと、昔と変わらず揚々とした声をかけてくれた。

「まあ、シオンじゃないかい!」

 おばさんは、少し年を取ったみたいだ。小さい時なんかはボク達の遊びに付き合ってくれたこともあったが、今のおばさんの背中は少し丸まってきていた。

「いやあ、シオンが街に出てきたって聞いてねえ。たぶんここにいれば来るだろうと思ってたら、いやあ上手く会えたから良かったよ」

「ボクも、おばさんには会いにいこうと思ってたんです。……これから、旅に出ることにしたので」

 おばさんは少し驚いた顔を見せた。でも結局、「そうかい、」という言葉だけが口元から出てきた。

 おばさんの背後の方角、街の遠く向こうに、翳りがあるのが見えた。それは黒い霧みたいに見えた。まだ遥か遠くの方だったが、確実に霧が見えた。おばさんもボクの見ているほうに目をやった。そしてその姿を確認すると、小さくため息を吐いた。

「とうとう来たね。《黒》のやつが」

「――はい」

 少し、目の奥がツンとなった。

「ボクの家はたぶんもう、《黒》に飲まれました」

 現実なんてそんなもんなんだ。

 この街も遠くない未来、《黒》に飲まれすべてが黒に帰すだろう。それが、世界の理なんだ。勇者は、数多の苦難を乗り越えて、遂に最後の敵である王を倒した。だからもうこの物語は、《黒》が万物を無に還すんだ。そんなことくらい、南の島の子供たちだって知っている。

だからこの旅には、復路が無い。行って、それでおしまい。だけど、「何にも残らない」は自分の中で禁句にしている。

 おばさんがボクの手を自分の両手で包んだ。とても、温かかった。無自覚だったが、もしかしたら指先が震えていたのかもしれない。

「わたしはね、シオン。ここで最期を迎えることにするよ。どうせ遠出できる身体じゃないから、それなら生まれた街に抱かれて、無に還りたい。そんなババがシオンに遺せる言葉があるとすれば……そうさね」

 おばさんは、さっきよりもゆっくりと微笑んだ。

「あの娘は、アザレアは、シオンといる時に一番笑ってたよ。あの笑顔は、そこに花が咲いたみたいだったねえ」



World 2


 潮の香りがする。

 潮の香りの正体が何たるかは、今もよく知らない。魚と貝と排水を混ぜたら、こんな香りになるのだろうか。ボクは貝がちょっと苦手だ。あいつは貝も好きだったが。

 ここまでは陸地続きだったので徒歩で何ら問題なかったけれど、隣の大陸に移るためには海を渡らないといけない。船の寝心地は決して最高とは言えないが、甲板に出て真正面から風を浴びるのは好きだ。

 定期船が出発するまでには、まだ少し時間があった。昔の記憶を頼りに、港から一本入った道を進む。隅っこのほうには、漁で使うブイやら、褐色の網やら、よく分からないものが散らばっていた。それらは規則性を持って陳列されているようにも、無造作に放ってあるだけのようにも見える。あそこに見える空き瓶の塊も、もしかしたら何かに使うものかもしれない。そうやって、モノに意味づけをしようとしてはすぐに投げ出すという雑事を繰り返していた。

 気づけば、周りの建物より更に古いそれに行き当たった。半開きになっているドアの隙間から、水蒸気と食べ物の匂いが漏れてきている。

 ドアを開けてみると、部屋の真ん中でスープが煮込まれていた。その様子を、ひとりの男が座ってじっと見つめている。水兵だろうか。他に人はいなかった。

「あの、こんにちは」

 水兵は顔を上げた。三十歳くらいだろうか。

「んん? なんか用かい?」

「ええと……ここって確か、前はレストランじゃなかったですか?」

 机や椅子は、積み上げられて隅の方に押しやられていた。奥に見える棚には、薄く埃が積まれていた。あの中には、かつてボク達の眼前に披露された食器が、静かに眠りについているのかもしれない。

「ああ、それなら、ここをやってた爺さんが死んじまってね。一年くらい前から、ずっと空き家さ」

 この港に来たからには、この店の魚料理が食べたかった。今日だったら、追加で貝柱のグラタンも食べられる気がしたのに。

 まあ座んなよ、という言葉に素直に従う。水兵はスープを二つの皿によそうと、片方をボクに差し出した。

しばらく、食器のカチャカチャという音だけが部屋に響く。

「あんた、ひとり旅かい?」

 はい、とだけ答えた。

「しかし、一人じゃつまらんだろ。どうせなら、美人の女でも引き連れてっちゃどうだい? 兄ちゃんみたいなイロオトコなら、二言三言でコロッといっちまうと思うぜ」

「連れはもう、いないんです」

 この科白を言うのは、もうこの旅で七回目だった。

 ボクは微笑んだつもりだったが、それがかえって良くなかったらしい。この人を責める気持ちはまったく無かったのに、水兵は「しまった」という顔をした。

「す、すまねえ。つまんないこと訊いちまって」

 代わりにオレの話をするからよお。そう言うと、彼は自分の食器を床に置いた。その場で立ち上がる。

 そして、おもむろに上の服を脱ぎ始めたのだ。

「っわ、ちょっと、何やってるんですか!」

 ボクは思わず、自分の身体を守る姿勢に入った。

 やがて彼のやや肥えた腹が出てくると、肌から黒い布が見え始めた。両腕を抜いて服を投げてしまうと、その黒い布の正体が露になる。

 水兵の身体に巻き付いていたのは、黒いブラジャーだった。

「これなあ……」

 水兵は、ブラジャーを見下ろした。高級品、という訳でもないみたいだが、節々の刺繍には凝ったものが感じられた。

「笑ってやってくれ。これ、死んだ女房がつけてたやつなんだよ。あいつが死んじまってからなあ、何かこう――風が、寒くて仕方ねえんだ。ずっと風邪ひいてるみたいでさ」

 水兵は、入口の方に目をやった。

「んで、そんな状態のまま、今度は世界が終わっちまうときた。どうにもやりきれなくてなあ。消える時、女房と一緒に消えたくて色々探したんだけど、最終的にはこうなっちまった」

 建物の外が、徐々に人で賑わってきたようだ。船に荷物を詰むのも、そろそろ終わるだろうか。

ボクは、自分の左の親指に光る指輪を男に見せた。

「もらったんです」

 やっぱりお前はイロオトコだ、と彼はゲラゲラ笑った。

「女房の名前は、ハルってんだ」

 きっと、美しかったんだろう。

「ハルジオンのハルですね」

「なんだそりゃあ?」

 水兵の目から流れるものがあるのは、ゲラゲラ笑ったせいだろうか。改めてスープを啜ってみると、レストランのより少ししょっぱいような気がした。


 

World 3


 寒い。

 ――どこを目指したら良いんだ?

 吐いた息はすべて、白い煙となって雪原の白と一体化していった。

 船を降りて、もう何回太陽が沈んだだろう。降りた時に見えるはずだった向こう岸は、《黒》に覆い尽くされていた。その光景を見てから、港の元レストランにいた男が頭から離れない。

 前にこの雪原を渡った時は、二、三日で雪が切れる所まで来れた。さらにそこから少し行けば、皇帝と戦った遺跡が見えてくるのだ。太陽光が銀の地面に反射して、てらてらと長髪が光っていたのを思い出す。彼女の髪は真っ直ぐだった。暖を取るため身体をくっつけてきた時、初めて気が付いた。

 なのに、今回はいくら進んでも切れ目が見えてこない。

周りを見渡しても、同じ景色がぐるぐる取り囲んでいるだけだ。水も食べ物も、数日前に尽きていた。正直、次の夜を凌ぐ準備も、体力も残っていなかった。

体温が下がってくる。なのに、一向に手掛かりが掴めない。近辺に見えるものといったら、自分の足跡くらいだ。その足跡ですら、風と雪にあたって遠くの方は既にかき消されていた。

 それでも容赦なく、月は昇ってきた。四方を見ると、白い靄が中空に向かって手を伸ばしている。もうこうなると、黒い霧も、白い靄も、たいして変わりないんじゃないだろうか。さっきから足はもう動いてなかった。

 星を見よう、と思った。世界の一番遠くまで続いている星たちを。氷の上に寝そべるのは、最初はかなり苦痛だったが、それでも徐々に、ひんやりした布団くらいにも思えてきた。全身を氷上に投げ出す。

 静かだ。ただ満天の星空だけが目に映っていた。流れ星でもないかな。全体をゆっくり見回す。月を視点の中心に持ってくると、まるで月がやったらめったらに星を泣き散らしているようだった。でもその煌めきに手を伸ばしたって無意味なことは、よく分かっていた。

 白い靄は、空まで届いた。靄は一つの大きな帯を作ると、中空でしなやかに身体を動かした。綺麗、なんて言葉で縛るにはあまりにもったいない。その正体がオーロラだと気付くのには少し時間が掛かった。――ここがゴールだって構わない。《黒》に飲まれる事実が動かないのなら、その前に、恍惚の底に沈んでしまおう。



 数多の暗黒と、一握の靄の中に、一輪のシオンが咲いていた。


 †


 ――微かに、顔の右側が熱い。

 少しの間、そのまま目を閉じていた。風の音は、どうやら遠くの方で唸っている。

 いや、ちょっと待て――そもそも、ボクがまた目覚めるということ自体かなり異状だ。いまさっき、ボクは雪の中に沈んだのではなかったか。

「ふん。気が付いたかい」

 頭を右に向ける。顔の右半分が熱かったのは、炎がゆらゆら蠢いているせいだった。そのさらに向こうに、人の姿がある。

 少し身体に力を込めてみた。うん、思ったよりは軽い。そのまま上半身を起こす。

 左右の岩壁は天井を形作っていた。その天井を左にずっと追っていくと、雪景色が洞穴の入口から覗いている。この焚火付近を除いては、ただ広い空間が無表情にのさばっているだけだった。

 向かいに座る老人もまた、表情に乏しかった。老人の後ろにある、あの肉は何の動物だろう。ひとしきりの生活用品もある。厚手のコートに身を包み、豊かな白い髭の上から、二つの目がじっとボクを見つめるのだ。

「助けていただいて、ありがとうございます」

 老人は口のみを動かす。

「助かろう、っていうようには見えなかったが」

 返答に詰まった。しばらく、会話が途切れる。

そのまま、炎が安らかに燃え続けているのを、互いに眺める。ゆらゆらと炎の熱が、顔を焼く。腕を焼く。

「もう……あそこで良いかなって、思っちゃったんです」

 老人は薪を足した。

「今は、この炎を、熱を身体のすみずみまで浸透させるんだ。さっきまで、ほとんど凍っていたんだから」

 ゆらゆらと、身体中を焼いていく。手指の感触が強くなってきた。親指もちゃんと付いていた。止まりそうなほど脆弱なものだと思っていた自分の血流が、不確かでもなんとか環を為そうとしているのが分かる。

 そして紛れもなく、身体は熱に悦んでいた! もうすぐ終焉を迎えることになんて無頓着なのか。そんなにボクの身体は愚鈍なのか。彼らは、ただこの瞬間にのみ訪れる生に悦んでいた。でもボクは一度諦めた身分だから、そんな彼らを批判することなんて到底できない。

「この洞穴の一番奥には、私の妻が眠っている」

 老人は、炎に語りかけているかのように呟いた。

「葬式はやらなくていいから、雪に埋めてくれ、と言われた。まったく、年寄りになんて重労働をさせるんだ」

 穴の奥の方は、真っ暗になっていて全然見えなかった。ここで老人は、初めてちょっと笑みを見せた。ニヤッ、という表現がぴったりな。

「婆さんの死体は、誰にも見せんよ。そうさ、若いもんは、一休みしたらまた歩き出してもらおう。雪原の誇りと哀しみなど、若いもんには十年早いさ」

 老人は、小包をひとつくれた。中には、水と食べ物、さらに雪原から出るための地図まで入っていた。

 ボクは、自分の両頬を思いっ切り叩いた。パシンッ、と乾いた音が響きわたる。

「おじさんのこと、きっと忘れません」

 忘れてくれて結構、と老人は手をヒラヒラ振った。


 †


 物語の最後の舞台となった巨塔は、今や死んだように静かだ。かつての王との戦いなど、まるで夢だったかのように。広い広い平原にただ一つだけ刺さったようなこの建造物に、少し強い風が吹いていた。

 もう、どこを見渡しても、《黒》によって地平線は見えなくなっていた。揺らぎなく、迷いもなく、一定して《黒》は距離を縮めてきている。今宵の月は、どうやら拝めそうになかった。

 アザレア。



World’s End


 塔の中もまた、自分の足音の他に響くものはなかった。強いて言うなら、時々身体が蔦にぶつかって、その葉がゆさゆさと上下するくらいのものだ。

螺旋状の階段が、塔の壁づたいにてっぺんまで伸びている。ただその終点は、下からではよく見えない。所々壁が崩れていて、風がヒュウヒュウと通り抜けている音がする。ボクはひとりぼっちだった。

 結局、何ひとつ形にならないままにここまで来てしまった。ボクらが辿った旅路を繰り返せば、何かが、何かが生まれるんじゃないかと、そんな漠然とした目標を掲げて、そして目を背けてたんだ。――みんな、《黒》によって無に還った。日差しどころか、もう、雨さえも降らなくなるんだ。

 チルリ。

 その音は、突然足元から響く。高く澄んだ音は、螺旋状に続く階段の間を昇っていって、そして消えた。

消える時、ボクの真横で、小さな肩が上下しているような幻を見た。

 目の前に、小さな鈴が転がっていた。さっきの音は、この鈴を蹴ってしまった時のものらしい。ボクは鈴を拾いあげると、すぐに服で汚れをゴシゴシとこすった。服が汚れるのは気にならなかった。そして、耳元でそれを揺すってみる。

 チルリ。リリン。

 音はまた、中空へと解けていった。

 小さな肩に、靡く髪がふわりとあたった。首筋がそっと動く。そして小さな唇が、ボクに向かって優しく動くのだ。


 ――しおん。



 †



 ボクは階段を昇りだした。一歩、また一歩と踏み出す度に、足の進む速さは増していった。腕も大きく振るようになった。立ち止まると、そこで蓋が開いてしまうような気がして! 目の前を、小走りで駆け抜けた、肩が息衝いた、顔を上げた、髪が浮いた、目が合った、笑った! ボクは走りだした。階段をぐるぐると。姿勢などどうでもよかった。ただ身体の動く限り、手足を前に出した。

 一瞬、身体が宙に浮く。身構えるより前に、顔からずっこけた。頭がガンガンする。口の中の砂が気持ち悪い。もう、足をメチャメチャに動かすことだけに没頭した。上へ、上へと!



 再び、足が空回りした。両膝をつき、そのまま両手を地面に置く。息切れが止まらない。汗のせいで身体が強度の熱気を持っていた。ぐちゃぐちゃなのはお構いなく、顔を上げる。

 空が見えた。

 気づけば、階段は終わっていた。二回目に空回りしたのも、そのせいらしい。塔の頂にある広場に、ボクは一人座り込んでいた。

 《黒》は、塔から百歩もないところまできていた。頭上の空も、残すところは小さな円形を残すのみになっている。残された空の環は、だんだん小さく、小さくなっていた。

 彼女はこの広場で死んだ。そう、あの、真ん中の辺りで。ボクとアザレアは王と対峙し、そして、アザレアは王を巻き込んで粒子となった。ボクの目の前で、光の粒となって風に消えた。もう無くなってしまいそうなこの空は、彼女が作ったものなんだ。

 せめて、あそこで死のう。

 這うように進む。身体も役目を終えたらしい。広場の端から、黒い霧が中に入ってきた。

 中央部が近づいてくる。するとどうだろう。何か赤いものが揺らめいていた。さっき見た時は、全然気がつかなかった。色彩はあまりに鮮明だが、視界が霞んでてよく分からない。手で触れられるところまで来て初めて、その正体が分かった。

 アネモネの花が、十輪以上は咲いていた。前の旅の時には無かった。赤いアネモネは、こんな場所でもしっかりと花弁をつけていたのだ。

 そして。その中に、桃色の花が一輪あった。それは折れることなく、空に向かって真っすぐ伸びていた。ボクは震える指先で、花をそっと撫でる。

「スターチスだ――桃のスターチスだった!」

 そして、涙が零れ落ちる。それを、注げる分だけ花たちに注いでやった。花弁が揺れる。最後の空の光が、葉についた雫に少しだけ反射したのを、ボクは決して見逃さなかった。ボクは小さな花畑を抱くように座ると、それから身体を動かすことを止めた。


 †


 ――足元が、砂のように消えてゆくのを見た。腕がなくなってゆくのも見た。そして、そこから先は、何が何だか分からなくなった。



 すべてが終わった世界で、スターチスの花がただ一輪、咲いていた。


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